碧は、幼い時からその容貌で人を惹きつけてきた。園栄は姪のその美貌にいち早く目をつけ、親を差し置いてその将来を決めてしまった。碧の父親である河奈麿も異論はないのだが。
わが娘が大王の御子をなし、その御子が次の大王になることはどれほど素晴らしいことだろうか。そのためであれば、娘が眠れない、体がだるいというのを治してやるのは当たり前だ。一族の者を呼べというのであればたやすいことである。
すべては、一族の繁栄のために。娘が大王に尽くすために、園栄は何でもしてやるのだ。
邸の奥では、今日も三番目の息子の妻が後宮に行く準備をしている。園栄は舎人から報告を受けてうなずいた。
前回訪ねた時に次回の訪問を決めていたから、礼は約束の日の朝、後宮に行く準備に忙しかった。
車を裏門に回してもらうと、そばには耳丸が付き添っていた。後宮に行くときにはいつも耳丸が付き添うように実言が決めているのだ。
礼は先日の耳丸の言葉がまだ心に刺さって、耳丸が近くに来ると少し怯えてしまう。耳丸は礼のその気持ちを知ってか知らずか、平然と礼に接している。
耳丸はいつも車の乗降時に礼に手を貸してやるが、今日は後宮について車から降りるのに礼が足をうまく下ろせなくて転げそうになった。耳丸は礼の手をしっかりと握って支えて、礼が前に倒れるのを防いだ。
「ありがとう」
礼は体勢を立て直し、車から降りる。礼がしっかりと立ったことを確認して、耳丸は礼の手を離した。忠実に仕事を行い、礼への悪意など微塵も感じさせない。誰も二人の間に溝があるなどとは思えないだろう。
後宮内の一室で縫と別れて、礼は後宮の女官の後に沿って碧の住む館に向かった。離れの館について、部屋に通されると何人もの侍女に取り巻かれた中に、碧は座っていた。
「礼」
碧は嬉しそうに、表情を綻ばせた。
「碧様。ご気分はいかがでございますか?」
一通りの挨拶を済ませてから、礼は碧妃に尋ねた。
「変わりない。礼が来てくれてから、よく眠むれている」
顔色も良く、微笑む碧には体の不調はなさそうだった。いつものよう扇を勢い良く閉じると、侍女達は静かに下がっていった。
そうすると碧はくだけた様子になって、岩城家の様子を聞いてくる。礼は微笑んで。
「河奈麿様から、碧様に異国から届いた珍しい品々を預かっております。後ほど、碧様の元にお届けいただけるでしょう」
「そう。ありがたいわ。ここは物心ともに満たされているけれども、岩城家からいつも心をかけてもらっていると感じられることはとてもうれしいこと。大王は私に寂しくないかと何かと気にかけてくださるけれども、私がこうしていられるのも岩城の皆のおかげだから」
碧は胸に手を当てて嬉しそうにその美人をより華やかにして話している。
礼は岩城家で起こったことを話して、二人だけの会話はにぎわった。
話がと切れたところで、碧は礼に言った。
「ところで、これから私と一緒に会ってほしい方がいのだけれども、どうだろう」
「どなたでしょう?」
礼は突然のことで、戸惑いながら訊いた。
「大王の三番目のお妃様である詠様が、礼に是非とも会いたいとおっしゃっているのだ。私は日頃から詠様によくしていただいて、先日礼のことを話したらご自身も見てもらいたいとおっしゃったのだ」
「私は、碧様のことだけでも、恐れ多いのに他のお妃様なんて、無理ですわ」
礼は大王の妃と聞いて、すぐに断りの言葉を放った。
「もう、話は通してあるのだ。心配ない。穏やかなお優しい方なのよ」
礼の気持ちなどお構いなしに、話は決まっている。
碧のところに通うことを決めてから、大王とその妃達のことは実言から一通り教えられている。
大王は御年三十五の男盛りである。大后は王族の中から選ばれた大王の従姉妹にあたる甘妃である。お二人の間には王子がお生まれになり今は十六歳におなりだ。第二妃も同じく王族から迎えられたが、出産後に命を落とされた。生まれた御子は姫御子で、母君の祖父母によって健やかにお育ちになっている。そして、第三妃である、詠妃。貞波家という中級の家柄の娘は、宴の席で他の少女たちと一緒に乙女の舞を披露した時、その美貌が都を賑わせ大王に献上されるように後宮に入ることになり、程なくして王子をお産みになった。その後、椎葉家が画策し荒益の姉である幹が後宮に入り、後を追うように岩城家の碧が後宮入りしたのだった。
碧はこれから詠妃に会うのを楽しそうにしている。礼は少し気後れした。ここには、碧のために来ているのだ。他の妃のことにまで首を突っ込むことになるとは考えてもいなかった。詠妃に対して自分ができることなど何もないと思えた。もし、体調が悪いのであれば、後宮の医者に言えばいいのだから。
「私などに何ができましょう」
もう一度、礼は抵抗するように言った。
「詠様は両親を亡くされて帰る実家もなく、ずっとこの後宮で暮らしておられて、外から訪ねてくる人もいらっしゃらないの。だから、私などをお呼びになっていろいろと話を聞きたいとおっしゃるのよ。それほどかしこまることはない。さあ、行こう」
碧は腹心の侍女を呼んだ。几帳の後ろから出てきた侍女に何やら扇の向こう側で話をして指示をしている。
礼はそわそわしながら、部屋の隅に控えている。こんなことは実言に事前に相談するべきだが、碧はそのような配慮はないのだった。
「礼、こっちだ」
碧は侍女に案内させながら、礼を引き連れて詠の住む館に急ぐ。詠の館に渡る廊下の前に、詠に仕える女官が待っていた。
「詠様がお待ちでございます」
女官はすぐに廊下を渡るように道を開けて、詠の部屋へと案内した。
「碧様、よく来てくださいました」
優しい声が出迎え、礼は碧の後ろにかしこまって続いて部屋の中に入った。
「来ていただけて、嬉しいわ」
碧は詠の前に座り、礼はその右斜め後ろに控えた。
「後ろの方が岩城の……」
「はい、礼でございます。私の兄の妻ですが、少し医術を心得ており私の体のことを相談しているのですわ」
「……礼でございます」
礼は慌てて頭を下げて下を向いたまま挨拶をしてそのまま二人の会話を聞いていた。
「顔をあげなさい」
詠に言われて、礼はゆっくりと顔をあげた。
詠は礼の顔を見て目を瞠った。礼も詠と目が合ってすぐに目を伏せた。
美しい。礼の周りには美しい女性たちが大勢いる。子供のころは、朔がいた。大王の妃候補にしてもおかしくない美貌の娘だった。そして、碧も一族から選りすぐって送った娘で非の打ちどころのない端麗さである。しかし、この詠妃はその二人よりも抜きんでているように思う。
「どうした?」
まばゆい光に照らされたように顔をそむけたことに、詠は不審がって言った。
「いえ」
礼は言い淀む。
「詠様がお美しいので、思わず目を伏せたのですわ」
代わりに碧が礼の気持ちを代弁した。その通りだ、と礼は思った。
ころころと詠と碧は笑っている。
「ところで、礼はどのようにして医術を得たのだ。岩城の者の妻でありながら、そのようなことを学ぶ機会があったということか」
詠は臆することなく訊きたいことを礼に話し掛けた。
「はい……」
礼はたどたどしく、束蕗原と叔母の去のことを話した。
「都を離れてそのようなところで過ごしていたのか。そんなところに連れて行ったのが夫であるとは。面白い。私は十三のときからここにいるのだ。後宮から出ることもほとんどない。礼のような様々な体験をしている者の話を聞くことが楽しみなのだ。どうか、これからも碧様のところへ来た折りには、私のところにも寄っていろいろと話を聞かせておくれ」
程なくして、碧と礼は詠の館から辞した。
「詠様は、後宮のしきたりを知らない私にいろいろと教えてくださるの。いつも助けてくださるのだ」
碧の部屋に戻ると、碧はそう言った。
碧も後宮で生きていくのに苦労している。詠は碧にとってなくてはならない人であるのならば、礼はその人に自分の身の上話を聞かせることくらいたいしたことでないと思った。
そして、その身に課せられた重圧―御子を、それも男子を授かること―を思うと礼はこの可憐な碧の力になってやりたいと思うのだった。
礼が碧の館から下がって、岩城の離れに帰ってきたときはもう申刻になっていた。部屋に入ると、実言が寛いだ格好で、書物に目を落としていた。
「やあ、おかえり」
実言は顔をあげて声をかけた。
「碧はどうだった?変わりないかな」
「はい。最近はよく眠れるとおっしゃっていたわ。それと……」
「何?」
「詠様のところに、碧様と一緒にお伺いしたわ」
「詠様?……ああ、貞波家の、第三妃の」
「碧様はお慕いしていらっしゃって。碧様が私のことをお話ししたら、会ってみたいとおっしゃられて急遽お会いすることになったわ」
「碧も困ったものだな。私の妻を勝手に見せびらかすなんて」
「碧様は詠様に後宮での生活についていろいろと教えて頂いているといって、とても頼りにされていたから、詠様にお願いされたから断れなかったのかもしれない。でも、私は碧様だけにお仕えしたいわ。私のようなものが恐れ多くも他のお妃様に何かして差し上げられることはないもの」
「そうだな。碧には釘を刺しておこう」
「でも、とても美しい方だったわ」
礼は詠妃のその絶世の美貌を脳裏に思い出した。
「ははは、美貌の人だと聞いているよ。私はそのお姿を拝見したことはないのだが」
実言は見たことない女人のことなどもう頭にはなく、目の前の礼の手を取った。
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