New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第七章14

小説 STAY(STAY DOLD)

 季節は進み梅雨の時期。
 連日雨が降り、たまに出る陽がありがたい。
 今日は前日まで降り続いていた雨が上がって久しぶりの陽が差している。岩城五条の邸は御簾をあげて湿った部屋に陽を取り入れようしていていた。
 離れの夫婦の部屋も御簾を上げて、庇の間には芹が一人座っていた。
 夫は再び月の宴の舞の対決のために、毎日に練習をしている。
 対決のための一人舞をどうするか悩んでいるようで、いつもは宮廷から帰ってきたら息子のいる部屋に来るのに、夫婦の部屋に入って座るとじっと一点を見つめていることがある。声を掛けるのも憚られるほど真剣な眼差しだ。
 芹はどんな舞をするのか考えを巡らせているのだろうと推察する。
 相手は手強いようだから。
 そんな夫のために自分にできることは何だろう。
 嬉しいことに実津瀬は言う。
 そばにいてくれたらそれでいい、と。
 その言葉を真に受けるわけではないが、それは嬉しくて実津瀬のためならなんでもしたくなる。
 前から夏用の下着の準備をしていたが、淳奈のものを縫い終わったので今は実津瀬のものをせっせと縫っている。梅雨が終わったら、暑い日が続いてたくさんの下着が必要になる。芹の左手は親指しかないので、人よりも時間が掛かってしまうが、その一刺し一刺しに心をこめた。
 そんな芹の姿を庭からじっと見つめる目がある。淳奈が攫われそうになったことを受けて、淳奈と芹の警護をしている天彦だ。
 左手の親指で布を押さえて、右手に持った針を懸命に動かしている姿を庭の樹の陰から見つめている。
 それはある者には警護者としての仕事を忠実に行なっているように見える。またある者には、恍惚な表情で女人を見ているだけのように見える。
 それを見分けるのは、観察者が芹と天彦の関係をどう見ているのかによるだろう。大勢は前者のように見ているが、ごく僅かの者は後者のように見えるのだった。
 そのごく僅かの後者の視点で見ている男。実津瀬が母屋から離れの夫婦の部屋に向かってきたが、一人ではなかった。
 その話し声で庭にいる天彦は樹の陰に完全に体を隠した。
「呼んでくれたら行ったのに」
 と実津瀬は言った。
「いや、久しぶりに五条のお邸を訪ねたかったのだ。芹や淳奈の顔も見たかったし」
 そう返したのは、本家の稲生だ。
「そうかい。淳奈は遊んでくれるおじさんが来て嬉しいだろうよ」
 そんな会話をしながら、二人は夫婦の部屋へと入っていった。
 二人の声が近づいて来たのを察知して、芹が庇の間に出ていった。
「やあ芹、お邪魔するよ」
「いらっしゃい。宮廷から二人で帰っていらっしゃったの?」
「いや、門の前で会った。用があって本家から来たそうだ」
 三人の声を聞きつけて、侍女の槻が現れて円座を用意した。それから三人で互いの家族の近況を話した。去年の月の宴以来芹は稲生の妻と子供たちには会っていないので、病気はしていないかと訊ねた。二人とも息災に過ごしているとのことだった。
「では、私は淳奈の様子を見て来ます。お二人でゆっくりとお話しください」
 芹は言って部屋を離れると、稲生が実津瀬に体を向けた。
「月の宴の舞はどうだ?順調か?」
「まあまあだ。やはり、一人舞に悩むなぁ。相手は飛ぶ鳥を落とす勢いの宮廷一の舞手だ。これでいいと妥協したら負けてしまう」
「それは相手も同じことを思っているだろう」
「うん。きっと、それでお互いが知恵を絞ってよい舞を大王にお見せすることができるのだろう」
「大王と……桂様に、だろう」
「……そうだな……桂様にもだ。一番の理解者だ」
「そこでだ」
 稲生は実津瀬に拳一つ分にじり寄った。顔が近づいたので、実津瀬は顔だけ後ろに引いた。
「何だよ。必要があったから近づいたのに、遠ざかりやがって」
「あはは、すまない。で、なんだ」
 実津瀬は頭の位置を戻して、稲生に問うた。
「桂様のお邸から遣いが来たんだ」
「へぇ、そう?」
 実津瀬は言った。
「それでだ、どのようなご用かと思ったら、私と実津瀬、他にも同年代の貴族の子息を集めて宴を催すので来てくれとのお話だった」
「いつ?」
「明後日だ。何か用事があるか?」
「いや」
「用事があったとしても何が何でも出席しなければならないだろうな」
 桂は以前から邸に少人数の人を集めて宴を催しているのは有名な話だった。それのお誘いが今回あったわけだ。
「どれくらい集まるんだ」
「私と実津瀬のほかに他に四、五人呼ぶと聞いた。椎葉孝弥や浅野稲雅の名前が上がっていた」
 椎葉孝弥は、岩城家と双璧を成す椎葉一族の一人である。孝弥の父、椎葉荒益と実津瀬の父は旧知の仲だ。また浅野稲雅は実津瀬、稲生の少年時代から私塾で一緒に学んできた仲間であった。 
「そうか」
 実津瀬はとりあえずの返事をした。
「私は文句なく行く。お前も行くだろう」
 稲生が言った。
「うん……もちろんだ。行く」
「雨が降る日が多いが、晴れたら月見をしながら酒を飲み、色々とお話しされたいそうだ」
「わかった」
 しばらくすると遠くから甲高い声が近づいてきた。淳奈が昼寝から目を覚まして、こちらに近づいて来ているのだ。
「やー」
 との掛け声とともに淳奈が部屋に飛び込んできた。
「淳奈、待ちなさい」
 後ろを追いかけてきた母に言われて、庇の間に入った淳奈は立ち止まった。
「お客さまがいらしているのよ。行儀良くしてご挨拶しなければいけないわ」
 庇の間で言い聞かせられている様子を、几帳の向こう側から実津瀬と稲生は聞いて待っていた。
 準備が整ったところで、芹に付き添われて淳奈が奥の部屋に現れた。
「いらっしゃいませ、稲生おじたま」
 舌足らずで「稲生おじさま」がおじたまになってしまった。
「やぁ淳奈、久しぶりだね」
 とととっと軽快な足音を鳴らして稲生の前まで歩いてきた淳奈に稲生は胡座をかいた左膝を叩いてここに座れと促し、淳奈は素直にその膝に座った。
「よく眠ったかい?」
 こくりと淳奈は頷いた。
「淳奈は舞をしているんだって?お父様の真似をしているのか。お父様の舞は美しいだろう。淳奈は舞についてもお父様の跡を継ぎそうだな。私はそれが楽しみだ」
 淳奈は満面の笑顔を稲生に見せた。
 それから実津瀬の笛に合わせて淳奈が舞って見せた。その姿を見ていると、母屋から従者の忠道が現れて母屋に実言が帰ってきたことを知らせに来て他ので、淳奈の舞は終わらせて、実津瀬と稲生は母屋へと向かった。

 明後日、その日は桂様のお邸で宴が催される日だ。
 実津瀬は宮廷での仕事を終えて、一旦五条の邸に帰った。
「お帰りなさい」
 芹が出迎えた。実津瀬はこれから本家に行って、そこから稲生と連れ立って桂様の邸、佐保藁の宮へ向かうことにしていた。
「ここまで帰らずに、本家から佐保藁の宮に行った方が体が楽でしょう」
 芹は義母の礼からもらった薬草を煎じた湯を実津瀬の前に差し出した。
「ここに帰らないと落ち着かないよ。こうして芹に労わられるのが私は好きなんだ」
 そう言って実津瀬は薬湯を飲み干すと、ごろんと横になり芹の膝を枕にした。
「昨日も舞の練習で遅くまで稽古場に詰められていたもの。お疲れでしょう」
 芹は実津瀬のほどいた髪を左手で撫でながら言った。
「そうだなぁ……月の宴まであとふた月あまり。舞の精度を高めるために今が踏ん張りどきだ。疲れた何だとは言っていられない」
「桂様の宴はお断りできなかったのですか?」
「……稲生や他にも同年の仲間を集めての宴だ。色々と教えてもらえることがあるだろうから行かなくてはいけないと思う。しかし、私にとっては芹という癒しも必要だ。両方を取るためには一旦ここに帰って来るのが最善だったのさ」
 そう言って実津瀬はしばらく目を瞑った。
 芹は自分を癒やしだと言ってくれる夫が愛おしくて、ずっと膝を貸して眠らせてあげたかったが、しばらくすると実津瀬は目を開け、体を起こした。
「そろそろ出発しないといけない」
 芹は部屋の隅に置いていた箱の中から用意していた上着と袴を出して、実津瀬の着替えを手伝った。
「遅くなるようだったら、本家に泊まることにするよ。だから芹は先に休んでおいておくれ」
 実津瀬は自分の腰の帯を結び終えると目の前の芹を抱き寄せて言った。
 芹は頷いて実津瀬の背中に手を回した。しばし抱擁を交わした後、芹は簀子縁まで出て実津瀬が本家に行くのを見送った。

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