Infinity 第三部 Waiting All Night37

小説 Waiting All Night

 礼は双子の昼寝する様子を見ていた。朝のうちは邸の侍女たちの子供と一緒に庭を走り回っていた双子は、昼を過ぎると力尽きて眠ってしまったのだ。寝始めは、母親の傍が安心するのか、蓮は礼の膝に乗ってその胸に顔を伏せ、背中をさすってもらううちに、目が瞑っていくのだった。実津瀬は礼の膝を枕にして眠ってしまった。礼は侍女の澪に手伝ってもらって、二人を褥の上に移動させて寝かせた。体を動かされて、目を覚ましそうな二人をじっと見守っていると、簀子縁から静かな声が礼を呼んだ。
 礼は後を澪と乳母に頼んで立ち上がり、簀子縁へと出て尋ねた。
「どうしたの?」
 簀子縁に現れたのは、束蕗原にいる叔母の去のところから来ている見習いの若い女人だった。
「ひどい怪我をした者が運び込まれて、皆がどうすればいいか迷っているのです。どうか、診療所の方へお越しください」
「まあ!」
 礼は驚いた顔を見せると、すぐに先を歩いて「診療所」へと向かった。
 三条にある岩城本家の離れに住んでいたころから、礼の医者としての知識は皆に求められていた。邸の者たちはもちろんのこと、近隣の都人も何か健康に問題があれば、三条の離れを頼ろうという気持ちがあり、実際に怪我をした、熱を出した、といったら、三条の岩城本家の裏門を秘かに訪ねてきていた。邸の者も心得たもので、離れの礼のところに取り次いでやるのだった。そして、礼が症状を聴いて貼り薬や、薬草を選んで持たせた。その信用は絶大なものだった。
 実言が新しく自分の邸を五条に造るといったら、三条邸の従者たちはもちろんのこと、近所の者達も寂しがり、不安がったので、実言は五条の邸の傍に「診療所」なるものを作った。礼の叔母が都の近くの束蕗原という土地で行っている医療活動を、礼が都でも真似てみようということになった。それには束蕗原の協力がなくてはならなかったが、叔母の去はすんなりと受け入れて、自分が育てている医術の心得のある弟子や見習いを遣わしてくれたのだった。
 五条の邸の裏にある垣の間からそっと、道を横切って診療所の裏口へと礼は入って行った。そこには束蕗原から来ている去の弟子たち四人……男性二人、女性二人がいた。足から血を流してうめき声を上げている男を皆が見ている。
「どうしたの?」
 裏口から建物の中に入ってきた礼が声をかけた。
「ひどい出血でどうしたものかと……」
 応急処置で巻かれた白布は朱に染まって、元は真っ白だったことがわからないほどである。礼は、男の足元に座って白布を取ってその傷口を見た。男を運び込んだうちの一人が、邸を造る作業中に材木が足に刺さったと説明した。礼は頷きながら聞いて、水の用意を命じた。清潔な布も持ってくるように言った。その場にいる者たちにこれから暴れるであろうけが人の四肢を抑えているように言って、礼は刺さった木材の破片が肉に刺さっていないかを慎重に確認しながら、その傷口に手を入れて洗う手荒な治療を始めた。
 傷口を洗ってその裂傷を確認し、塗り薬を塗って清潔な布を巻き終えると、礼は額に浮かんだ無数の汗をぬぐった。傷口の痛みから逃れたくて暴れる男を皆で取り押さえるのは、馬と格闘するようなもので、皆がぐったりと座り込んでいた。見習いの少女に持ってこさせた薬湯に睡眠を誘う薬を混ぜて飲ませたら、あとは皆に頼んで、礼は邸へと戻った。
 部屋に戻る手前で、簀子縁に出てきた縫と出会った。
「まあ、礼様!どうされましたの?」
 袖口や、膝のあたりに血がべっとりと着いている姿は礼自身が怪我をしたように見えた。
「縫、ちょうどよかった。着替えを手伝ってちょうだい。診療所で手当てをしていたのよ」
 二人は部屋の手前の庇の間に入って、几帳の陰で縫が急いで持って来た盥の水に浸けた麻布で礼の手足を拭いて、着替えの衣服に着替えた。
「実津瀬と蓮はどうしただろうか。もう、目を覚ましたかしら」
 下着から全てを着替えながら、礼が訊いた。
「ええ、お目覚めです。実言様がお帰りになったので、遊び相手になっていらっしゃいますよ」
「そう、実言が帰っているの」
 礼は着替えの手を早めて衣服を着替え終わると、あとの片づけを縫にお願いして、居間へと入って行った。
 縫は使った盥を片付けるのに簀子縁にでると、庭の大きな樹の幹に寄り添う人影が見えた。誰だろうと目を凝らしてみていたら、萩であった。萩は束蕗原から来た女人である。歳はまだ十七と若く、医術の勉強も始めたばかりで、診療所の手伝いをするというよりは、邸と診療所の人手の足りないところに駆り出されて使われているというような五条邸の侍女見習いのような立場である。
 そして、幹に背を預けているのは若い男である。
 あれは、誰だろうか……
 縫はすぐに誰とはわからない男、しかし、初めて見るわけでもないので、暫く思いだそうと記憶を巡らせた。
 実言がこの五条に邸を建てて、三条本家の離れのようにこじんまりした生活はできなくなった。それまでは三条本家に仕える使用人たちを一緒につかわせてもらっていたが、一つの邸を構えるとなると、門の管理や馬の管理、倉の管理と仕える家人の数は何倍にも増えた。今まで仕えていた者や本家から異動してきた者もいるが、大半は新しく雇い入れた者が多い。
 今、萩の前にいるのは最近雇い入れた邸の警護や雑用をしている男である。年は萩といい頃合いの若者である。確か、庭で双子を邸の使用人の子供達と一緒に遊ばせていた時に、庭で作業をしていて、こちらを柔和な笑みを浮かべてみていた男だ。
 今、男女が隠れるようにして向かい合っているのは、恋の始まりを予感させた。
 縫も、礼と一緒に束蕗原に行って、そこで知り合った男と結婚したので、仕える者同士が恋をすることをとやかく言う気はないが、まだ早い気がする。男はまだ雇ってから間もないし、萩も慣れない邸仕えで、わき目を振ってはいられないはずだ。
 縫は何かの折に話すことがあれば、萩を諭そうと思った。
 礼は居間に入って行くと、実言の座る前に実津瀬と蓮が行儀よく並んで座って実言と話をしていた。
「礼、どうしたんだい。何か大変なことでも起こったの」
 礼が実言の隣に座ると、尋ねた。
「ええ、少し大きな怪我をした者が運ばれてきて。診療所の者は皆、まだ経験不足で戸惑っていたのよ」
「そうか、それは大変だったね。しかし、やはり礼は頼もしいな。去様も礼も病人に尽くす。私にはできないことだ。だから、私はこれからも陰ながら去様やお前のしていることを援助していくつもりだよ」
 蓮が実言の膝に座りたがって、立ち上がった。お尻を実言の膝の上に乗せたので、実言もより深く腰掛けられるように抱き上げてやった。すると、実津瀬は母親の膝を我がものにせんと、礼に抱き着いてきた。礼は実津瀬を実言の方に顔を向けさせて膝の上に上げて座らせた。
「去様から頂く手紙は、いつもあなたへの感謝の言葉が書かれています。あなたの陰の支えは去様や、束蕗原、この五条辺りの人々を助けてくれているわ」
 礼はそう言って下げた頭を上げた。すると、実言と目が合って二人で微笑みあった。

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