五日が経つのを蓮は指折り数えて過ごした。
しかし、その間をただだらだらと過ごしていたわけではなくて、朝起きると薬草園の手入れに行き、昼間は邸の隣にある診療所の手伝いに行くか部屋で写本をした。また、典薬寮に出仕するのに、母の礼と自分に何ができるのかを話し合って自分の仕事を理解する準備をした。その間に、妹たちの話し相手になったり、文字を書く練習に付き合ったりした。そうしていると甥の淳奈が母の芹と一緒にやって来たりするので、蓮の一日は賑やかで忙しかった。
当日は、一人は心配だからと父が頼んで兄の実津瀬が付き添ってくれた。
侍女の曜を連れて、三人で邸を出た。
「こんな日が来るとは思いもよらなかった。蓮と一緒に出仕するなんて」
実津瀬たちが出仕している時間よりも一刻は遅い時間であるが、兄妹で仕事に行くなんてことは思ってみないことだった。
「なんだか心がざわついて来たわ。うまくやれるかしら」
蓮は役所の集まる大内裏に入る門が見えてくると言った。
「気負うことはない。いつもの蓮でいたらいいだけだよ。それを伊緒理殿も期待しているはずだ」
実津瀬の口から伊緒理の名が出て、蓮は驚いた。これまで一言も伊緒理の名は出てきていなかったのに。
「知らないとでも思っていたの?父上や私はわかっているよ。束蕗原で行方知らずになった蓮を見つけてくれたのが伊緒理で、伊緒理は留学から帰って来て、典薬寮の医官になっている。それを知っていたら誰もが伊緒理が蓮を推挙してくれたのだと思うよ」
「そうなのね……」
別に黙っていたわけではないが、伊緒理のことを話すきっかけもなかったので、蓮から話題にすることもなかったが、伊緒理と自分のことをみんなに知らせるとことを考えないようにしていたのかもしれない。
「しかし、蓮が打ち込める場所を教えていただいてよかったではないか。束蕗原で学んだことを活かせるし、さらに新たなことが学べる。こんなことを私たちが考えつくことはない。目の前に示されて初めて名案と思ったものだよ」
実津瀬の言葉に蓮は頷いた。
確かに、伊緒理会いたさに、典薬寮に出仕する、と言ったが、陶国から招いた医師や伊緒理のように留学した者たちがたくさんいる典薬寮は去とは違った最先端の知識に触れることができる。それは思ってもみなかった幸運だ。
実津瀬も父と来た時と同じように美福門から入った。
「宗清がいるかもしれない。蓮もあいつの働きぶりを見張っていてくれよ。まったく心配だ」
「そうね。見ておくわ」
実津瀬と蓮はきょろきょろと門を守っている者たちを見た。
「今日は、中で仕事をしているのかもしれないな」
門を守っている者の中に宗清の姿はなかった。
典薬寮の館まで着くと、父と一緒に来た時にも案内してくれた若い男が今日も玄関で待っていた。その男に実津瀬は言った。
「妹をよろしくお願いします」
「はい」
手を上げて蓮に目配せした実津瀬は自分が勤める中務省の建物へと向かった。
「では、ご案内します」
青年は言った。蓮はおずおずと後ろから話し掛けた。
「あなたは……この間も案内をしてくれましたね?」
「覚えていてくださっているのですね。その通りです。私は賀田彦(かたひこ)と言います。助手として働いています」
助手と言っても、宮廷に出仕する試験を受けて合格した者だから、賢い男に違いない。
「いろいろと教えてくださいね。よろしくお願いします」
と蓮は言って頭を下げると、男もそれ以上に頭を下げた。
「どうぞこちらへ」
先に立って賀田彦は蓮を連れて行った。
先日来た時に通った簀子縁を辿っていたが、二度目の角を逆に進んで、蓮はどこをどう歩いているのかわからなくなって。きょろきょろと顔を動かして目印になるものを探しながら進んだ。中庭の傍の簀子縁を歩いている時は、そこに薬にもなる樹が植えてあるのが見えた。仕事として庭の手入れをするのもよさそうだ、と思った。
「部屋の中でお待ちです」
賀田彦は言って、前回と同じように中に入れと手の先で示した。
典薬寮の頭である三須磨が待っているわけではないだろうが、いったい誰が待っているのだろう。
蓮が部屋の中に入ると、ゆらりと影が動いた。
「蓮」
几帳の陰から声が聞こえて、蓮は喜びで心が締め付けらえる思いだった。
「……伊緒理」
と言ってから。
「様」
と付け足した。
「よく来てくれたね。待っていたよ」
伊緒理は柔和な笑顔で迎えてくれた。
「はい。伊緒理様」
蓮は深々と頭を下げた。
「こちらへ。典薬寮の仕事について説明をさせて欲しい」
几帳の中に入ると机が置いてあって、その前に円座が用意されていた。
伊緒理の前に蓮は座ると、几帳の横に賀田彦も座った。
これから伊緒理と二人きりで、蓮を典薬寮によんだ顛末を説明してくれるのかと思ったが、賀田彦がいてはそんな話もできない。
「ここまでは一人で来たの?それとも侍女も連れてきているの?」
伊緒理が訊ねた。
「はい。侍女が付き添ってくれています。今日は兄の実津瀬も付き添ってくれました。私はもう子供ではないのに父が心配だと言って慣れるまで少しの間は侍女以外の付き添いをつけるというのです」
「ははは。それは、実言様にとって蓮はいつまでも大切な娘であるからね。実津瀬が来ていたのか」
「はい、玄関の前で別れました」
「そうか。私も玄関まで出ていればよかった。久しぶりに実津瀬に会いたい」
「まぁ、そうですか。実津瀬に伝えておきます」
「お願いするよ」
伊緒理は気を取り直して、蓮を見た。
「蓮、改めてよく来てくれた。礼を言うよ」
「まあ、よしてください」
蓮は伊緒理が頭を下げるので、慌てて言った。
「私のほうこそとてもありがたいお話です。典薬寮は伊緒理様のように異国で勉強された方たちのお話を近くでお聞きすることができ、大変勉強になります」
「母上や束蕗原の去様は日々研究されていて、私も勉強させてもらっているけれど、あなたが言う通り、ここで知ることもたくさんあるから向上心のあるあなたにはうってつけな場所だと思う。また、ここで知ったことを礼様と話をして新しい発見を私に、私たちに教えて欲しいと思っている」
「はい」
「それと……ここには助手をしてくれる女官や侍女はいるけれど、皆がみな知識のある者ではない。蓮のような医術の知識のある女人がいると、王宮の女人の方々が病気になった時に大変頼りになる。宮廷に勤める女官たちも、私たち男よりも女である蓮に気軽に相談ができると思うのだ。だから、あなたが必要なのだ」
あなたが必要、という言葉は蓮の心を甘くくすぐった。
仕事のことを言っているとわかっていても、伊緒理が言うとなると違う思いに取りたくなる。
束蕗原のあの夜以来、顔を合わせた。
束蕗原で見ていた時は、普段着の楽な格好で、髪も下ろしてひとつまとめていたり、うえに上げたりといろいろな姿であったが、典薬寮にいる今はきっちりと髪をひっつめて上げて結び、白の上着と袴を着けている。今までに見たこともない仕事着の姿に、気を付けていないとぼうっと見惚れてしまうのだった。
「蓮……蓮……」
蓮ははっとして我に返った。
「はい」
「大丈夫かい?」
「はい。すみません」
「では、薬草を納めている場所に案内しよう。典薬寮の薬草の調合を記したものも見て欲しい」
伊緒理と共に立ち上がって蓮は後ろをついて行った。蓮の後ろを賀田彦がついて来る。
伊緒理と二人きりになれるのか、と思ったがそうではないらしい。
ここには仕事をしに来ているのだから、伊緒理のことばかり考えるなんてだめよ。
蓮は自分を諫めて、薬草の箱が並ぶ部屋で、伊緒理の説明を二度は聞くまいと一生懸命聞いて、覚えようとした。
一刻が経った頃に。
「では、初日はこのくらいで」
典薬寮の薬草の管理の説明が一通り終わったところで、伊緒理は言った。
「ご教授いただきありがとうございます」
蓮は丁寧に伊緒理に頭を下げた。
「帰りは私が玄関まで送って行こう。賀田彦、ここの片づけをしておいておくれ」
伊緒理が言うと、賀田彦は「はい」と返事をした。
伊緒理について部屋を出ると、伊緒理が振り返った。
「どうだい?疲れたかい?」
蓮は反射的に首を横に振った。
「……いいえ」
「そうかい。でも無理はいけない。束蕗原で鍛えられたからと言ってもね。ここはまたここでしきたりなどがあるから、あなたも気を使うだろう」
蓮は気安い言葉で話したいと思ったが、どこで誰が聞いているかもわからないので、砕けた物言いはせずに答えた。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。このような身に余る場所に推挙いただいたのですが、世間知らずでどのように振る舞えばいいのかわかっておりません・伊緒理様にお教えいただいて心強いです」
「これも慣れればどうってことはないよ」
蓮と伊緒理は簀子縁を肩を並べて歩きながら会話した。玄関につく前に伊緒理が胸に手を入れて、「蓮、これを」と取り出したものを差し出した。
「帰ってから読んでおくれ」
蓮はざらっとした紙の手触りに嬉しくなった。すぐに自分の胸に折りたたまれた紙を突っ込んだ。
玄関前につくと、侍女の曜が立っていた。
「また、五日後に。待っているよ」
伊緒理の別れの挨拶に蓮は頭を下げて典薬寮の建物から出て行った。
「蓮様、どのようにしてお帰りになりますか?」
「来た通りに戻りましょう。まだ、慣れないから冒険はやめておくわ」
蓮は言って曜と一緒に五条の邸に帰って行った。
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