Infinity 第三部 Waiting All Night38

枝垂れ桜 小説 Waiting All Night

 花の宴が終わって三日後、都を東西に渡る一条の通りに供の侍女を一人つけて、質素な身なりで歩く女人がいた。普段、その女人を見た者は振り返ってもう一度その顔を見てしまうほどの美貌の持ち主である。そのため女人は人目につかぬよう頭から織りの入った布を被って、目だけ出して歩いている。
 目当ての邸まで来ると、門の前に立つ番人に、供の侍女が前に進み出て手の中の札を見せた。すると、番人は心得ていてすぐに門の中へと入れた。取り次いだ邸の侍女が、階を付き添って上がり、邸の主がいる部屋へと案内した。
 布を頭から被っていた女性は、門をくぐって中に入ると、その布を取って両肩を覆うようにかけた。頭から布が取り去られると、案内の侍女は一瞬その女人の顔に見とれてしまって歩きが止まってしまったが、すぐに視線をそらして下を向くと細い声で、こちらへ、と招いた。
 顔を隠していた美貌の女性は朔である。朔は、長く続く簀子縁を歩きながら、庇の間に見える衝立障子や、几帳の見事さに目を見張った。善美を尽くした豪華な内装、調度品の数々が見え隠れする。そして、反対側の庭を見れば、色とりどりの花々がその盛りを見せつけるように咲いている。今は、雪柳の白い花が目に痛いほどに栄えているのが見えた。
「どうぞ、こちらでございます」
 と侍女の先導に従って、簀子縁の角を曲がると、そこには一人の男性が立っていて、庭の方へ向けていた顔を朔の方へと向けた。
「ああ、やっと来たか」
 男性はそう言って、朔に笑いかけた。
「春日王子、お招きいただきありがとうございます」
 春日王子と朔が近づくと、その間に挟まれそうになった侍女は簀子縁の端によけて身を縮めた。
「よく来てくれた。花はお前が来るのを待っていたのだろう。今日までもってくれた」
 と言って、春日王子は朔の気配を感じるまで見ていた庭に再び目を向けた。朔も誘われるように春日王子の見る方を向くと、一本の大きな桜が咲き誇っていた。枝が垂れ下がっている不思議な桜である。
「まあ」
 朔は声を上げた。
「ここは、花の宴の時に大王にもお見せしていない秘密の場所だ。私が一人楽しんでいる。これをお前に見せたかったのだよ」
 春日王子は目を細めて笑っている。朔もその見事な花に心打たれて、感激した表情を春日王子に向けた。春日王子は、朔の手を取って目の前の階から庭に降りた。
 階の下には膝をついて控えていた家人が沓を差し出した。侍女が慌てて階上から女性の沓を持って降りて、朔の前に置いた。
 二人はそよ風に揺れる可憐な花をいくつもつけた垂れた枝を近くで見た。そして枝の内側に入って外を見た。まるで籠の中に入ったようだった。
「お前はとても嬉しそうだ」
「……ええ、とても美しいものを見せていただいています。後宮にもこのようなものはありません」
 春日王子も朔と同じものを見ようと朔が向く方を向いた。
 朔は春日王子とともにその不思議な桜を眺めながら、心の中はくすぐられるような浮き立つような気持ちになり、自然と笑みがこぼれるのを無理やり抑え込むのだった。
 数いる愛人の一人と心得ていても、その中で特別な扱いを受けるのは嬉しい。今も、春日王子は己の邸の庭を見せたいと以前に言っていたことを現実させてくれた。
 寂しさの隙間を埋めるために、相手の誘惑に乗っただけと思っていたはずなのに、今の自分は愛人として相手とのひと時の戯れに溺れることを楽しんでいるだけだろうか。日々の会えない切なさと、久しぶりに会った時の激しい愉悦の渦の中に身を任せて天と地ほどの落差のある感情を掻き立てられることに、自分はいつのまにか囚われてしまったのか。
「どうした?今は、とても寂しそうな表情をしている」
 朔は自分の逡巡が顔に出ているのだと、自戒した。
「……このような美しい光景が、数日後にはもう見れないことを、悲しく思っているのです」
「そうだな。しかし、来年も観ることができるだろう。夏が来て、秋が来て、冬が来て、また春が来るのが待ち遠しくなるだろう。この樹はお前に見てもらいたがるだろう。……部屋で少し話をしようか。お前に見せたい美しいものがたくさんある。この後、来客があるのだが、それまで一緒に過ごそう」
 部屋に戻ると、侍女が酒と少しの食事を持ってきた。春日王子は侍女達を遠ざけて朔と二人だけで庭の不思議な桜を眺めた。格子を開け放った部屋からは、その中からもよくよくその全体の美しい樹と細部に着ける小さな花の姿を見ることができた。
 朔の前に高坏が置かれ、その上に白いものが器に入っている。
「食べてみよ」
 朔は春日王子の杯に酒を注いで銚子を下ろすと、春日王子が促した。見たこともないのだから、食べたこともないものを添えられている匙でゆっくりとすくって口に入れた。半分固まったような食べ物は、ほのかな甘みがあり、美味しかった。煮凝りのようなものに、時間をかけて絞って取った植物の蜜を甘みで作った手の込んだ食べ物である。
「……美味しい」
 春日王子はそうだろうというように満足そうに頷いて、杯の酒をあおった。
 部屋に置かれた屏風や御簾は、色鮮やかで美しい織りと透かしの技術で作られており、朔はその部屋の中にいるだけで身分の高い人物になったかと錯覚しそうになる。
 春日王子は手を伸ばして近くに置いてある箱を取った。朔の前に置いたそれからは芳しい匂いがした。
「これは、白檀で作られたものだ。掘りや装飾が美しいだろう。だが、やはり一番はこの箱そのものが放つ芳しい匂いだ。前にお前が、服に焚きこませていた匂いもよいが、この箱も誘われるようように惹きつけられるような香りがする」
 春日王子の傍に座って、何度か杯に酒を注いでいると、王子も徐々に酔ってきたのか、朔との距離を縮めて腰に手を回して引き寄せた。
「王子……」
「誰もおらぬ」
「お邸には奥様が」
「ここには誰も住んでおらぬよ。私一人だ。妻たちは自分の邸を持っているからな」
 春日王子の正妻や、他の妻たちとは別居で、それぞれが邸を持っていた。
 朔は春日王子に抱き寄せられるがままその胸に倒れこんだ。
「美しいだろう」
 と春日王子は言って、朔を緩く抱いた。
 暫くすると、簀子縁からゆっくりとした足音が聞こえた。小さな咳払いとともに、春日王子を呼ぶ声がした。
「王子、お客様がお揃いでございます」
 春日王子は朔の胸の上に伏せた顔を上げた。
「わかった。すぐに行く」
 と言うと、簀子縁から人の気配は遠ざかって行った。
「すまないな。私が呼んだ客だから、無粋なと腹を立てて、待たせるわけにもいかぬ」
 春日王子は朔の体を自由にし、朔は座りなおした。
「また、王宮で会おう」
 握っている朔の手を王子が最後まで離そうとしないのに、朔も感じるものがあったが、最後には離した。そこで、朔は「はい」と小さな声で答えた。
 春日王子は簀子縁に出て、来客の部屋のある館へと向かった。途中で、舎人の鈴鹿が控えていた間からすっと姿を現して春日王子の後ろに着いた。
「皆来ているのか?」
「はい、お揃いになりました」
 皆が集まっている部屋の手前の庇の間で、春日王子は乱れた衣服を自分で直して、一つ息を吐いて、部屋へと入って行った。

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