三輪山に陽が落ちかかる頃、すでに楽団が入って音合わせを終えて、最初に舞う少女たちが立ち位置を確認するのに舞台にあがって、皆で手を握りあって緊張をほぐした。実言たちも控えの部屋で武官の美しい衣装に着替えて、警備の位置についた。
夕闇が翔丘殿を覆う前に、大王と大后はそれぞれ輿に乗って王宮を出発された。続々と王子王女、そして他の王族たち、貴族たちが席について、大王がお出ましになるのを待つ。ほどなくして、大王と大后は翔丘殿に到着されて、中庭の正面の席に座られるのを皆でお迎えして、厳かな音楽の奏でが始まった。
哀羅王子は出発直前に起こった日良居の死で、翔丘殿に着くのが遅くなった。着いた時には、最初に舞を披露する少女たちの演目が終わっていた。王族の連なる列の一番後ろの席に座った。置かれた膳の上の食べ物は冷たくなっていた。
哀羅王子が着席して奥の上座に顔を向けると大王のすぐそばに座っている春日王子の横顔が見えた。お互いの裏切りと報復の結末を知っているのかと、哀羅王子はしばらく凝視したが、すぐに下を向いて女官が促す杯を取って酒を注いでもらった。
哀羅王子よりも遅れて翔丘殿に現れたのは礼だった。できるだけ静かに、王族が座る部屋へと入って行った。礼が入ると衣擦れの音で、大王の三番目の妃である碧妃が気づいて振り向いた。
「礼」
囁き声であるが、碧妃は嬉しそうに礼を呼んだ。
「遅いじゃないか。来てくれないのかと、心配した」
礼を心底頼りにしている碧妃は礼に手を伸ばしてきた。礼は膝で進みながら、その手を取って甲に額を付けんばかりに平伏した。
「申し訳ございません」
礼が頭を上げると、碧妃の膝の上からこちらを見ている幼い瞳と目が合った。有馬王子である。四つになった王子は、好奇心の塊のような表情を見せている。
「有馬様」
「有馬が眠るまで私の膝で宴を見せてやりたいのよ。露は宮殿でお留守番よ」
有馬王子の妹である生まれて間もない姫君の初のことを話した。碧妃は幼い有馬王子に目を細めて、楽しみましょう、と言葉にはしないがにっこりと笑って前を向くと舞台の上の舞と音楽に集中した。
義母の毬に全身を整えてもらってさあ邸を発つ、という前に礼は急いで子供達が眠っている部屋を覗いた。萩に対する凶行は子供達の部屋の前の庭で行われた。急いで部屋の奥に向かわせたが、その時実津瀬は眠っていたけれど蓮の泣き声は聞こえた。二人を危険な目に会わせ、怖い思いをさせてしまった。
礼は、少しだけあどけない顔で眠っている我が子を見てから、宴の席に行きたかった。
几帳の陰から眠っている二人をそっと覗くと、蓮は向こうをむいて眠っている。実津瀬はこちらへ顔を向けてうつ伏せに眠っている。礼は宴に行こうと心に決めた時、実津瀬が突然目を開けた。目ざとく、几帳の上からのぞく礼を見つけた。すぐさま起き上がって、歩き出したので、礼は几帳の陰から実津瀬の前に出た。寝起きの体で足がもつれて転びそうになったところを、礼は腕を伸ばして受け止めた。そして、自分の体に引き寄せて、膝の上に載せて抱き締めた。
「おかあたんま」
しっかりと立ち上がって礼の方へ歩いてきたのに、再び眠りに落ちて寝ぼけて言った言葉ははっきりとしない。しかし、礼にはそのはっきりとしない言葉は、自分を呼んだと分かっている。心地よいかわいらし声が心に沁み、先ほどまでの殺伐とした出来事から礼の心を勇気づけてくれる。
礼は柔らかい脱力した体をきつく抱いて、頬ずりした。そして、顔を離して実津瀬を見ると、実津瀬は眠っているがにっこりと笑っている。ついさっき、命が尽きていく萩をこの手で感じたからこそ、丸く温かく生き生きとした我が子の体は愛おしかった。そして、萩を死なせてしまったのに、死とは無縁の華やかな宴の席に行こうとする自分を酷いと思った。
しかし、これは闘いなのだ。楽しむためではない。萩の死を無駄にしないために、華やかな宴に潜む見えない闘いに挑むためだ。
礼は、我が子を抱き締めて、若い萩を守れなかったことを心の中で詫びた。そして、もう誰も死なせはしない。できる限りことをして、我が子、夫、一族皆を守ると誓うのだった。
「礼様」
後ろから澪が礼を促した。礼は、寝ている蓮を起こさないように、実津瀬を褥の上に下した。愛おしい者とのしばしの別れの辛さを振り切るように立ち上がって、車に乗った。
礼はこの華やかな宴を心待ちにしていたわけではない。どんなに美しく素晴らしい舞や音楽であっても上の空だった。不意に碧妃が振り向いて、大王の席の前にある階の方を指し示した。そこには、儀式用の武官の豪華な衣装に身を包んだ実言が衛兵として立っていた。
「兄様よ!今日も美しい姿ね」
碧妃はそう言ったが、奏でられている音楽や周りについている侍女達たちの囁き声が入り混じって、礼には途切れ途切れに聴こえた。しかし夫の姿を褒められていることはわかった。ぼんやりと舞台の方を見ていた視線を階の方へと移すと、階の下で左右に二人の衛兵が立っており、碧妃と礼が座っている側に立っている実言が見えた。
その姿を初めて見るわけではなかったが、いつ見てもはっとするような美しさだった。礼は夫の姿を確認して、碧妃に笑いかけた。碧妃も、自分が言ったことを礼が理解していることが分かって、微笑み返して前を向いた。
礼は、大王を守るために真っすぐに前を見据えている夫の姿を見つめながら、今日我が邸でどのようなことが起こったのか、どこまで知っているのかと思った。
実言は政争が起こることを礼に告げていた。それは、実言がその争いの中心に近いところにいるからだが、どこまでを予測していただろうか。少し前に邸では、信頼していた従者が裏切り者であることがわかり、ましてやその者が叔母の去から預かっていた娘を殺した。そして逃げたが、邸の者たちが邸の外まで追いかけて殺したと報告を受けた。二人の若者が死ななければならない争いとはどのようなものか。
夫に早く会いたかった。会って自分の粟立つ心を鎮めるような優しい力強い言葉をかけて欲しい。もっと言えば、そっとこの体を受けとめて支えて欲しい。こんな怖いことはもう起こらないと言って欲しい。
礼は思いつめると萩のことを思い出して涙が出てしまいそうになり、実言から視線を外して舞台の舞をじっと見た。
大王は、少し痩せられたお姿だが、話される声には張りがあり、左に座っている大后や右に座る春日王子に、そして周りに侍る岩城園栄をはじめとする臣下に、感想を話されたり、逆に意見を求めたりした。目の前の料理にも決して多くはないが箸をのばしてお食べになった。杯の酒をゆっくりと喉に流し込んで、旨いとおっしゃり、また注ぐように命じられたのを、慌てて大后が制し、飲み過ぎてはいけませんとお諫めになった。大王は甘える子供のように大后にねだって、大后はほんの少しだけですよと、くぎを刺して女官に酒を注がせた。大王は、大后を見つめてその杯を少しばかり上げると、口に運んだ。
自分の健康と我儘を等分に見て差配してくれる第一の妻を、大王は絶大に信頼していた。他の妃とは別の特別の感情がある。幼い時から夫婦になると決まっていて、長い間二人で大王としての振る舞いや、目指す国造りを話してきただけに、男女の関係を越えたものがあった。
大后も大王の視線をとらえて離さず、大王が杯に口を付けたのを見ると、自分も持っていた杯に口を付けた。
月の宴は終盤へと向かい、麻奈見と内大臣の息子の二人舞になった。この組み合わせで舞うことは何度もあり、皆が楽しみにしている演目である。今回も、大王自らがこの舞を観たいと所望されたのだった。
厳かな雰囲気の中、舞装束の二人が階の下で大王に深々と礼をして、舞台へと上がって行った。舞台の中央に立った二人は迷いのない動きで、右手を上げた。二人の呼吸があったところで、同時に上げた右手を振り下ろし、それを合図に楽団の音楽が始まった。楽団も、二人が上げた手がいつ振り下ろされるか瞬きもせずに見ていたのだった。
始まってしまえば、流れるように舞は進み、見る者の目を奪い、心を鷲掴んだ。
舞が終わると割れんばかりの拍手が起こった。大王も満面の笑みを浮かべて舞台に上でまだ息を弾ませている二人を見ている。不意に手を上げられたのを春日王子が気付いて、大王の方へ身を伸ばした。
「兄上、どうしましたか?」
「二人に何か褒美を取らせたい。こんなに心が躍ったのは久しぶりだ。清々しい思いだよ」
「兄上、それは二人とも喜びますでしょう。近くに呼びましょう」
春日王子は立ち上がり、後ろに控える舎人に伝えた。舎人は階を下りて、階の下に控える衛兵に伝えた。声をかけられた衛兵は実言だった。実言は頷いて、舞台に上がる階を上がり、舞台上の二人に声をかけた。二人は、衛兵からかけられた言葉に驚きの表情を見せ、舞台の階を下りてきて大王の前の階の下に跪いた。
「大王の面前を許そう。ここまで来よ」
春日王子が言って、二人はゆっくりと階を上がり、大王の前の机の前で平伏した。
「今日の舞は本当に素晴らしかった。こんなに心が躍る気持ちになったのは久しぶりだ。こんな気持ちにさせてくれた二人に何か褒美を与える。柾高には、この剣を与えよう」
と言って、大王は腰につるした剣を取って渡した。
「麻奈見には、私が先王から受け継いだ笛を与えよう。私が持っていても、置物になっているからな」
二人ともこの上ない栄誉と顔を高揚させて、さらに頭を下げたのだった。そして、二人は階を後ろ手に下りていき控室へと下がって行った。
大王は上機嫌で、今宵の見るもの聴くもの全てが素晴らしく、楽しかったとおっしゃった。それによって、食事は旨く、今まで控えていた酒がより一層美味しく、体中に力が漲った。これからは春日王子や臣下に任せていた政も自らが取り仕切っていけるとおっしゃる。左隣の大后は、色つやの良い顔色の大王の様子を嬉しそうに眺めて、微笑んでいた。右隣りの春日王子は。
「皆が大王の御元気な姿に喜んでいます。大王の御代を末永く続くことを心から願っております」
翔丘殿の隅々にまで届けとばかりに腹の底からの大声で言った。その声は宮殿中に響いた。その言葉に呼応するように、臣下は立ち合がり頭を垂れた。列席した王族たちもそれに倣った。
居並ぶ者たちが皆、同じ姿勢をとっているのを見るのは壮観だ。大王は満足そうに頷いて、宴の終わりを告げた。そして大后に寄り添われて、輿を控えさせている部屋へと向かった。
大王が輿に乗って王宮に戻られるのに長い行列が続いた。臣下たちはお見送りに出て、長く続く列を眺めた。
宮殿の中では、見送りに出なかった妃たちや王族は帰り支度をはじめ、楽団員たちは片付けに右往左往していた。
月は西に傾き始めた深夜である。とっくに有馬王子は、母君の膝の上に頭を乗せて眠っていた。
「さあて、戻ろうかしらね」
可愛らしい寝顔を見ながら碧妃は言った。有馬王子の乳母と侍女がゆっくりと力を合わせて碧妃の膝から王子を抱きとって、王子を乗せて帰る輿が待つ部屋へと先に連れて行った。
「礼、今回はゆっくりと話しができなかったわね。とても残念。お兄様は嫌がるかもしれないけど、次は後宮に来てちょうだい。心行くまで時間を気にせずしゃべりたいわ」
碧妃は立ち上がる前に後ろに控え礼と膝を合わせて手を握ってそう訴えた。礼ははっきりと返事はせず、あいまいに頷いた。碧妃のところへ行くと、春日王子に捕らわれたり、また実言を憎んでいた頃の哀羅王子から襲われそうにもなった。そんなことがあって、礼は気安く後宮へ行くとは言えなかった。
「もう、すぐにうんとは言ってくれないのね。お兄様次第なのね。それならこれから実言兄様のご機嫌を取らないといけないわね」
礼は悲しそうに笑うだけである。
「ではまた会いましょうね、礼。お兄様にどうお許しをもらおうかしら」
と碧妃は呟いている。礼は深々と平伏して碧妃を見送った。
顔を上げたところで、夫を思った。実言はどこにいるだろう。過去には宴が終わったら、礼を迎えに来てくれたこともあった。今夜もそうして欲しかった。
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