意識は戻ったものの、蓮にとってあの一夜の経験は壮絶なものだったようで、隣で寝起きしている礼は、夜中に蓮がうなされている声に飛び起きた。
近づいて、そっと額に手を置くと熱く、たくさんの汗をかいている。
庇の間には侍女の曜が寝ていて、すぐに礼の様子を察知し、灯りを持って部屋の中に入って来た。
「ひどい汗ですね」
曜は悲しそうな顔で灯りを置くと、部屋の隅に行って水の入った盥を持って来た。礼が水に浸した白布を蓮の額に置いた。手を握ると、蓮は握り返してきて浅い呼吸を繰り返している。礼と曜はそのまま、朝まで蓮の様子を見守った。陽が昇り、蓮が自然と目を覚ますまで待ち、蓮が目を覚ますと、ゆっくりと体を起こして、体を拭く。都では蓮は何でもよく食べて、豊満な体つきをした子だったが、今はすっかりほっそりとした体になっている。束蕗原で見習いとして起きてから寝る前まで立ち働いていただろうから少し痩せたのはわかるが、水に落ちてから七日が経っても大したものは食べられていないことがより体を小さくさせていた。今も、食べられるものは水、薬湯、重湯で、それをかわるがわる飲んでいる。
昨日、村人が山に入ってあけびを見つけたからと去に届けてくれた。邸の者は村人達が食べたらいい、と言って受け取るのを断ったが、お世話になった分を返したいと言って引っ込めなかった。去は受け取ったあけびを蓮に食べてさせるように言って、蓮は目の前に出されたあけびの少し汁を吸ったのだった。まだ、吸う力も弱くて、三度吸ったらもういい、と言ったが。
「甘くておいしい」
と弱々しいが笑った。
その顔を見て礼も去も少しばかり安心した。
しかし、蓮の体が回復するのにはまだ時間を要し、それから十日も寝て過ごした。
その間に、父の実言が弟の宗清と一緒に束蕗原へ来た。
「蓮……」
目を瞑っている蓮に実言は呼びかけた。
瞼を震わせるように二度、目を細く開け閉めして、三度目に目を開けてぼんやりと宙を見つめた。
「よく耐えてくれたね……」
実言は言って、蓮の頭に左手を置いた。
「お父さま……」
蓮は誰が傍にいるのかわかり、視線を右に移した。
「……ん」
「……来てくださったの……お忙しいのに」
「忙しくたって来るさ。我が子が大変な目に遭って、苦しんでいると言うのに。傍にいて、手を握ってやりたい」
実言は衾から出ている蓮の右手を取って握った。
「できることなら、その苦しみを代わってやりたいのだが。そうできないなら、せめて傍にいたい」
「……」
蓮は目頭が熱くなり何も言えず、大きな手を握り返した。
「姉さま、私もいるのですよ」
実言の後ろからひょっこり顔を覗かせたのは、弟の宗清だった。
「まあ、宗清まで」
「兄さまから姉さまは見つかり、目を覚ましたと聞きましたが、榧姉さまや珊が心配をして、私が代表してお父さまと一緒に来たというわけです」
「ああ……顔が随分……変わったわね……私の知る宗清じゃ……なくなっているわ」
蓮が都を離れて一年も経っていないが、宗清の少年期から青年期への変化の時期に当たった。そう言って蓮は笑った。宗清も、実言も、二人の後ろに座っている母の礼も笑ったのだった。
忙しくたって来るさ、と父は言ったが本当に忙しいらしく、一晩泊まると翌日の昼には宗清と一緒に都へと帰って行った。
実言が去と話をするために席を外した時に、蓮は宗清とたくさん話ができた、と言っても蓮はまだ力がなく、長く話すことができないので大体は宗清が蓮が束蕗原に行ってしまった後の自分達年下の兄弟のことを話して聞かせた。
榧も珊も蓮が束蕗原から帰って来ないことを寂しがっていること。会える機会はないかと、いつも話していること。今回も榧も珊も一緒に行きたいと言っていたことを聞かせた。
蓮は目に涙をためて宗清の話を聞いていた。
「榧姉さまからは手紙を預かって来たんだ。姉さまみたいにきれいな字ではないから、恥ずかしいと言っていたけどね」
そう言って、胸から折りたたんだ紙を出した。
「姉さまがもう少し元気になったら読んでよ」
蓮の手の中に入れた。
蓮は家族たちが心配してくれていることを知って、申し訳ないという気持ちと家族の優しさを感じた。
食事が重湯からお粥に変わったのは、蓮が見つかってからひと月が経った頃だった。
体を起こして、書物を読むこともできるようになって、その時榧からの手紙も読んだ。
すぐに榧の傍に行ってやりたい、と思った。十六歳になった榧は、結婚相手が決まった。父の実言は蓮とは違って、妹の榧には早くから相手を決めていた。周りの者はそのことはわかっているが、幼い当人はそんなことを思ってみなかっただろう。しかし、成長するにつれてそのことに気づいていた。今、それを受け入れることの葛藤、不安について打ち明ける手紙だった。榧の気持ちに寄り添いたいが、こんな体では難しい。早く元気になって返事を書きたかった。
お粥を食べられるようになってから、蓮は起き上がって過ごすことが多くなっていた。その時を見計らって、見習い仲間の二人が部屋を訪ねて来た。事前に二人が蓮に会いたがっていると聞かされて、いつでも来ていいと話していたのだ。
「蓮さん!」
その声に蓮は庇の間へ顔を向けた。
井が几帳の陰から顔を覗かせた。続いて鮎が厳しい表情をして入って来た。二人は蓮の褥の横に並んで座った。
反対側には母の礼が座っている。
「蓮さん……って呼んでいいのかしら?」
鮎は言った。
「もちろんよ」
蓮は応えた。
「岩城家の方だと知らなかったとはいえ、気安いことを言ってばかりで申し訳ありませんでした」
鮎が頭を下げると井も続いて頭を下げた。
「そんなこと気にしないで。去様の元で医術を学ぶ同志なのですから。私の出自がどうであろうと関係ないわ」
鮎も井も蓮は自分達と同じ身分の低い家の娘だと思っていたから、恐縮して体を小さくしている。
「体は……大丈夫ですか?まだ、床上げできないのですね。あれからひと月経ちましたけど」
井が言った。
「そうなの……早くみんなの元に戻りたいのに」
「いいえ!そんなことが言いたいのではないのです。しっかりと体を休めてください。でも、早く良くはなって欲しいです。蓮さんがいないと寂しいですから」
井は自分の言葉を取り消したいと両手を前に出して広げ、手を振った。
蓮は井の明るさに笑みをこぼした。
「あの日……蓮さんは牧さんと一緒に裏道を下りて行って、蓮さんが足を滑らせて水の中に落ちたと聞いているわ。牧さんはあなたを助けることができなかったって、責任を感じて泣いていたわ」
それを聞いて蓮はあの時のことを思い出そうとした。
確かに牧と一緒に裏道を下りて行って、様子を見ていた。しかし、その後のことがはっきりと思い出せなかった。気がついたら水の中に落ちていた。
「牧さん、蓮さんを助けられなかったことを申し訳なく思っているみたいです。人が変わったように争いごとを起こすことなく、仕事をさぼることもなく働いているのですよ」
井の言葉に、蓮は微笑んだ。
牧が一生懸命みんなと働いているなら、それはいいことだと思った。
「長居してはいけないわね。蓮さんはまだ、休んでいないといけないのだから」
鮎が言って二人は部屋を出て行った。
部屋の隅で黙って聞いていた母の礼が蓮の横に座って。
「横になりましょう」
と言って、蓮が横になるのを手伝ってくれた。
「……ここに来て、見習いとしてみんなと一緒に学ぶことは楽しかった」
蓮は呟くように言った。
「そう……よかったわ。ここで学ぶことがあなたのためになって」
蓮は二人と会って話をしたことで少し疲れた。横になるとすぐに目を瞑った。
都から蓮を心配して父、母、兄、弟が来てくれた。見習い仲間の二人が様子を見に来てくれた。
蓮は思うのだった。
もう一人、会わないといけない人がいる。
意識が遠くなる中、呼びかけてくれたあの声の主と。
諦めるな!諦めるなよ、蓮!諦めないでくれ。私があなたを助けるから、絶対に!
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