部屋の中では、キャキャと笑う子供の声がしている。それにつられて、周りの大人も嬉しくなって笑い声や優しい声音の言葉が飛び交っている。真ん中には、もちろん、礼と実言の子である双子がいて、礼や乳母、侍女たちが囲んで座っているのだ。
耳丸は庭から、格子の上がった開け放たれた部屋の中を見た。女たちは双子の様子に夢中で、皆の頭が寄せ集まっている。
耳丸も、生まれてからしばらくして双子と対面することができた。縫と乳母の腕に抱かれて自分の前に差し出された男と女の双子は、それは二人とも実言によく似ている。すやすやと眠る二人の寝顔に、耳丸は癒されたものだった。
耳丸は部屋の誰かに用があったわけではなく、ただ庭を横切って近道をしたかっただけなので、静かに歩いていた。それを礼は見とがめて、皆の輪から外れて、簀子縁から階を下りてきた。
「耳丸。こっちへ」
礼は耳丸に自分の方へ近づいてきてほしいと、小さく手招きした。
耳丸は無言で礼に近づく。
「申刻(午後四時)に、畑の樹の元に来ておくれ」
礼は小さな声で言った。
耳丸は、頷くでも返事をするでもなかった。礼も耳丸が了解してくれたかどうかを確かめることなく、つっと階を上がって部屋の中の輪に戻っていった。
すでに申刻を過ぎていた。気の乗らない耳丸はぶらぶらと歩きながら、前に礼が登っていた畑の樹までやってきた。案の定、礼は樹に登って、幹に背中を預けて、幹から分かれた太い枝に脚を乗せて座っていた。
「……礼」
耳丸が足音もなく不意に近づいて、声をかけたものだから、礼は驚いて木の枝に乗せていた片脚がずり落ちた。耳丸は礼の目から頬にかけて、涙が伝っているのを見咎めた。
「何の用なのだ」
耳丸は樹を見上げて言った。
「よく来てくれたわね……ありがとう」
礼は木の上で頬を袖でぬぐうと、ゆっくりと樹から降りてきた。
「耳丸は、実言と一緒に北方の戦に行きたいと言っていたはず。今でも北方の戦に行きたいと思っている?」
礼は耳丸の前に立ちはだかるように立つと、しっかりと耳丸の目を自分の一つの目で見返して言った。実言よりも背の高い耳丸は、立っているだけで礼に覆いかぶさって喰ってしまいそうな感じだ。
「ああ、実言とのやりとりを聞いていたのか。ならわかっているだろう。行きたいが、行けない。実言がお前たちのそばにいろというのだから、仕方がない」
礼は耳丸の言葉が終わると、しばらく唇をかみしめてためらっていた言葉を一気に吐き出した。
「……私を……耳丸、私を……北方に連れて行ってくれないか」
出し抜けに言われた言葉に、耳丸は何も言えず、立ち尽くしていた。言われたことは理解不能で、何も言い返せないのが本当だ。荒唐無稽な作り話に付き合ってくれと言われているようなものだ。
「……耳丸。私は本気なのよ」
耳丸は、やっと言葉を吐き出した。
「何を言っているのだ。北方に行ってどうするのだ。もしかして、音原様の手紙に実言のことが書かれていたのか!」
「大王の軍が劣勢だと。一師団がいなくなったと書かれていた」
「それが、実言だというのか!」
「実言だとは書かれていない。……だけど、私はそれは実言だと思う。耳丸に示せる証拠はない。だが、私にはそうとわかる。そうでなければ、実言が現れるわけがないのだ。あんなに気高い人が夢に出てくるなど」
「……それが、須和の娘の力なのか?」
「わからない。でも、私には実言が北方の空の下で苦しんでいることがわかる」
「戦場に行って、何になるのだ。お前に何ができるというのだ」
「きっと、実言は怪我か病気で苦しんでいる。私は、それを治療したい。実言の命を救うために、できることをなんでもしたいのだ」
「実言が夢の中で別れを告げると言っていたな。万が一にも、実言が戦死していたら、どうするのだ。行って何になる」
「たとえ、もし、実言が死んでいたとしても、その時は、実言を私たちの元に連れて帰りたい。髪でも、骨でもいい」
「……言っただろう。北方の戦場まではひと月はかかるのだ。でも、それは順調にいってのこと。道に迷ったり、野盗に襲われたりと予期せぬことが起こって、もしかしたら、お前自身が命を落としてしまうことがあるかもしれない。もし、運良く、実言のもとにたどり着いても、そこからまた帰ってくるのに、同じ危険に遭うのだぞ。お前の命がなくなる可能性が高いのだ。それをわかっていて、お前は行きたいというのか」
礼は頷いた。
「しっかりと冷静に考えろ。須和の力か、何か知らないがお前は実言が苦しんでいることに耐えられないのは、わかる。が……お前は双子のことを忘れているのか。あの子たちを母親のいない子にするということになるのだぞ。お前はそれでいいのか。実言はそんなことを望んでいないはずだ」
双子のことを言われて、礼がぐっと歯をくいしばったのがわかった。顔色は変わり、すぐには耳丸の言葉に言い返せない。しばらくして、礼は絞り出すように言った。
「もし、私が死ぬようなことがあっても、二人は去様や岩城のお父様が立派に育ててくださるわ。耳丸、私は軽々しく思いつきで言っているのではない。……でも、耳丸を危険な目に合わせてしまうことになってしまう。だけど、私は必ず実言を助けてみせる。その手伝いを頼めるのはあなたしかいない。だから、どうか、お願い」
礼は苦しそうに言って、顔を両手で覆った。泣いてしまった顔を見せないよう、声を必死で殺そうとした。
耳丸はやっと口を開いた。
「……命が惜しいなんてことはない。実言と一緒に北方に行きたかったのだからな。だが、お前を勝手に連れていくわけにはいかない。お前を信じたとしても、去様のお許しがなければ、行けないだろう。お前が去様を説得できたら、俺は一緒に行く」
礼は、パッと覆っていた手から顔を上げた。涙の滲んだ瞳が耳丸を見上げた。
「わかったわ」
礼は即答した。
去の許可は、とても高い関門だ。到底、去は礼が北方に行くことを許すはずがない。
耳丸は礼が去に諄々と諭されながら、一時の激情を静めて、双子とともにここで実言の帰りを待つことを受け入れるはずだと思った。それに、礼が北方に行くには体力的に厳しい。自分の命のことはいいが、もし、礼を死なせてしまったら、実言にどんな顔で会えるだろうか、きっと会うことはできないだろう。そんな賭けに出るわけにはいかなかった。
「だいぶ陽が落ちた。屋敷に戻ろう」
耳丸は促して、踵を返した。少し振り返ると礼は袖口で頬を拭い、とぼとぼと耳丸の後ろに続いた。
「なぜ、こんな畑の真ん中までくるのだ。子供と離れてしまうだろう」
「……誰にも、実言の夢のことは話していない。耳丸だけだ。……不意に涙が出てしまう。皆はわけもなく泣いているように見えるだろう。余計な心配をさせてしまう。だから、一人になれる場所に行くのだ」
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