手元の杯の酒は一向に減らない。口まで持っていっても、唇を湿らせるだけで、口に含むところまではいかないのだ。
哀羅王子は、杯を握ったまま、父から受け継いだ邸を出て吉野に行き、また吉野から都に帰って来た十五年の長き日々を思い出していた。
十四の齢で都から吉野の地に行ったその時に付き添ってくれた者たちは皆が壮年の大人であった。大人たちはまだ頬の赤い少年王子を労わり、どうにかこの王子をもう一度都に帰還させようと、団結し守ってくれた。しかし、月日は無常に流れてその大人たちは初老の齢になり、逆に少年であった王子は青年になり、自分を守り育ててくれた者たちを守る立場になった。重い物を代わりに持ち、ひどい雨が降れば王子が部屋の中を走り回って、雨漏りを塞いだ。
そしてまたその日は、突然来た。
春の訪れを感じさせる温かな日であった。十五年の間に病気や飢え、寒さに、命を落とす者もあったが、例年通りの厳しい冬を皆で越えた。まだ、外には雪が積もっていたが、日一日と寒さはやわらぎつつあったとき、その使者は突然現れたのであった。
「哀羅王子様はいらっしゃるか?」
急な訪いに、邸の者たちは驚いた。部屋で、本を木札に書き写していた哀羅王子は、舎人が、自分に会いたいという客が来たと、呼びに来ると怪訝な顔を向けた。
「私に?」
「そうです」
「誰?」
「都から来たとおっしゃっています。王族の……」
「都から?……王族?」
哀羅王子は筆を置いて、腰を上げた。
「……春日王子様のお使いとおっしゃっておいでです」
「春日王子?」
哀羅王子は立ち上がったが、その名に聞き覚えはなかった。
しかし、都からの使者と聞いて、哀羅王子は懐疑的な気持ちとはやる気持ちが入り混じって、部屋を出て客人を待たせている庭に向かった。階の下に控えた使者は三人いた。先頭に一人いて、その後ろに二人が控えている形だ。
「私が、哀羅だが」
階の上から、使者だという男たちに向かって小さな声で名乗った。
先頭の男は上げた頭をすぐに下げた。それに倣って後ろの男たちも頭を地に着けた。
「私は都から参りました飯良朝金(いいらのあさかね)と申します。春日王子様から、哀羅王子様をお迎えに行き、無事に都にお連れしろとのご命令により参りました」
深々と頭をたれて挨拶する使者に、哀羅王子は階上から見下ろしたままその言葉を考えた。
都からこの吉野の地に来るまでの道のりで、何度も馬上で振り返った。その度に、岩城の追手が来ているかもしれないからと、都の方へ振り返ることを咎められた。そして、この吉野の地にたどり着いて言われたのだ。
「必ずあなた様をお迎えに上がります。それまでは、この者たちとどうかここでお過ごしください」
それから一年たち、二年たちと月日は無常に流れて行った。村の外から人が訪れると、哀羅王子は敏感に気にしたが、村の誰からの知り合いや、隣村から来た者たちだった。期待は諦めに代わり、五年も経てば完全な諦観の境地へと達した。五年経っても、それでも少し身なりのいい人物が村に来ると、都からの使者ではないかと、心が高鳴るのだった。しかし、十年も経てば誰が来ようともそれは都からの使者ではないし、哀羅王子を迎えに来た者ではないことがわかった。
だから、今目の前にいる使者が本当に自分を迎えに来た使者であることが信じられなかった。
全く泡立つこともなかった胸の内でも、不意に都から迎えの使者が来る夢を見た。せめて夢の中で都に帰還して、その華やかな世界に迎え入れられ、政に加わり、父親の代わりにその権勢を振うのである。しかし、現実になることはないと思っていた夢。
「私を都に?」
哀羅王子は階の上から、足元に跪いて首を垂れる使者に問うた。
「はい。春日王子様が哀羅王子様を捜索するように命じられて、十数年前に岩城の刺客から逃れて、この場所に哀羅王子様が落ち着かれたことを突き止められました。だから、今日このようにして我々がお迎えに上がった次第でございます」
「まことに……」
と呟いた。哀羅王子の口の動きに、傍に控えていた舎人は耳をそばだてたが誰にも聞き取れなかった。
使者の朝金は自身の目の前に置いていた箱を取り上げて恭しく自分の頭の上にまで上げて差し出した。階の上から哀羅王子は手を伸ばしたので、後ろに控えていた舎人は、慌てて後ろから静かに進み出て階を下り、箱を受け取って、代わりに哀羅王子に渡した。王子は、少し乱暴に紐を解いて、その中に入っている手紙を取り出し広げた。そこに書き連ねてある文字を走り読んだ。
使者が今言ったことと同じことが書かれてあり、最後に春日王子の署名があった。その下には、哀羅王子は忘れていない、王族だけが王族であることを示す印が押されていた。
ああ、自分を庇護し、頼るべきは我が出自である王族であり、その人達がこの境遇から救い出してくれるのだと、実感した。
手紙を両手に持ったまま、だらりと下して放心したように突っ立つ哀羅王子に、舎人は耳元で使者を部屋に入れてはどうかと言った。王子は、はっと顔を上げて。
「使者の方々に部屋を用意して、休んでもらってくれ」
と、階の下に控える使者たちにも聞こえる声で言った。それで、王子は自分の部屋に戻るため、使者たちに背を向けた。
受け取った手紙を机の上に置いてその前に座って眺めながら、この十五年を思い返した。
ああ、自分が権力の一端を担うのにはまだ幼く、その頼るべき人を誤ったためにこのように都から遠い山深い寂しい土地に流れ住む羽目になった。もう、都に戻り父である渡利王が築いた栄華を受け継ぐことはできないと思っていたが、こうして十五年、苦しみ、嘆いたけども待った介があった。とうとう、私は都に帰ることができる。
哀羅王子は歓喜に打ち震える体を、両の手が反対の腕をつかんで抑えるのに苦労するのだった。
その夜、使者と一緒に食事をした。できる限り用意できる豪勢な料理を用意したつもりだが、都から来た使者にとっては鄙びた食事に見えるかもしれない。
食事をしながら、これからの日程を話した。使者が考えているのは、これから五日のうちにここを発つ準備をして出発するというのだ。馬を走らせれば三日で都に着くだろうという。
たった三日で帰れる場所なのに、十五年も帰れなかった。
奥深い山の中に閉じ込められていたら、自分がどれほどの場所にいて、どうすれば帰ることができるのかという発想もなかった。
哀羅王子は三日で準備を終えた。都に持って行くものといったら、都を離れるときに持ってきた父から受け継いだ大切なものをそのまま持って帰るだけである。自分と一緒に都に行く者は、ここに一緒に来た腹心の舎人と、ここで世話をしてくれた夫婦の十七と十五の息子二人である。
結局、舎人達は歩きであり、雨が降ったため足止めを食らって、都に帰るのに六日かかった。
都に入ると隠れるように、自分を見つけ出してくれた春日王子の邸に入った。
自分は王族の一員である。自分をその一員に戻してくれた春日王子との初対面は感動的であった。大きな邸に、煌びやかな調度、そしてその姿。すべてがかつての生活を思い起こさせた。そして、仰ぎ見るその人には、感謝の気持ちしかなかった。
だから、その後春日王子の専横な態度に苛立ち、苦しむことはあったが、自分を都に帰してくれた恩人である。その勢力の一部になってその恩に報いるつもりだ。
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