Infinity 第二部 wildflower46

山の中の小川 小説 wildflower

 未刻を過ぎた頃、横木が外されて扉が開いた。今まで耳丸と話をしてきた男を先頭にその後ろに数人の男が現れた。
「顔を洗わせてやる」
 そう言うと、耳丸と礼を立たせて小屋から連れ出した。危害を加えられる気はしないが、どこに連れていかれるのかわからず、不安を覚えた。
 すると、村を囲む道を横切り礼と耳丸が辿ってきた川に連れて行かれた。本当に水浴びをさせてくるつもりのようだ。川のほとりで耳丸は胸と後ろ手にかけられていた縄を解かれた。自由になった体は喜びを表すように、そのまま川の中に入っていた。汗と土で汚れた体は清流によって洗い流され、冷たい水が茹で上がった体の熱を取ってくれる。振り返ると、礼は川岸に跪いて手をつけていた。近くで男の村人が見張っているので、男と偽っている礼は、耳丸のように振る舞う事はできずに、手ぬぐいを使って汚れをふき取っている。
 川での水浴びが終わると、縄を掛けられることなく帰るのは小屋ではなく、村の中心の住居の立ち並ぶ真ん中の広場へと連れてこられた。その中のひときわ大きな家の中に入れられた。しばらくすると、朝に小屋に入って来た実言の軍団の者と思われる男が入ってきた。
「耳丸だな。お前のことはわかった。私は楠名というものだ。実言様のもとに仕えている。これから実言様の所へ連れていく」
 実言の軍団の中には、岩城の邸の中に仕えている者が何人かいるからその中には耳丸を知っている者がいて、その身元がわかったということかもしれない。
 楠名という男の言葉に、耳丸は礼を振り返った。礼も耳丸を見上げて、表情を引き締めた。
 二人は楠名や村の男たちとともに、村の後ろの山の中へと入っていく。山の中は幽玄な雰囲気が漂う、鬱蒼とした木々に覆われており、小さな川が流れている。これは、礼達が辿ってきた大きな川へと落ちて行くのだ。小川の周りは岩だらけで、その上は苔むしているので、足を取られそうで歩くのが難儀だった。だいぶ登って、男たちが立ち止まった。耳丸は礼に手を貸してやってそこまで登ってくると、男たちの前にぽっかりと口を開けている岩を見た。自然が作った横穴だった。
「奥には数人の兵士がいる」
「実言様は?」
 耳丸が訊くと、楠名だけが黙って歩き出した。耳丸と礼はそれを追った。
 数段の岩を登ると、目の前のシダに目を向けた。急にしゃがむと、そのシダを左右にかき分けた。自生しているものかと思ったら、入口を隠すためのものだったのだ。そこには耳丸の体がしゃがんで何とか入れるほどの穴があった。楠名、耳丸、礼の順に中へと進む。
 礼は中に入ると、腐臭が鼻をついて、手で鼻を覆った。耳丸も鼻と口を袖で押さえた。
 穴の中は入り口だけが狭く、入ってしまえば礼の身長ほどの高さで奥は広かった。
 楠名が振り返って二人を見、そして誘うように奥へと視線を移した。
 二人は、広い室内の奥に横たわる、黒い人の姿をみる。
 入り口からほのかに差し込む光をたよりに目をこらすと、男が一人横たわっていた。伸びた髪がぼさぼさで、顔は髭で覆われていて、着ているものは肌着のみ。そして、姿形よりもその体から放たれる死臭にも似た強烈な臭い。血の臭いか屎尿の臭いか汗の臭いか。
 礼は、愕然とする。これは実言であろうが、実言ではないと思いたかった。
「実言様」
 耳丸が呼んだが、反応はない。
「まだ、生きておいでだ。我々もどうしていいのかわからないのだ。下々の兵士にこの姿は見せられない。だからと言って、お怪我を治す術もわからない。もう二十日ほどここに入って苦しまれておる。最近は意志を示されることはない」
 楠名は言って二人を見た。
 礼は、耳丸と楠名を押しのけるように前に出た。横たわる実言のそばまで行き、体の横に沿って置いてある腕の上に手を乗せて、手の甲の方へと自分の手を動かした。そして、手の甲を上から握った。ゆっくりと実言の顔に自分のそれを近づける。髭に覆われた実言の顔を見たことがないため、不思議な気がした。少ない光に目を凝らして見ると、実言は目をつむり、眉間に皺がよらせて苦痛に歪んだ顔でいる。
「敵から逃げる時に、落馬されたのだ。腕と腿に怪我をされて、腿の傷が癒えず、それに苦しまれているのだと思う。落馬後に敵から逃れるために随分無理をして移動されたから傷口は広がるばかりだった」
 礼は、耳丸を振り向いて身振り手振りで実言の体の下に引いた筵を引っ張れと言った。実言の体をもっと入口の方へ持って来たかったのだ。耳丸は実言の頭の方にまわり、楠名が足の方へ行って筵の端を持ち上げる。部屋の真ん中へと移動させた実言は前より光が当たって、その様子がよく見た。礼にとっては想像していたことかもしれないが、見てはいられない姿だった。肌は汗や土で黒くなり、枯れ木のように痩せて、死人同然の姿だった。
 礼は実言の肌着の裾をめくると、現れた左の太腿に膿んだ傷口が現れた。蛆がわいていて目を背けたくなるほどのひどい傷口である。
「ここは夷と大王の民たちが入り混じっている。夷はこの村の人数を把握していて、見知らぬ者がいればすぐにわかるため、我々もこのような山の中に隠れていなくてはいけない。それでいて、夷たちはたまに山の中を警戒して見回るので、岩場を転々としたりしていたが、実言様はここに隠れていただいてから、動けなくなってしまったのだ」
 楠名の説明を聞きながら、礼は耳丸に訴える。入り口に顔を向けて、唇を大きく動かしている。
「み、み、ず?水か?」
 耳丸は読み取って声にする。
 すぐに村人に言って、桶に水を汲ませて持って来させた。
 礼は実言の左太腿の前に座ると、耳丸と楠名を両脇に置いて、処置に入った。実言の頭の方に座った耳丸に礼は清潔な白布を手渡す。耳丸はそれが何のために必要なのか計りかねた。
 礼は手で実言の腿に巣食う蛆たちを除くと、手ぬぐいを水につけて傷口の外側からゆっくりとふき取っていく。落馬して、太い枝が刺さったのか、太ももには下から上に向かって深くえぐられた長い傷口がある。じゅくじゅくと膿を溜めた傷口が塞がらず、不衛生のままでそこから身体中に毒がまわっているのだ。
 礼は、桶から水を汲むと傷口に注ぎ、洗い始めた。両脇にいた男たちは急なことで、あっけにとられた。礼の手が実言の腿の傷の中へと入っている。何に対しても無反応ではや死の直前の姿であった実言が、体を跳ね上げてその痛みに抵抗する。上半身を耳丸が押さえて、両足を楠名が取り付いてどうにか実言の動きを封じた。それまで静かだった実言の口からうめき声が漏れる。
「実言様!どうかご辛抱を」
 耳丸は声を掛けるとともに、白布を実言の口に加えさせた。励ます耳丸の声が実言に聴こえているかわからない。実言は痛みに体が反応してしまうのだろう。耳丸と楠名の押さえが効かないほどの強い力で左右に動いて体が痛みから逃れようとした。
 礼も、実言が動くのを左手で力いっぱい押さえて、傷口を洗う手を止めない。額に汗を浮き立たせて、表情を変えず、冷静に処置を続ける。洗い終わると、礼はついと実言の腿に顔を寄せて、傷口を吸った。吸い出したものを、手ぬぐいの中に吐き出し、それを三回繰り返す。そして、再び傷口を水で濯いだ。ちょうど、桶の中の水を使い切ってしまって、礼は耳丸に桶を突き出し、水がないことを教える。いつもの礼と違って、控えめな様子はなく力強く指示をしてくる。耳丸は横穴の外に控えている者に桶を渡して水を頼んだ。すぐさま水の入った桶が運ばれて、礼は実言の体を拭いてきれいにした。新しい筵を用意させて、肌着も新しい物を着せさせた。
「この場所を変えられないでしょうか。この場所は、実言様の体にはよくないはずです」
 耳丸が楠名に言った。
「それはわかっている。しかし、夷がいつこの村に来るかわからない。奴らも我々が路頭に迷っているのをわかっていて、しつこくつけ狙っているのだ。村人も自分たちに危険が及ぶようであれば、我々を匿い続けることをしないだろう。いつ夷に味方するかわからない」
 耳丸はその言葉には押し黙った。息苦しい悪臭と薄暗くて硬い場所で、実言を寝かしておくのは怪我の治りを良くしないのはわかっているのに、どうしようもないのが歯がゆい。
 礼は水筒の水と、飲み薬を耳丸に渡して、飲ませるように指示した。
 痛みに苦しんだ実言は、無意識に唸っている。耳丸は弱り切った実言の頭を自分の膝の上に乗せて、ゆっくりと口の中へと注いでやる。実言はされるままに嚥下する。
 礼は実言の体の横に座って、耳丸が飲ませている手元を、傷の治療で苦しんだ実言の顔を見つめた。随分と時間が経った。楠名は横穴を出ていったが、礼と耳丸はまだ座って実言を見ている。実言から苦しそうな唸り声は止み、静かに寝息を立て始めた。眠りを促す薬を水と一緒に飲ませたのが、効いてきたのだ。
「一旦出ていただこうか。最近はこの村に夷は現れていない。今日あたり、この村に寄るかもしれない。我々は夜まで別の場所に姿を隠す」
 楠名が戻ってきて言った。
 横穴からでると、新鮮な空気が肺の中へと入ってきた。こんな不衛生な穴の中に実言を入れたままにはできないと思うが、いまはどうしようもない。
 楠名たち歩ける兵士はもっと深い山の中へと入って行った。
 実言が寝かされている横穴の下にある、入り口が大きく開いた大きな横穴には入り口近くに二人の兵士が座り込んでいたのを見たが、今はおらず、楠名たちとともに隠れたと思われた。
 前に出て耳丸と話をする男は串良という名だ。やっと名乗ってくれた。その男は、礼達を小屋に連れて帰る時に大穴の前まで来ると、礼を振り返った。
「あんたが医者なら、奴らも助けろよ。この奥にも動けない兵士がいる」
 礼はそれを聞くと、吸い込まれるように穴の中に入っていた。この大穴の入り口は、耳丸も立ったまま入っていけるほど大きい。中に行くほど天井が低くなっていく。礼は腰を折って中に入っていくと、そこには壁に背を預けて座ったり、実言のように寝かされたりして傷ついた五人の兵士がいた。
 この中も屎尿や汗、血の入り混じった異臭がするが、実言のいる横穴よりは空気の流れがあった。礼は、耳丸に水を持ってくるよう頼んで、実言と同じように怪我をした兵士の傷口を洗って、汚れた体をきれいにした。五人の体を同じようにしてやると随分な時間がかかったが、礼の手は休むことはなかった。
 終わると、礼は大穴の入り口まで出てきて、壁に向かって座った。耳丸は礼を見守るしかなかった。
 礼は、肩を震わせている。両手で自分を抱いて、静かに泣いているのだった。
 礼の涙はどのような感情から流れているのか。実言が生きていたことの喜びなのか、実言の今、死んだとしてもおかしくない姿への絶望なのかわからない。礼の肩の震えが収まるまで耳丸は礼が向かい合う壁とは反対側に座って待った。
 ひとしきり礼は静かに涙を流したら、我に返ったのか、後ろを振り向いて耳丸を探した。すぐ後ろの壁に寄りかかって座っている耳丸を見ると、安堵したのか礼は息をついた。
 刻はすでに日暮れになっている。村の若者が迎えに来て、閉じ込められていた元馬小屋に戻った。違うのは外から扉に横木を刺されることはないし、縛られることもない。二人は自由だ。そして、女たちがいつもの通り粥を持ってきてくれた。礼は耳丸から煮炊きをしたいから竃を使わせてくれと頼んでもらって、二人で女の家へ行って薬草を煮出したりした。

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