Infinity 第三部 Waiting All Night74

小説 Waiting All Night

「なんだ!」
 春日王子はそう言って跳ね起きた。
 体を起こしたが、誰もいない。急いで周りを見回してもやはり誰もいなかった。
 誰かに呼ばれた気がしたが、それは自分の夢を現実と取り違いしたようだ。
「……ははっ……」
 春日王子は落ちそうな頭に手を添えて支え、嗤った。ひとしきり、自分の心の弱さを嘲ると、やっと周りの様子に目がいった。誰もいない寝所。几帳の陰には舎人ひとりも控えていない。
 昨日の自分の剣幕をみたら、誰も寄り付かないか、と春日王子は一人納得した。
 邸の者がいないが、自分を捕らえるための兵士もいなかった。深夜の予想では、自分を謀反人として捕らえるために派遣された兵士たちが押しかけていると思ったのだが。
「……王子?……お目覚めですか?」
 庇の間に足音を忍ばせて、控えめな声が春日王子に問いかけた。
「ああ、起きている。……邸に変わった様子はないか?」
「可輪若(かわわか)様が先ほどお見えになりました。部屋でお待ちいただいております」
「……んん。わかった。支度する」
 ゆっくりと起き上がると、侍女が洗顔のための盥を用意して水を入れ始めた。井戸から汲み上げた水は冷たく、昨夜の自暴自棄になりかけた自分の頭をしゃんとさせる。髪に櫛を入れて綺麗に整え、上着を着て帯を結ぶと幾分気持ちが切り替わった。
 待たせている可輪若は、春日王子陣営の中では一番頼りにしている臣下だ。部屋に入って行くと、至極泰然とした姿で振り向き、春日王子に平伏した。
 春日王子は頷いて、可輪若の前に座った。
「……何を」
 しに来たのか、と言外に言った。
「昨夜の宴が終わった後、哀羅王子との間に何かありましたか?何人もがあなた様と哀羅王子……それと、岩城実言との追いかけっこのような姿を見て訝しんでおりました」
「そう?そんな大騒ぎだったかな?」
「あなた様の従者が転げたり倒れたりと、少し大きな騒ぎになっていました。あなた様もその後ろをついて歩いておられた。多くの者が何事かとみておりましたから。我々の陣営の者たちも、哀羅王子と岩城が共に動いているのを見て怪しんでおります。これは、あなた様の何か作戦なのか、それとも……」
 哀羅王子は、あなたを裏切ったのか……とこれも言葉にはせず言外に問うた。
「……哀羅は、私から離れて行ったよ」
 春日王子は、可輪若から視線を外して、横を向くと吐き捨てるように言った。
「哀羅王子があなた様から離れたと?」
 そう問われたが、春日王子は横を向いたまま無言である。
「我々は劣勢に立たされたが、まだ負けたわけではない」
 やっと言葉を絞り出した。哀羅王子がいないというだけでなく、岩城と手を組んでこちらに刃を向けたということを認めなければならない。
「哀羅は殺すよ。裏切り者を生かしておくほど私は優しくない」
 春日王子は冷徹な声で言って、その後可輪若に顔を向けて。
「お前は、とても冷静な男だ。私はお前を頼りにしている。私は自分の判断に自信がないわけではないが、お前に助言を求めることもあるだろう」
 と、不遜な態度で言った。
「私の思いに変わりはありません。あなた様の考える世を求める者でござます」
 可輪若の恭順な姿に表情は変えないが、春日王子は黙ったまま胸を熱くし感激した。
「しかし、地方の豪族には早めに用意をさせておく。何が起こってもおかしくないように」
 春日王子は、可輪若に我々の名を連ねた連判状が、岩城の手に渡ったことは言わなかった。それを言ったら、これほど落ち着いた男でも、今と同じ顔つきではいられないだろうと思ったのだ。
「お前から、近江の高階(たかしな)や、鎌瀬(かませ)に遣いをやってくれ。馬を集めてたり、兵糧を蓄えたりしておいた方がよい」
 春日王子は、大きな湖の近くを治める豪族たちの名を言った。その湖の近くに春日王子の領地があり、豪族たちを配下に入れたのだった。
「はい」
 可輪若は、低い落ち着いた声で返事をしたが、じっと王子を見ている。
「なんだ?」
「迷われませんように。迷えば、道は途切れます」
「迷った顔をしているかな、私は」
「いいえ、今のあなた様に迷いなどありません。しかし、これから我々の陣営も荒れるでしょう。あなた様も我慢と忍耐が必要になると思われます」
「そうだな。動揺などしてはけないな。お前の助言を心に留めておく」
 可輪若は黙って頭を下げた。
「こんなに早くここにやってきて、お前は眠れたのか?」
「いいえ、しかし、私はこれから仕事がありますので」
 首を振った可輪若は刑部省の高官であった。
「そうか、早々に仕事を終わらせて休め。私はもう一休みさせてもらうよ」
 そう言うと、春日王子は立ち上がり、自分の寝所へと引き上げて行った。
 寝所に入ると、庇の間の几帳に影が差した。舎人が様子を窺いに来たのだ。
「眠たいから、また寝る。起きたら呼ぶ」
 短い言葉に返事の声もなく、影は遠ざかって行った。
 春日王子はゆっくりと褥の上に横たわり、この先のこと考えた。
 岩城はどうするつもりだろう。あれをどう使おうか考えているのか。確かに、あいつらにとってはあれがある限り、焦ったことはない。
 春日王子は考えた。
 あれを効果的に使えば、私を葬ることなど容易いことだ。大王も弟を我にたてつく謀反人とせざるを得ないだろう。
 あの書状で殺される者と救われる者がいる。殺される者とは、今は私だろうし、救われる者が誰かと言えば哀羅だろう。王族として生きるために、自分の過ちを告白し、大王に許しを請うのだ。岩城も王族の地位を哀羅に守らせたいのだろう。だから、あの連判状をどう使うか考えているのだ。
 やはり、哀羅を生かしてはおけない。岩城の隠れ邸に匿われたようだが、どうにか見つけ出さなければ。そして、裏切りの代償を払わせる。
 殺される者と救われる者が入れ替わることはできる、自分の手で。
 春日王子は褥の上で寝返りを打った。
 一人寝は寂しい。温かなものを体全体で抱きしめてゆっくりと休みたい。温かなものなどと遠回しなことを思ったが、はっきりと言えば女人の体を抱きたかった。だが、誰でもいいという気持ちにはならない。
 春日王子が思い浮かべる一人の女人がいた。傍に来てほしいと遣いを出したら、危険を冒してでも、来てくれるだろうか。
 春日王子は仰向けになり、腕枕で天井を見上げてぼんやりと考えていると、いつのまにか睡魔に引きずられて眠りに落ちた。

 実言の後ろに着いて、礼は部屋に入った。周りを几帳に囲われた中に、哀羅王子が寝かされていた。左右には舎人と侍女が控えていて、額に浮いた汗を拭きとっては、王子の小さな息遣いを窺っていた。
 実言たちが入って行くと、両脇の二人は膝立ちになり、その位置を二人に譲った。
 礼は哀羅王子が矢を受けた左腕の前に座った。応急処置で、腕をまくり上げて白布を巻いている。その腕に手を置いて、反対側に座っている実言を見上げた。実言は、頼むというように頷いた。
 礼は巻いた布を解いた。腕に横に走る裂傷が見えた。また傷から赤い肉がのぞいている。礼は水を持ってきてほしいと頼んだ。すぐさま、たっぷりと水を張った盥が運ばれた。
 礼は意を決して傷口を洗い始めた。小さな盥を腕の下に置いて、その中に汲んだ水を腕の傷口に掛けて容赦なく洗った。
 気を失っている哀羅王子は、その痛みに思わず呻いた。しかし、礼はそれを気にすることなく洗い続けた。その後、清潔な白布で拭いて、薬箱から薬壺を出して練った薬を指にとって塗り込んだ。そして、桑の葉を一枚載せると、白布を置いて巻いた。
「これを差し上げて。お水と一緒に飲ませて差し上げて」
 礼は小瓶を差し出した。実言と侍女が哀羅王子の頭を持ち上げて、受け取った舎人が小瓶の蓋を開けて哀羅王子の口元に持って行って飲ませた。その後、椀に入れた水をすぐさま侍女が口にあてがって飲ませる。
 哀羅王子は無意識に嫌がるように首を振ったが、実言が哀羅王子の顔を押さえて、無理にでも飲ませた。
「このまま、安静にして、ご様子を見ます」
 再び哀羅王子を褥の上に寝かせた。礼は哀羅王子の額に浮いた汗を拭いてしばらく様子を窺った。哀羅王子は苦しんで眉間にしわを寄せている。皆は心配そうにその様子を見ていたが、途中で実言が一人部屋を出て行った。
 礼は舎人に盥に新しい水を汲んでくるように言った。侍女にはもう一人侍女を呼びに行かせて、三人で交代しながら王子を看護していくことを話した。
 ほどなく、舎人が礼を呼びに来た。礼は離れた部屋に行くと、実言がみすぼらしい衣装に身を包んで立っていた。
「まあ、どうしたの?」
 礼は驚きの声を上げた。
「礼、私は邸に戻るよ。哀羅様が託してくださったものを確認しなくてはいけない」
 礼は、実言がこの別邸から一時でもいなくなるのに不安を感じた。
「父上にも話をしなければならない。話ができたらすぐに戻ってくるよ。それまで、哀羅王子を頼む。お前だけが頼りだ」
 礼はより表情を曇らせると。
「警備は万全だ。私は父上と話したら、再びここに戻ってくる」
 と実言は言って礼を抱いた。礼は夫の腕の中で、子供たちのことが頭をよぎった。
「子供達の顔を見てきて。一日会っていないのに、もう十日も見ていないような気持ちよ。私の代わりにあの子たちを抱いてやって」
「わかった。二人の顔を見てこよう。早くお前を邸に戻して、子供達に会わせてやらないとね」
 実言は微笑んで礼を見た。礼は、たまらず自ら実言の胸に顔を付けて抱き着いた。実言は何度も礼の頭を撫でて、ゆっくりと礼の体を起こした。
「では、行ってくるよ。お前は最高の医者だからね。哀羅様を頼む」

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