Infinity 第三部 Waiting All Night47

紫陽花 小説 Waiting All Night

 礼が侍女の澪に髪をといてもらっている様子を、娘の蓮は後ろから右に左に横歩きして見ている。髪を結いあげて、礼が唇に紅をのせて化粧を終わらせたところで、我慢しきれずに礼の傍にやってきた。
「お母さま、きれい」
 と言って、礼の肩に頬を寄せて抱き着いた。
「お口、あかい。きれい」
 と重ねて言った。
 礼は、蓮を抱き寄せて、指に取った紅を蓮の小さな唇にちょっとのせてやった。そして、蓮の顔を鏡に映してやった。
「蓮も赤いお口になった。きれいになった」
 そう言って、礼は蓮と額を合わせて、笑い合った。
 礼が髪を結って化粧をしていると、子供たちは母親が外出すると分かるのだ。急に寂しくなって、礼の膝に乗りたがる。今も蓮が礼の胸に顔をうずめている。
「礼様、車の用意ができました」
 と、縫が呼びかけると蓮は力の限り礼に抱き着いた。礼も蓮を腕の中に入れて、頬ずりした。
「蓮、待っていてね」
 と言い聞かせると、蓮は握っていた礼の背子の襟を離した。
 侍女の澪に蓮を任せて、礼は縫と共に部屋を出た。庭で遊んでいた息子の実津瀬が、簀子縁に出てきた母を見て階を駆け上がってきた。
「実津瀬、蓮と仲良くお留守番していてね」
 礼は、実津瀬の頭をそっと撫でて、簀子縁を進んで行った。実津瀬は簀子縁に出てきた蓮と手を繋いで母の背中を見送った。
 助手も兼ねて、お供に束蕗原から来ている萩を連れて行った。
 行先は、荒益の母君が静養している椎葉家の別宅である。定期的に椎葉家の別宅を訪れ、荒益の母親の様子を診ている。母君のその体はすっかり弱り切っていて、訪ねても褥の上に横になっていることが多い。
 母君も前の元気な体に戻れるとは思っておらず、このまま穏やかに過ごせればと思っているようだ。今は、別宅を訪ねてくる礼は治療者というより楽しい話し相手と思っている。
 礼は別宅に着いてすぐに荒益の母君の部屋へと通された。ちょうどゆっくりと上体を起こして、肩に上着を着せかけられているところだった。
「まあ、そのままでよろしいのですよ。お楽な姿でいらしてください」
 起き上がった態勢に慣れようとしている母君を、礼も傍に座って手を添えて助けた。
「ありがとう。このところ、気分はいいのよ。一日中寝ているのも味気ないもので、お客さまがいらっしゃるときは、せめて起き上がってお迎えしたものなのよ」
「その後、いかがでしたか?胸が苦しいということはありませんでしたか?」
 礼は問いかけた。
「もう、私もいい歳ですもの、胸が苦しい、体が痛いなんてことは日常のことよ。それをやり過ごしながら、楽しみを見つける方が体にとってはいいことと思っているです。今日は、あなたが来てくれるから、気持ちも張りが出たというものよ。気分はいいわ」
 礼はいつものように、母君の腕を取って脈を診たり、額を触ったりと、体を診ていった。母君もわかっているように、これは年齢によるものでうまくやり過ごすしかないものと思われた。母君は努めて明るく、笑い声を上げて礼との会話を少しの間楽しんだ。
 そこへ、簀子縁を少しずつ近づいてくる小さな足音がした。
「失礼します」
 と、庇の間に入ってきたのは、母君の孫である伊緒理だった。
「伊緒理、いっらしゃい」
 手招きして母君は伊緒理を自分の傍に呼び寄せた。
「この子が、とてもよく私の世話をしてくれて、話し相手にもなってくれるのよ。荒益は伊緒理を、自分の邸に戻したがっているけど、私は伊緒理がいなくなってしまうと、とても寂しいの。この子はそんな私の気持ちを汲んでくれてね、まだここにいたいと言ってくれているのよね」
 と言って、皺だらけの手を伸ばして、伊緒理の頬を撫でた。伊緒理は、恥ずかしそうに下を向いている。
 それから三人で、少し話をした。目に入れても痛くないほどにかわいがっている孫の伊緒理が礼から学んでいる薬草の話が中心になった。この別宅の庭の一角に薬草を育て区画を造っていて、そこで育てているのだ。
 母君が少し辛そうな表情になったのをすぐに伊緒理は気づいた。
「おばあさま、もう横になられてはどうですか。私がいろいろと話し過ぎました」
 伊緒理は祖母の背に手を添えて、ゆっくりと体を横にさせた。
「ありがとう、伊緒理、しっかりと学びなさいな。礼様、伊緒理をお願いね」
 控えていた侍女と伊緒理に衾を首元まで掛けられてた母君は、そういうとゆっくりと目を閉じた。
 礼と伊緒理は静かに部屋を退出した。そして、いつものように伊緒理の部屋で少し薬草の講義をする。
 二人で伊緒理の部屋に入ると、真っ先に伊緒理は自分の机の前に走って行った。その上には、紙が何枚も重ねられて分厚い層を作っている束がのっている。
「庭で育てている薬草について、まとめたものです。今まで教えていただいたことを書き溜めていたら、こんなにたくさん」
 と言って、顔を上げた。
 薬草を乾燥させたものを糊付けし、その横にその栽培の注意点、効能を書き付けた紙である。祖母は伊緒理のためなら高価な紙を取り寄せて惜しまず使わせているのだ。
「まあ、あなたは本当に勉強熱心ね、伊緒理」
 礼は伊緒理を褒めた。伊緒理は礼の言葉の傍から、手に一枚の植物の葉をもってその説明を求めるのだった。この別宅の薬草園で育てている知らない薬草について教えてほしいというのだ。礼が説明していると、伊緒理が小さな咳をした。それを飲み込むように、のど元に手を置いて礼に笑顔を向ける。しかし、暫くすると連続して咳をして、それを抑えようとする伊緒理は苦しそうに体をかがめた。
「伊緒理!」
 礼はすぐに伊緒理の傍に寄り、その背中をさすった。伊緒理は、我慢しようとしたが耐えきれずに咳きが次々と出る。礼は、伊緒理の額や首筋に手をやると、熱く、熱を出していることが分かった。
「まあ、伊緒理、すぐに横にならなければ!誰か!誰か来てください」
 隣の部屋に控えている伊緒理の侍女を呼び、礼は伊緒理を抱いた。礼の胸に頭を抱かれて、伊緒理は激しく咳きこんだ。
「無理はいけないことよ。今朝から調子が悪かったのでしょう。なぜ、休まなかったの?」
 数人の侍女が雪崩れ込んできた。この邸の舎人もやってきて、礼の腕から伊緒理を受け取り、奥の寝所へと連れて行った。
 邸の者は、苦しんでいる伊緒理を世話するのに慣れており、手際が良い。礼も急病人の世話は慣れたもので、流れに乗って、伊緒理の傍に座った。横を向いて、体を折り曲げて体全体で咳き込んでいる伊緒理に礼は声を掛けながらその背中をさすった。
「もう少しで楽になるわよ。もう少し辛抱してね、伊緒理。ゆっくりと息をして、そうよ。もうすぐ、楽になるわ。ほら、だいぶ楽に楽になったでしょう」
 それから、礼は黙ってゆっくりと呼吸する伊緒理の様子を窺った。もう咳も出なくなったころに、遠くから簀子縁を踏み鳴らす音が聞こえた。侍女の一人が台所から、薬湯を持って走ってきたのだった。
 部屋に届いた薬湯の入った器を礼が受け取って、舎人が伊緒理の体を抱き起こすと、まだ苦痛に歪んだ表情の少年の口元に器の端をあてがって、ゆっくりとその中身を飲ませた。
「ゆっくりと、少しずつね」
 礼は一気に苦い薬湯を口に入れようとする伊緒理の様子をみて、声をかけた。
「急がなくてもいいのよ。無理はいけないわ」
 礼の言葉に、伊緒理は少し口に入れては喉を通して、様子をみてまた、一口飲むことを数度繰り返した。そうしていたら、大きく波打っていた伊緒理の胸は次第に収まり、咳が止まった。
 器の中の薬湯を全部飲み干した後に、礼は水を持ってくるように依頼して、自分の荷物から、紙に包んだものを出してきた。
「これは木の根からとったものよ。手に取って、舐めてみて」
 目の前に差し出された紙の中の粉を、促された伊緒理はおずおずと人差し指で触った。少しの粉が着いた指を、口の中に入れると、薬湯の苦さから、ほんのりとした甘さが広がり口の中が中和された。
「どうかしら?苦い、嫌な味はなくなった?」
 優しく微笑む礼に、小さく頷き、伊緒理は促されて再び粉を指に取った。吸った指は湿っていて、さっきより多くの粉が指についた。それを再び口に入れると、先ほどよりより甘い、ほっとする味が広がった。
 咳の苦しみの後に、薬湯の苦みにずっと顔を歪めていた伊緒理は、はにかむような笑顔を見せて、礼は安心した。
「伊緒理、起きた時から調子が悪かったのでしょう?無理はいけません。しんどい時は、体を休めなくてはだめよ」
 水の入った椀を手渡されて一口飲むと、伊緒理は舎人と礼に支えられて、再び横になった。
「みんな、あなたが苦しむ姿を見たくないわ。自分を労わらなくてはいけないわ」
 礼の言葉に、伊緒理は頷きはしたが、少し悲しそうな顔をした。
 首まで衾を上げて、ゆっくりと体を横たえた伊緒理の頭を撫でながら、礼はその表情を読み取った。
「どうしたの?伊緒理」
 伊緒理は、唇を軽く噛んで押し黙った。しかし、礼が優しい眼差しを向けて何度も頭を撫でてくれるので、何か言わないといけないと思った。
 自然と小さな声で言った。
「今日は礼様がいらしてくださる日なのだもの。お会いできるときは、いろいろなお話をしたいのです。この間、お会いしてから今日まで私がどんなことを知ったのか、礼様とお話ししたいのに、少しの熱や咳で寝てしまって休むなんて、嫌なのです。私は、礼様に無理を言ってお願いして、薬のことを教えていただいているのに、その機会を自分から逃すのは嫌です」
 礼は、いじらしい言葉に、心を揺さぶられて、伊緒理を可愛らしく思った。
「まあ、伊緒理…」
 伊緒理も言い終わった後、礼の様子を見て嬉しそうに、衾を顔半分まで上げて口元を隠している。
 そこへ、遠くからだんだんと近づいてくる慌ただしい足音が、伊緒理の部屋の前で止まった
「伊緒理!」
 庇の間から怒鳴るように息子の名を呼んで、荒益が入ってきた。
「具合はどうだ!咳は止まったかい!苦しくないか!」
 勢いこんで飛び込んできた父親に、伊緒理は跳ね起きた。
「お父様!」
「伊緒理!」
「大丈夫です。……礼様が、ついていてくださったから」
 荒益はまっすぐに父親を見上げる息子に安堵したら次に、その言葉を冷静に聞いて呟いた。
「礼?」
 そこで、荒益は自分の足元に座っている礼を見た。
「礼!」
 荒益は慌ててように、礼は微笑んでいる。
「ああ、礼。今日は礼が来てくれる日だったか。あなたがいてくれれば安心だ。ここに着くなり、伊緒理が苦しんでいると聞いて、跳んできたところだよ。ああ、なんともみっともない姿をあなたに見せてしまったものだろうか」
 荒益は、伊緒理の元気そうな様子と、微笑む礼を見てほっとして、礼の隣に座り込んだ。
「伊緒理は少し咳が出て苦しんだわ。熱もあるし、このまま寝て安静にしないといけないわ」
 礼は荒益と伊緒理に言い聞かせるように言って、起き上がった伊緒理を再び横たえさせる。荒益も、伊緒理の体に手を添えて手伝った。
 伊緒理は、目尻を落として嬉しそうに父親を見ている。荒益も伊緒理を見て笑顔になった。
「最近は熱が出ることもなく、元気な様子だったので安心していたんだけどね。だから、邸の者も驚いたのか、私が来ると飛んできて報告したよ」
 伊緒理を見ていた荒益は、礼に視線を移すと、そう言った。
「伊緒理は、私との薬草の勉強があるから、少し無理をしてしまったみたいなの。とても熱心で感心してしまうわ。私にはもったいない生徒ね。早く、もっと立派な先生について学んだ方がいいわ。荒益、伊緒理が飽きるまで学ばせてあげて」
 礼がそう言うと、すかさず伊緒理は声を上げた。
「私は礼様がいいです。今のように、一緒に庭に出て植物を見ながら、いろいろと教えてもらうのが私は楽しくて、いろいろなことを学べています。どうか、私を見放さないでください」
 わかっているという風に荒益は頷いて。
「礼には迷惑なことかもしれないが、伊緒理はあなたから学ぶことが楽しみのようだ。まだまだ子供であなたの時間を取って申し訳ないが、もう少しつき合ってやってもらえないだろうか」
 礼は、一瞬困ったような表情をしたが。
「ええ、もちろんよ。私も伊緒理と一緒に庭に出て薬草の話をするのは楽しいわ」
 と言った。
 そこで侍女が盥に水を入れて持ってきた。布を浸して、絞り伊緒理の額へと置いた。
「気持ちいいかい、伊緒理」
 荒益が尋ねると、伊緒理は無言で頷いた。急に気を張っていた体から力が抜けたのか、眠たそうに目を半分閉じた。衾から出ていた右手を荒益は握ってやると、伊緒理は安心したように目を閉じて眠った。
 その様子を礼と荒益は無言で見守った。
「……ありがとう、礼。とても、安心した表情をしている。礼が適切に見てくれるから、この子も苦しくても、怖くはなかっただろう」
「まあ、父であるあなたが来たから、伊緒理は安心したのよ。あなたの手がどれほど伊緒理を元気づけ、安堵させていることか」
 と言って、荒益を見上げた。荒益も伊緒理から礼に視線を移すと、目が合って二人は声をたてずに笑い合った。
傍で見守る侍女たちにはまるで、我が子を見守る夫婦のように見えたのだった。

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