花冷えした朝、礼は、父親から実言が来ることを告げられた。
実言は礼の許婚である。
一年前に、親同士が決めたことだけど、それには曰くがある。
実言には既に決まった許婚がいたのを解消して、礼を妻に欲しいと言ってきたのだ。ある出来事で実言の気持ちが変わってしまったのだが、そんなことを礼は望んでいなかった。しかし、両家の親の決めたことで、礼は従うしかなかった。
実言が、礼を、その体を、求められれば受け入れるしかない。しかし、これは間違ったことで、この男に心を許してはいけいないのだ。まだ知らぬ、自分の運命の 男のために心だけは固く閉ざし、守るべきなのだ。
実言との婚約を公にした時、大々的なお披露目はせず、内輪でこぢんまりと行った。
お披露目の儀で、礼は白い小袖の上に薄い藍色に小葵文様の織り込まれた袍を着て、その上から橙色の下地に花の柄を入れた背子を着けた。下には浅葱色の裳を着けて緋色の生地に金と紺の刺繍の入った添え帯を巻いた姿で実言の隣に座っていた。実言にとっては二回目の経験である。その順序はよくわかっているようで、涼し気な顔をして儀式に臨んでいた。
実言は岩城家の三男だが、その家は代々大王を補佐する役職を受けている家柄で、政治や軍事の分野に於いて高い官位についている名門の家である。そしてその勢いは衰えることなく、益々その権勢は栄える一方である。岩城家は長男から三男の実言まで、王宮に官位を得て仕えており、その容姿も皆に羨まれるほどで注目されている。
新年の祝い以来、礼は実言に会う。そう考えると、随分と会っていないと思った。
昼間、礼はいつ現れるのかわからない実言を、部屋の中でじっとして待つことができず、濡縁に腰掛けていた。礼の父親は、実言を礼の部屋に通すことを許している。許婚であるのだから、断る理由などないのだ。だが礼の心はもやもやと嫌な気持ちしかしなかった。
兄の形見の男物の深い紺に金の刺繍のある上着を髪が隠れるのも気にせずに羽織って待っていた。
侍女が部屋に入って来て、礼の耳元で囁いた。
やがて、遠くから静かな足音が簀子縁をだんだんと近づいてきた。実言が礼の部屋へと向かっているのだ。礼は自分の部屋の前の濡縁に座り込んでいた。逃げるわけにはいかないことはわかっている。
足音が止まると、礼は顔を上げた。ちょうど簀子縁の最後の角を曲がったところで、実言が立ち止まってこちらを見ていた。
「礼」
実言の声。
「待っていてくれたのか」
部屋の中でじっとして居られなかっただけだが、実言には外にいたことが待っていたと勘違いされ、好意の証と思われたようだ。
返す言葉はなく、押し黙っていると、実言は礼の隣に座った。
「久しぶりだね」
明るい実言の声に対して、礼の喉は閉じ切っていて、何も発しない。
「少し、歩こう」
実言は部屋の中に連れて行こうとはせず、礼の家の庭を散策しようと提案し、侍女に沓を持ってくるようにいいつけた。真皿尾家の庭に咲く桜がだいぶ咲きそろってきたのが見えたのだろう。
簀子縁から近くの階を下りて、実言は礼の手を取って歩いた。そして、広い庭の中の桜の木の下に来るとその下に座るように、実言は促した。礼の侍女が後ろに控えている気配はなく、侍女も気を使ったのか、実言が事前に人払いを命じたのか……。
礼は素直に従うしかなかった。実言の隣に腰を下ろすと、実言は改めて礼の手を握った。
「会いたかった。宮廷に出仕することになって、自由な時間が取れなくて。なかなか礼のところに来ることができなかった。すまない。寂しい思いをさせてしまったかな」
寂しいとも寂しくないともわからない気持ちでいたから、頷くこともできずに黙ったままでいた。
実言の手が礼の手から離れたので、礼は実言を見上げると、実言は礼の頬を包もうと両手を差し出していた。実言の右手は、礼の左耳の後ろにかけられている眼帯の紐を掴んだ。
「嫌っ」
礼は小さな声で抵抗した。顔を左右に振って、実言の手から逃れようとした。しかし、実言の手は力強く、礼の抵抗を受けつけなかった。左耳の後ろにかけらえている眼帯の紐を外されると、それは、はらりと落ちて、傷痕の醜い礼の左顔が現れた。
「嫌だ」
もう一度言って、抗おうとしたけど、実言は許さず、礼の体を木の根をさけて平な地面に押し倒して、礼の動きを封じた。顔を左右に振って実言から逃れようとしたが、顎を押さえられて、抵抗できなくなってしまった。
「静かに」
諭すように実言は言った。
礼は自分が実言の許婚であることを思い出す。こんな家柄の男との結婚は誰もが望んでいるのだから、真皿尾家のためにも拒否は出来なのだと自分に言い聞かせた。
礼は静かになって、怖くて目を閉じた。静かになったところで、実言は顎から手を離し、礼の唇に自分のそれを重ねて吸った。
目を閉じていたため、何が起ころうとしているのかわからず、驚いて、胸を逸らせてその口づけから逃げようとした。口づけは礼にとって初めての経験だった。唇を塞がれて、息苦しくて口を開けてしまった。そうしたら、実言の舌が入ってきて、より深く塞がれてしまった。
苦しい……苦しい……。礼の頭はその思いでいっぱいになった。
しばらくたって、実言の唇が離れた。
父親に言い聞かせられていたはずなのに、いざ押し倒されたり、唇を吸われたりしたら、ただ怖いだけでだった。
「礼、愛しいよ」
実言の優しい声が聞こえた。しかし、その言葉は礼の思いとは全く逆だった。
実言の目に自分の目が映っているのがじっと見えるほどに近い距離で、右目を覗き込まれて、礼は実言にそう言われた。礼はたまらず視線を外すと、実言は礼の左目に唇を押し当てた。正確には、左目があった場所だ。
そこには、眼球はない。空っぽの空洞を塞ぐように肉がもって、まぶたの下からその肉がのぞいて、醜い様を見せていた。父と兄と身近な侍女以外、誰にも見せていないその傷を初めて他人である実言に見られた。そして、触られた。
礼は自然と涙が流れ落ちた。
礼の心に実言への親愛は生まれない。いずれ、夫婦になろうとも、その間に情愛は芽生えない。なのに、こんな顔の女を妻にしなくてはいけない実言は、なんて不幸なのだろう。
礼は心底、同情した。
実言の唇が左目から離れると、礼は、両手で顔を覆った。もうこれ以上、実言に触られるのを防ぐためだ。
実言は礼を抱き起こし、そのまま礼の頭を自分の右肩にのせて、小さく泣き続ける礼が静まるのを待った。黒髪をすくように背中を撫でながら、待っていた。
礼がどれだけ泣いてもこの状況は変わらない。でも今、実言の顔を見るのは耐えられなかった。
「礼。もう泣き止んで」
実言は声をかけて、礼の体を自分の肩から離し、起こした。実言の手が顔を覆う礼の手にかかった時、礼は自分から手を下ろし、左を向いて、実言には右側の顔を見せた。
「礼。こっちを向いて」
実言は礼を自分の正面に向かせると、もう一度左目に唇を寄せた。
「この傷に触れられるのは私だけだ。私だけに許しておくれ」
実言は礼に囁く。礼は、心が押し潰されるような思いに襲われるのだった。
そんなに責任を感じないで。私は一人でも大丈夫なの。実言は自分を犠牲にすることはないわ。実言の将来のためにも、こんなに醜い傷を持つ娘の面倒をみつものじゃないわ。あなたの本当の許婚は私じゃないのだから。
だから、私は、あなたの妻にはなれるわけない
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