【小話】景之亮の結婚 3

小説 STAY(STAY DOLD)

 翌日、景之亮は夜明けとともに起き、宮廷に上がった。いつも通りに仕事をしたが、仕事が終わっても仕事場に居座っていた。
「鷹取殿、何か?」
 手に持った巻物をただただ見つめている景之亮に同僚は不思議に思って声を掛けた。
「いや!これを納めて帰るところです」
 景之亮は言って、巻物を巻き終えると棚に返し、館の扉を押して外に出た。
 都を囲む山は色づき始め、暖かな秋の風が吹き抜けていく。
 もうすぐ新嘗祭の準備で忙しくなる。それまで娘のところに行くのを引き延ばして、仕事が忙しくてなかなか時間が取れなかったと、言い訳をしようか……。しかし、それでは叔父はいい顔をしないだろうな。
 景之亮は今夜のことを考えるとただただ気が重いのだった。
 邸に帰って、部屋で寝転がっていても、誰も寄り付きはしなった。
 昨日、丸に話したから、誰も無駄に邪魔をしないように言っているのだろう。
 景之亮は、日が暮れると同時に邸を出て、夕闇の中、叔父と一緒に帰って来た時に通った、女人のいる邸への道を歩いて行く。
 仕事柄、一度通った路は記憶している景之亮は、路に迷うことはなく荒良木家の門の前に辿り着いた。
 閉ざされた門は景之亮を拒絶しているように思えたが、景之亮はその塀を伝って叔父とここまで来た道を遡って行った。塀から垣へと変わり、最初に叔父と一緒に立って庭を覗いたところまで行った。
 しんとした庭を見渡すと、ぼわっと明るい場所がある。景之亮はその光に向かって垣を伝って歩いて行くと、邸に出入りするための柵があって、その先に篝火が置かれている。景之亮は、柵に手を置くと、それは簡単に内側に開いた。
 それで、自分を招き入れるために置かれた灯りであると分かった。
 景之亮は一歩、垣の中へと入って行った。
 少し進むと、また灯りが見えた。こちらにおいで、と誘っているようである。
 景之亮は歩をそちらの灯りへと向けた。
 そうして邸の中に進んでいくと、階の前に置かれた篝火に辿り着いた。階の上を見ると、部屋の中にも灯りが灯っている。周りの建物は真っ暗で、早々に寝静まっているようである。
 ここか……。
 景之亮は覚悟を決めて、階の下に立つと声を上げた。
「もし、私は鷹取景之亮と申す者である」
 景之亮が呼びかけると、部屋の中の灯りが揺れて、御簾に人影が現れて消えた。
 自分の声は届いているのだ、とわかって景之亮は沓を脱ぎ、階を上がって行った。
 妻戸を押すと簡単に開いた。
 妻戸の前には几帳が立ててあり、すぐにはその奥を見ることはできなかった。
 しかしその中で身じろぎする気配があった。
「失礼する」
 景之亮は部屋の中に滑り込み、几帳の傍に寄った。低い几帳で景之亮は容易にその中を見ることができた。
 こちらに背を向けた女人が一人いる。長い髪は美しく、細い体が座っていた。
 景之亮は戸の前に立ったままこれからどうしたものか、と考えていたら、中の女人が半身をこちらに向けて言った。
「……どうぞ……こちらにお座りください」
 最初は小さな震えるような声だったが、声が出たことで落ち着いたのか、はっきりとした言葉が続いて景之亮は従った。
 女人の隣に設えてある席に景之亮は座った。目の前には膳が置かれ、いくつかの皿が載っている。
 景之亮は伏し目をそっと女の方に向けた。
自分のことをどんな風に聞いていたのかわからないが、こんな大きな体の、それも剛い毛に覆われた顔の男とは説明されていないだろう。
さぞかし驚いているのではないか、とその表情を窺おうと思ったが、女は下を向いて、自分の横に置いている徳利を手に取ったところだった。
「今日はよくおいでくださいました。ここまで来るのに、お疲れになったでしょう。どうぞ、杯をお取りください」
 女人の言葉に、景之亮は膳の上の杯を取った。手が伸びて、徳利を傾けてその平たい杯に酒が注がれた。
「いただく」
 景之亮は一言言って、口をつけた。
 酒は嫌いではない。甘い味が口の中に広がった。
「お口に合うかわかりませんが、心ばかりの料理を用意しております。どうぞお召し上がりください」
 徳利を置くと、景之亮の相手、蜜は膳の上の皿に被せていた蓋を取った。
 煮た魚、青菜、干し肉などが載っていた。
「……陽が高いうちは暖かいですが……まだ夜は冷えます。……温かい汁もありますので……」
「……いや、十分だ。このような用意をしていただいて、ありがたい」
 景之亮は箸を取って、魚の身をほぐし口の中に入れた。
「うまい」
 景之亮の言葉に、そこで初めて蜜は顔を上げた。
 それに気づいた景之亮も顔を上げて、そこで目が合った。
 これがお互いの顔を初めて見た時だった。
 色白の大きな目をした娘が、こちらを見ている。その目はより大きく見開かれていて、自分の姿を見て驚いているのだろうと景之亮は思った。
「や、これは驚かせてしまったか」
 景之亮の言葉に、蜜はすぐに顔を伏せた。
「いいえ、そんなことはありません」
 蜜は下を向いたまま黙っている。
 景之亮は、再び魚の身を口に入れて、酒を飲んだ。
 深さのない杯は、二口も口をつけたらなくなってしまう。気配を感じて、蜜は目の前の徳利を持ち上げる。その様子を見て、景之亮も杯を控えめに差し出した。ゆっくりと酒は注がれた。
 この準備を、昨日もしていたのだろうか。そうであれば、昨日は無駄にさせてしまった、と思った。
「……お口に合っていらっしゃるようで、嬉しいです」
 注いでもらった杯をそのまま口に運んで飲み、杯から口を離したところで蜜が言った。
「……ああ、酒も料理もおいしい」
 蜜は頷いて、徳利を持ったまま下を向いた。
「……あなたは驚いたのではないか……。私のような者が来るとは思ってもみなかっただろう」
 景之亮は訊ねた。
 自分も宇筑叔父に説明を受けたが、家柄のことや、なぜ結婚に縁がなかったのかなどの事情だけでどのような容姿であるかなどは全く知らされていなかった。
 家柄に問題がないと言っても、このような体の大きな男が来るとは思っていなかっただろう。まして、体が弱く、邸から出る機会もなかった娘なら、父親や兄弟、身近な従者以外に男を見ることはないだろうし、怖いとさえ思うのではないかと思った。
「……立派な方だから……驚いたのです」
「立派など……年を取っているだけだ。私はあなたよりも大そう年上だ」
「……そんなこと……き…に…ま…せ…」
 蜜の声は途中から小さくなって、聞き取れなくなった。 
 それから、景之亮は酒を飲み、蜜が杯に酒を注ぐ間に、一言二言の言葉を交わすのだった。
 夜も更け、皿の上のものを全部平らげた景之亮は、杯を飲み干すと膳の上に杯を置いた。
「やや、料理も酒もうまくて長居をしてしまった。今夜は失礼しよう」
「あ……」
 蜜は声にならないため息を漏らした。
 しかし、景之亮は女のそのような様子に気づくことなく、腰を浮かした。
「あの……」
 今度は小さくても景之亮の耳に届く声を出した。
「私……」
 蜜は言ったがその後の言葉が続かない。
「……大変もてなしていただいた。私は楽しい時を過ごせた。……あなたには私の話は大して面白くなかっただろう」
 蜜は景之亮の言葉に、顔を大きく横に何度も振った。
 その子供っぽい仕草に景之亮は可愛らしさと面白さを感じで、口元を綻ばせた。
 髭の濃い目つきの鋭い男が、急に目尻を落として、口の端を上げたので、蜜はきょとんとした顔で景之亮を見た。
 景之亮は立ち上がったので、蜜も立ち上がった。
 入って来た時と同じように妻戸から出て行く。蜜も後ろをついて行き、階の上で向かい合った。
「あなたが言うように夜はまだ冷える。早く部屋に戻った方がいい」
 何か言いたそうな蜜を、あえて気にしないようにして、景之亮は部屋に戻るように言った。蜜は言葉に従わないが、何か言うわけでもない。
 階の下で沓を履いた景之亮が、こちらを振り返って、自分を見てから去っていく姿をただ見ている。

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