「実津瀬……」
桂は自分の手から徳利を取り上げられて、振り返った。
「桂様、今日はお招きいただきありがとうございました。楽しい時間だったので、私も曽野殿もそして、桂様も沢山お酒を飲んでしまったようです」
曽野亘は杯を下ろし、下を向いた。稲生が席を立って、亘を後ろから支えた。
「ふぅん。そうか、私はそんなに飲んだのか?」
言った桂は確かに掴んでいた徳利が手からすり抜けた。実津瀬が持っていたから下に落ちることはなかった。
「あや、危なかった」
「桂様はよくお酒を飲まれましたよ。今日、私たちは桂様に大変もてなしていただきました」
実津瀬の言葉に桂は頷いた。几帳の後ろにいた侍女が出てきて、桂の手を取ろうとした時、桂は実津瀬の袖を掴んで言った。
「亘、悪かった。無理をさせたな。しかし、酒も料理もあるだろう。皆はまだ楽しんでほしい。だが、私は実津瀬が言うように、飲み過ぎたようだ。休ませてもらおう」
桂は目を見開いて五人を見回して言った後に、隣に膝をついて自分を支えている実津瀬を見た。
「実津瀬、お前は私を部屋まで連れて行っておくれ。いいだろう?」
実津瀬は即座に返事をしなかった。それを桂は顔を覗き込んで、連れて行けと訴えてくる。
「……分かりました。お連れします」
桂が手をあげると、実津瀬は手を差し出してその手を掴んだ。
「私は失礼するが、皆は心ゆくまで楽しんでおくれよ」
桂は言って、実津瀬の手を掴んで部屋を出て行った。
部屋に残った五人は桂の言葉とは裏腹にこれ以上の食事を楽しむ気力は残っていなかった。桂と入れ違いに、従者が入って来て帰り支度を始めた。
「桂様、お気をつけください。足元が危のうございます」
「そうか?……私はそんなに飲んだのか?」
「ええ、沢山、飲まれていましたよ」
桂の腹心の侍女である鳴が手に灯りを持って先導し、実津瀬は桂の手を取り腰に手を当てて支え、桂の私室へと向かっていた。
「私は……そんなに飲んだ記憶はないぞ」
桂は後ろにいる実津瀬を振り返って言った拍子に、足がもつれて転びそうになった。あらかじめ手を添えていた実津瀬が桂の体を支えたので、転ぶことはなかった。
「大丈夫ですか?立てますか?」
実津瀬は桂の足に力が入るのか尋ねた。桂は首を実津瀬に向けてにっこりと笑って見せた。あれだけ飲み食べたと言うのに唇は先ほど紅を塗ったように鮮やかだった。
「立てないと言ったら、実津瀬はどうするのだ?私を抱き上げて部屋まで連れて行ってくれるのか」
[………桂様、冗談を言ってはいけませんよ]
「冗談ではない。私は足がもつれて歩けないのだ。私をここに座らせておくのか?」
実津瀬の手に掴まっている桂はその場にしゃがもうとした。実津瀬は桂の体を支える腕に力を込めて、桂を立たせた。
「そんなことはいけません」
「では、どうするのだ。私は立っていられない」
実津瀬はぐっと唇を引き結んで、桂を見つめると、身を沈めて桂の足の下に手を回して、横抱きに抱き上げた。
「桂様、失礼しますよ。部屋までお連れする間、我慢して下さい」
実津瀬は桂の我儘に怒気を含んだ声で言うと侍女の後をついて、廊下を進んだ。
「良い眺めだ」
実津瀬の声とは反対に桂は呑気な声で言った。
「私をこうして抱き上げた男は何人もいるが、その中でもなかなかの高見だ。実津瀬は大柄な男だったな。いつも私に合わせて体を屈めてくれているから気づくことがなかった」
桂は実津瀬の首に両手を回して、顔を寄せて言った。
実津瀬は桂の挑発に乗らないように顔色を変えることなく進んで行く。
前を歩く侍女の向こう側には別の侍女が立っていて、桂の姿が見えると頭を下げて迎えた。
その侍女が立っている目の前の扉の中が桂の私的な部屋なのだと察した。
ここまで案内してくれた侍女に続いて、部屋の中に一歩入ると、実津瀬は腰を落とした。
「実津瀬、何をしている?」
「私はここまでです。後は侍女の方々に桂様を託します」
「だめだ。ついでに、部屋の奥まで連れて行っておくれ。ここまでこうして連れて来たのだから、あと少しのこと」
桂に咎められて、実津瀬は体を起こしたが、その先に進んでいいものかと躊躇した。
「頼む。お前の言うように私は酒を飲みすぎたようだ。早く横になりたい」
そう言われて、実津瀬は仕方なく一歩部屋の中へと進んだ。
几帳を超えて奥の部屋に入ると、立派な御帳台が現れた。
今は御帳台は片付けてしまっているが、幼い頃、両親の部屋で見たことがある。
実津瀬と芹はすぐに淳奈が生まれて、乳飲子の淳奈の世話、そして立って歩くようになったら部屋を広く使うために御帳台を置くことは考えなかったが、今からでも離れの夫婦の部屋に御帳台を設えてみようか、という気持ちが浮かんだ。しかし、今はそれを考え込んでいるときではなかった。
「そこへ下ろしてくれ」
桂が言った。
美しい織りの帷子の内側、浜床の上に敷かれた褥の上に桂を下そうとすると、桂が言った。
「実津瀬がまずは浜床の上に座っておくれ」
実津瀬は腕を下そうとしていた動きを止めて、抱き抱えている桂を見た。桂は微笑んでいる。その顔は実津瀬の反応を楽しんでいるように見えた。桂の人の心を弄ぶと言っては言い過ぎか、面白がっている顔が見えた。ここまできて、あれこれと言葉を選んで抵抗するのは難しいと思い、桂の言葉に従って浜床の上に腰をおろした。
桂は実津瀬の首に腕を回したままで、実津瀬はたまらず声を掛けた。
「桂様……こうしていては、褥の上に横にはなれません。やはり私が座ってはいけなかったのでしょう」
「いいや、違う」
桂は回していた手を緩めて、実津瀬に顔を寄せて言った。実津瀬は目だけで辺りを見回した。それまで部屋の隅に控えていた侍女たちの姿が見えない。事態を察して気を利かせて退出したのだ。
「この浜床に腰掛けた男が、このまま立ち去るなんてことは今まで一度もないことだ」
桂の手は実津瀬の首から肩を滑って、頬に添えられた。
「私は実津瀬が好きだ」
次に桂は実津瀬の肩に頭を置いて、胴に手を回して抱きついた。
「……桂様」
実津瀬は身動きできず、樹の幹のようにじっとしていた。
「桂様は舞をする私の理解者です。私の舞を好んでくださっている」
「そうだな、私は実津瀬の舞が好きだ。雅楽寮の舞人の舞も良いが、お前の舞がないと寂しい」
「今日もお招きいただき、酒に料理にともてなしてくださいました。そして音楽もありました。後は舞だけが足りなかった。桂様からいつひとつ舞ってみろと言われるかと思っていました。しかし、今の私は月の宴の準備をしている身。桂様はそのことを思って、舞ってみろとは言われなかったのですよね。月の宴の勝負に万全を尽くさせてくださる桂様に私は敬意を表してここまでお連れしたのです」
桂は頭を起こして、真っ直ぐ前を見つめる実津瀬の頬に右手を伸ばして自分の方を向かせた。
「……実津瀬、私の気持ちをわかっているだろう。目を逸らさないでおくれ」
実津瀬は抵抗せずに桂に顔を向けた。
「実津瀬も知っているのだろう。私は一度は夫と呼ぶ男がいたが、今は自由の身だ。そして私は惚れっぽいところがあるから、意中の男が一人とはいかない。何人もいる時もある。……今は、どうだろう。今は気になる男が他にいないと言えば嘘になるが、順位をつけるなら実津瀬が一番と言ってもいい」
桂は横抱きにされていた状態を実津瀬の膝から足をおろして、褥の上に投げ出し、体は実津瀬の右半身に添わせて艶やかな笑みを浮かべている。
「私には妻がいます」
「ふむ。そうだな。しかし妻は一人でなくてはいけないことはない。世の男は何人もの女人と情を交わし、複数の妻を持っている。実津瀬も妻一人と決めなくても誰も責めたりはしないだろう。いや、お前と妻との間は一悶着あるだろうがな」
「私は妻を愛しています」
「私は他の女人を愛しているという男であっても気にしない。先ほども言ったが私も男は一人だけとは思っていないからな。人の気持ちは移ろいやすいものだ。今日はこの男を思っていても、翌日にはその日出会った別の男に惹かれていることもある。それを責め立てるつもりはない。実津瀬が今、私をどう思っているか、それだけだ。明日、私のことなど忘れて、唯一の妻のことで頭がいっぱいだと言ってもいい。今、この場で私だけを見てくれているなら、何の文句もない」
桂は実津瀬の顔に触れる極限まで顔を近づけて言った。
桂から甘い酒の匂いがした。
「確かに、多くは秘匿しておくものだが私と通じた一部の男はそれを自慢するように吹聴することがあるな。男たちの間では噂になっているとか。それが心配か?私は惚れた男との秘め事を他言したりはしない。あとは、実津瀬が黙っていればいいことだ」
桂の大きく見開かれた目は徐々に細まって睥睨した。
「実津瀬は少なくとも私のことを嫌ってはいないだろう。……我儘に腹を立てることはあっても、腹の底から嫌ってなどいない。それよりも、私たちはきっと強い……絆で結ばれている。……もしかしたら…それは……愛と言うものかもしれない……」
桂は右手を上げて、実津瀬の頬に当てた。
「実津瀬……」
桂の顔が近づいてきても、頬にあたられた手で実津瀬は顔を背けることができなかった。
「今夜、私を」
桂の唇が実津瀬の唇に触れる。
柔らかな感触が伝わる。
そう思ったのだが、それは妄想に終わった。唇に触れる直前に桂の頭が下がって、右胸に当たった。実津瀬が桂の肩を持つと桂の顔が上向いて覗き込むと、桂は眠っていた。
宴の時に招かれた者たちが代わる代わる桂にお酌をしに行って、桂はたくさんの酒を飲んでいた。酔っていないと強がったことを言っていたが、やはり酔っていたのだろう。静かな寝息が聞こえてきた。
実津瀬は桂を横抱きに抱き抱えて頭を枕に乗せて褥の上に横たわらせた。
これで自分の役目は終わったと思った実津瀬は、極めて私的な桂の寝室から退出しようと思った。御帳台から離れようとしたら、引っ掛かりを覚えた。何だろうと思ったら、実津瀬の上着の袖を桂の左手が握っていた。
この手を解いてしまうことも出来たが、実津瀬は夜明けまでそうすることができなかった。
New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第七章16

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