New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第六章6

小説 STAY(STAY DOLD)

 蓮と牧は笠と蓑を着けて、並んで坂を下りて行った。
 去の館には本道と呼ぶ表の道とは別に裏道がある。名前の通り、邸の裏に辿り着く道で、村人は通常使わないが、このような非常事態であれば、住人達は裏道も使うはずだ。蓮と牧は裏道を登って来る村人を助ける役についた。
 その道すがら。
「私は束蕗原に来てまだ一年も経っていないので知らないのだけど、川の氾濫は前にもあったのかしら?」
 蓮が牧に訊ねた。
「……私の記憶にはないわ」
 無駄な話はしたくなさそうな牧だが、蓮の言葉を完全に無視することもできず、しばらく黙った後に返事をした。
「そう。雨が降って欲しいと思っていたけど、こんなことになるなんて。村の人たちはみな、無事でいて欲しいわね」
 蓮の言葉に牧は無言だった。
「足元も危ないわね」
 返事をしない牧を気にすることなく、蓮は言った。
 坂道の上を川のように雨水が流れている。土がぬかるんで、足を取られそうになる。
 ゆっくりゆっくりと歩いて、裏道を下りて行くと、館に仕える男が二人立っているのが見えた。
「来たのか?大丈夫かい」
 蓮と牧が近づくと男の一人が言った。
「はい。どうですか?村人たちは来ていますか?」
「いや、この道には現れていない。……平地は水浸しになっているようだ。少し先に行けば、もう道は水に浸かって深さは膝上くらいまである」
「そんなに?」
 男の膝上くらいなら、蓮や牧たちは太腿の半ばくらいまでは浸かる。二人は顔を見合わせた。
「私、どんな状況なのか、見てみたいわ。ちょっとその先まで行ってきます」
 蓮が言うと、牧が。
「一人は危ないわ。私も行く」
 と言ってくれた。
 蓮はその言葉が心強かった。
「止めておけ。この雨だ。水の量は増えている」
「水に呑まれるほど近くには寄りません」
 蓮は言った。
「ちょっと見るだけだよ。水は怖いものだ」
 蓮と牧は頷いて、男たちの前に出て、道を下りて行った。
「村の人は無事かしら……」
 蓮は両手を胸の前で握って、心配を口にした。
 今は夜明け頃と思われる時間だが、空を覆う雲は厚く、まだ夜のうちと思わせるほど暗い。男たちが手にしている松明から離れると、視界が悪くなった。
 二人で並んで一歩一歩坂道を下りて行った。
「……本当ね。目の前に川ができているわ」
 牧から言葉が出た。
 道を横切るように水の流れが起こっていた。この先にはまだ道が続いていたし、周りは林で樹もあったはずだが今は水しか見えない。足元は去の館がある丘から流れてくる雨水が目の前の川に流れて蓮たちの足元に迫って来る。
 男たちが止めておけと言ったことがよくわかった。
 二人はしばらく目の前の濁流を見つめた。
「牧さん、大丈夫?」
 二人並んでいたが、少し離れて立つ牧の方を向いて蓮は言った。
 牧はその言葉に反応して同じように蓮の方を向いた。
 この女……何もかも気にくわない。
 大丈夫?って何が?
 私が何か不安そうだった?心配されるような感じだったというの?
 さっきの二人組を作る時も、いい子ぶって私と組みになってあげると言わんばかりの態度だった。誰だっけ、私と組みになるのを渋るふうな態度を見せた女は。あの女を庇って、私を助けたつもりかもしれないけど、そんなこと誰も望んでいないわ。
「私は大丈夫よ」
 牧は答えて、再び目の前の濁流に視線を戻した。
 これまでも、何かあれば「牧さん、牧さん」と言って私を気にする素振りを見せる。諍いが起これば、公平なふうを装って私に注意する。
 それは、巧妙に皆を労わっているふうで、何もかも自分の地位を高めるための行いだ。
 本当に、恩着せがましいことだ。
 私はこんな偽善な人が大嫌い。
 それに、この前……去様に会いに来る都の医師と厩の前で何か話をしているふうだった。私に男のことを注意したりしておきながら、自分も都の男に色目を使っている。
 その時だった。
 二人の右側から大きな音が聞こえて、蓮と牧はすぐに右を向いた。
 山が動いていた。正確には樹々が地面と共に斜面を滑っていた。土の匂いとともに鼻をつまみたくなるほどの腐ったような臭いがして、土が大量の水と共に蓮たちがいる道にも流れ込んできた。
 反射的に蓮と牧は身を寄せ合った。
 体中に雨水がしみわたって身に着けている笠も蓑も意味をなさない程に、雨は降り続いている。その結果、山が水を保てなくなってしまったのだ。
 後ろでは男たちが叫ぶ声が聞こえるが何と言っているのかはわからない。山の異変を察知して、話をしているのだろう。
 牧は思った。
 善人ぶる女には、このような事態が望ましい。
 村人を助けるために、この川となった泥水の中に入って行き、その濁流に飲み込まれるという。
 そんなことが都合よく起こるかしら。
 そんなことは都合よく起こるはずない。
 ならば、その都合を作りだすまでよ。
 自分の命を顧みず村人を助けるために川に入って行ったという話は、偽善者のあなたにはたまらない語り草でしょう。
「……牧さん、帰りま」
 振り向けば顔がくっつくくらい近くにあるのに、雨音と山が崩れた音で聞き取りにくい中、蓮が声を張り上げて言った。
「あっ!」
 牧が突然、山崩れが起こった側とは反対側に顔を向けて声を上げた。
 蓮は驚いて、牧が顔を向けた方に自分も顔を向けた。何か異変を見つけたのかと思ったのだ。
 牧が見ている方向に目を凝らすと、水の中に数本の樹が立っているだけだった。樹の間を勢いよく水が流れていく様子が見えた。
 牧には何か見えたのか。聞こえたのか。
 蓮は牧に訊ねるため振り向こうとした時、体が浮いた。
 体が前のめりになる。体がこれは危険だと悟った。しかし、止めたいのに止められない。
 助けて!
 蓮は必死に体を反転させようとした。顔を後ろに向けた。
 そこにはじっとこちらを見る冷めた目をした牧がいた。
 牧さん……どうして?
 そんな疑念が浮かんだのは一瞬で、気がつけば冷たい水の中にいた。
 ここから這い出なくてはいけない。そうしなければ命が危ない。
 そう思うのに、手は水をかくだけで、掴むものはない。
 蓮はそれでも体を水から出そうと、足を動かした。しかし、身に着けている裳が邪魔をして足は思うように動かせない。
 何とか寸断された道の方に体の向きを変えると、すぐそばにあったはずの牧の顔は、もう遠く小さくなっている。
 蓮の体は濁流に流されて、牧と一緒に立っていた道から離れて、林の中に入って行った。
 樹にぶつかってはひとたまりもない。水流に抗うことは難しいが、せめて樹にまともにぶつからないようにしよう。
 そんなことを考えていたが、実際は体の自由は効かない。
 蓮が恐怖に埋め尽くされるのに、時間がかかることはなかった。
「きゃあぁぁぁ!」
 女の悲鳴が聞こえて、裏道半ばにいた男たちは道の下を振り向き、走り出しだ。
「どうしたんだ!」
 目の前に広がる濁流の流れを前に、両手を交差させて自身を抱き、震えている牧が一人で立っていた。
「もう一人は?」
「……向こうで人の声が聞こえたのです。それを聞いて、私たちは身を乗り出してしまって……足を滑らせた蓮さんがこの水の中に落ちてしまって、あっという間に流れに乗って向こうに……姿が見えなくなってしまったのです」
 牧の言葉に男たちは顔色を変えた。
「蓮さーん!」
 牧は黒い水が勢いよく流れる目の前の川に向かって叫んだ。
 一人の男が流れる濁流の中に入って行き、膝下まで浸かってあたりを見回したが背の高い樹の間を埋め尽くす黒い水しか見えなかった。
「その、蓮という見習いがこの流れに呑まれたというのだな」
「はいっ」
 牧は頷いて、顔を下に向けたままでいた。
 蓮はこの濁流の中に入って行った。必死に顔をこちらに向けて手を伸ばした姿が思い出される。
 蓮は……
自分がこの振り続く雨に足を滑らせたと思ったのかしらね。
 真実は誰もわからない。
 この私しか知りえないわ。
 本当は聞こえもしない村人の声をでっちあげ、それが聞こえたふりをし、そちらに気を取られた蓮の体を押した。重心が上にある体は踏ん張ることができずに浮いて、あっさりと泥水の中に落ちて行った。
 善人ぶるあの女への罰よ。
 牧は両手を交差して、自身の肩を抱き、震えた。

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