礼はゆっくりと目を開けた。薄く開けた目の中に光を感じて、今が夜ではないことがわかった。ここ数日は、去や縫たちが近くで会話している声が聞こえて、自分は母や瀬矢兄様のところには行けなかったのだとわかった。
もし、私が死んでしまったら、実言は悲しむのだろうか?私に負っている呵責から解放されて、彼の辿る正しい道を歩んで欲しいのに。
それはそうとして……
礼は、ゆっくりと目を開けた。今日は気分が良い。数日前まで意識のふわふわした中で、薬や水を飲んでいた時は、吐き気に襲われていたし、痛みに体が引き裂かれそうだったのに、今日はそんなことはない。命は助かってしまったのだ。
はっきりとした意識の中にいた。
蔀から透けて差し込む光から今は夜が開け始めたところと分かった。
少し頭を動かしたら、右肩に痛みが走って体を左によじった。
「目が覚めたのかい?」
背中に声を受けて、礼はゆっくりと態勢をもとに戻そうとした。腕が伸びて、礼の体を包むように腕の中に抱え込んで、ゆっくりと仰向けに寝かせた。右肩が着くと少し痛みが走った。
「ずっと眠ったままで、もう目を開けないのかと思ったよ。気分はどうだい?」
実言が微笑んでいる。懐かしいような、知らない男のような顔だ。
九鬼谷の戦が終わって、都に帰り、それから……実言は束蕗原に来て、視線を合わせたけど、……そのあと礼は……そうだ、矢に射られたのだ。
「よかった。去様からもう大丈夫だと言われても、私がいる時はお前は眠っているから心配で」
「ご、めん……な、さい」
声がかすれた。
ああ、これでまた実言は私に負い目を抱いて私から逃げられなくなるだろう。そうなるだろうから、いっそのこと天に召されて、母や瀬矢兄様のところにいった方が良かったのだ。
「礼。お前が謝ることはない。お前は私を助けるためにまた、その身を投げ出してくれたのだから。私が謝ることだよ。……お前を傷つけてばかりだ」
実言の言葉に、礼の右目からは自然と涙が流れた。目尻からこめかみへと流れ落ちる。左目が気になって、布団から左手を出して左目を覆った。眼帯はない。ずっと生き死の境をさまよっていたのだから、眼帯などは剥ぎ取られているのは当たり前だが。
「どうした?左目も痛むのか?」
「が、がん……た…い」
声を出そうとしたが、やはり、かすれた声が切れ切れに出てきた。
「喉が渇いているのだろう。水を飲もう。体を起こせるか?」
実言は礼の背中に手をまわして、その体を抱きかかえて上半身を起こした。右肩の傷に当たらないように、左側から回り込むようにして礼を支えて、碗を礼の口に近づけた。礼も両方の手を碗に添えてゆっくりと口の中に含んだ。喉の潤いを取り戻して、喉のはりついた感じは消えた。
数回に分けて水を飲んで、実言は碗を下に置いた。
「眼帯なんてなくていい。ここには私とお前しかいない」
礼の左目のすぐ隣に実言の顔があり、実言は礼を後ろから抱え込んで礼の顔を自分に寄せるために、礼の左耳の下から顎にかけて手を添えられた。
礼は実言に引き寄せられたら、より近くなった実言の顔は、ゆっくりと潰れた左目の上に近づき、傷口に口づけた。
礼は少し身を後ろに引いて口づけられるのを避けようとしたが、後ろから実言に抱き抱えられているのだから、逃げられるわけもなく、実言は礼の動きが収まるのを待って再び左目に強く唇を押し当てた。実言の唇は位置を変えながら何度も礼の左目の傷に触れた。
二年の間は空いているが、こんなことは何度もされていることだ。しかし、礼は慣れることはない。自分のした過ちを責められているようにしか思えない。
五年前に礼が実言をかばったために、礼は左目に矢を受け、左目を失い、深い傷になっている。それに責任や呵責を抱いた実言は、結婚という形で礼に報いようとしているのだ。実言は朔と結婚し、違う人生を歩いていたはずなのに。実言と朔の人生を狂わせてしまったのだ。礼の心は、実言の人生を狂わした自分の行為が後ろめたい。そして、今度も実言をかばって肩に矢を受けてしまった。それはまた、実言に負い目を抱かせて、実言は礼を労わらざるをえないだろう。実言は礼の傷を自分の責任と責めているのだから。
礼の傷から唇を離した実言は、礼に言った。
「礼。これで、私がお前に助けられたのは二度目だ。また、お前の体を傷つけてしまった」
実言は後ろから礼を抱きしめる。
「……に、二度目、じゃ……ない」
礼は切れ切れに言葉を発して、言った。
「いいや、二度目だよ」
「これが初めてよ。……左目の時は、朔をかばったの。……実言は偶然」
「礼。もう、自分の心を偽るのはやめておくれ。自分を偽っているからお前はいつも苦しそうだ。そして、私もお前も幸せにはなれない」
「偽ってはいない。苦しそうに見えるのは、実言と朔の人生を狂わせてしまったからだ。実言が私に負い目や責任を感じて私を許嫁にするから。朔から実言を奪ってしまった。実言と朔を引き裂いてしまった。私はそんなことをしたかったわけではない。あの時、私は朔を助けたかっただけで、実言を庇おうとしたわけではない。偶然、実言をかばったようになってしまった」
「それが偽りだ。お前は確かに、朔を助けようとして、朔を突き飛ばした。もし、朔だけ助けたければ、朔とともに倒れこんでいればよかったのだ」
「違う!なぜ。実言も、私が朔を助けるためにこの目になったことを認めてくれたじゃないか。なぜ、違うことをいうの」
「それは、そう言わないと、お前が納得しないからだよ。そうだと認めないとお前は何も受け入れてくれないかった。お前は五年前のあの時、朔とそして、私も助けた。こちらに向かってくる矢が私に向かっているとわかったお前は、反射的に私の前に立ちはだかって、矢を受けた。私は、誰よりも近くでお前を見ていたんだよ。わからないと思っているのかい。もう一つ、お前はわかっていないよ。私は朔を選んでいないよ。確かに、朔は当時の私の許婚だったけど、それは親同士が決めたことだ。親が決めるものと思っていたから。愛情は後からわいてくるものだと思って、受け入れた。私がお前を許婚にしたいと思ったのは、確かに、お前が私を庇って左目を失ったこともある。でも、私は昔から礼を知っているんだ。子供の時から。お前は特別な娘なのさ。その娘が私のために命を落しそうになった。それは特別な気持ちになった。思わずにはいられなかったよ。だから、私は、父に礼をもらいたいと言った。表向きは私の命を守るために左目を失わせた娘をこのままにしておけないと言った。お前は命が危ない状態だったからね。もし、命が助かったら、私の言うことを聞いてくれると言った。お前はなんとか命を取りとめてくれた。私は強引にお前を許婚にしてしまったから、世間は、片目を失わせて傷物にした娘の責任を取るために、お前に乗り換えるというふうに、周りの者の口からまことしやかに話されたから、それがまたお前の心を傷つけてしまったのかもしれない。私は、お前を手に入れるためにその噂を否定しなかった。それは、朔をこれ以上傷つけないためでもあった。朔には何も落ち度はない。私の心変わりだとね。朔の面目を保つために、私はお前に世間からの心ない噂に辛い思いをさせた。しかし、お前と私で向かい合って話せば、私の気持ちをわかってくれると思っていたよ。お前の左目に負い目を感じているから、お前を許嫁にしたんじゃない。私はお前が欲しくて、お前の左目を利用してお前を手に入れようとしたんだ。それが私の偽りのない気持ちだよ。しかし、お前は頑なだったよ。」
「嘘だ!」
「嘘じゃない」
「朔は、幼いころから実言を好きだった。実言の妻になりたいと言っていた。十五になると望み通り、朔は実言の許婚になった。朔は本当に喜んでいた。私は、ずっと朔のそばにいたから、朔がどれだけ実言のことを思っていたかを知っている。それを私が奪ってしまった」
「お前が何と言おうと、お前は私の命の恩人だ。私が思っているのはお前だよ。それに、今お前が言ったことは朔の気持ちだろう。私とお前の間に朔の気持ちは関係ないよ」
「ある!朔が実言の許婚となってお披露目のときに、二人が並んで立っていた姿は本当に綺麗でお似合いだと思った。なのに、私はその幸せな二人の姿を壊してしまった」
「私の気持ちはさっき言った通りだ。親の決めたことに従っただけだよ。確かに朔は、私を思っていてくれた。だけど朔の思いだけで私たちは行動しなくてはいけないのかい」
「朔の実言への気持ちはとても強くて、幼いころから実言は朔のものだと思っていた。二人はお似合いだから、二人がとても羨ましかった。私もいつかは誰かの許嫁になって、二人のようにお披露目されるんだと思った。あの時、朔の大事な人だから、助けなくてはいけないと思った」
「礼。確かに私のわがままで、お前と朔の中を裂いてしまった。お前の親友であり、良き姉であった朔と仲違いさせてしまったのは、この私だ。だから、私はその償いはするつもりだよ、礼。私はお前を全霊で思う。私を好きになれないというのならそれでもいい。でも、どうか、嫌いにならないで」
実言はそう言って、礼の左肩に顔を埋めた。
礼は心を締めつけられる。好きになれないわけではない。好きになってはいけないのだ。実言は朔のものなのだから。だからと言って、嫌いになれるはずもない、だって……。
「礼」
礼は、耐えられなくなり、実言の腕から逃れたくて、両手で顔を覆い、体を前に倒した。実言は一緒に礼の背中が倒れるのに寄り添った。
「礼。もう偽りのないお前の真実の気持ちを言っておくれ。私は四年も待った。お前の本当の気持ちを言ってくれることを。それが叶わないまま、一月前にお前を失いそうになった。お前とこのまま通じることもなく、愛しいお前を失いたくない」
礼の左肩に顔をうずめて実言は囁く。礼は耐えられない。実言の許婚になったときから、自分を責めなくては生きていけないと思った。だから、自分の気持ちに素直になれなんて、礼に生きるなと言っているようなものだ。
本当はどうしたいのか、その思いを言ったときから、朔への操は崩壊してしまう。朔のことは関係ないという実言に従い、礼が実言と向かいあったら、そうなったら。
この気持ちを言ってしまったら、自分は死んでしまいそうだ。
礼は、顔を覆って肩を揺らした。
「う、う、あーー、うっ、はっー」
実言から請われる答えを口にしようとすると、息苦しくなって、心の臓は止まってしまいそうで、言葉になどできない。
「ーー、み、実言…………私は……」
「なんだい?」
「私は……あなたを嫌いになどなれない……」
実言の声で表わされる礼への思いや態度は、礼の心をくすぐり、ときめかせた。気のないふりをすることの方が苦しくて、苦しくて……。
「私はあなたを傷つけてはいけないと思った。朔の大切な人だから。でも……でも、私は朔からあなたを奪おうと思ったわけではなくて」
「私は朔と別れたことを後悔したことはないよ。お前を選べたことが嬉しくて。私は私の全てでそれをお前にわかってもらおうとしたけど」
「でも、朔のことを思うと……」
「礼、お前はもう私のものなんだよ。だから、私の前で偽ることはないのだ。私はお前を守るから」
顔を覆った礼の手を、実言はゆっくりと下に下ろした。右目からこぼれ落ちる涙を実言は右手でゆっくりと拭った。
「お前は朔のことばかり言うけれど、私の気持ちをどう思っているの。私はとても、切ない思いだ。お前は私の気持ちなんて少しも顧みてくれないから。私は何度挫けそうになったことか」
礼は無言のままだ。
「でも、この傷は私だけを守るためにできてしまったものだから。それはお前の私への気持ちと思いたいよ」
実言は礼の左肩に埋めていた顔をゆっくりとあげて、礼の首の後ろへ額を押し付けて、右に顔を向けた。
「……実言。……私は、自分にできることをしたの。あなたに向かう矢が見えて、あなたに当たる光景が見えた。そんなこと……あなたを失うのが怖くて」
「お前のおかげで私はこうしているよ」
礼は、実言へのその思いを告げてしまうことを躊躇する。でも、答えはきっと、もっと前から決まっていたのだ。
「礼。お前はどう思っているの」
実言は問いかけた。
礼は、最後にはこの男の思いを受けたいと思うのだった。朔への操と、この男の差し出す手を取ること、この二つのどちらかを選べと言われたら、礼はもう迷わない。この手を離したくないのだ。
「実言。あなたを思っている。私の心はあなたのものだと、いいたいの」
「ああ、礼。やっと言ってくれた。私の心もお前のものだよ。礼、同じ思いだ」
実言は、礼の体に回していた左腕を礼の膝の下に通すと、自分の方へと引き寄せて、右腕で背中を支えて横抱きにして、礼と向かいあい、顔をまっすぐ見つめる。
見つめ合ったら、礼は左の顔を実言の胸に押し付けて隠した。
「なぜ?やっと私たちはお互いの真実を言えたのに。もう隠すものなどない。顔を上げて」
礼が伏せた顔を上げたら、実言は礼の左目の傷に唇を当てた。優しく触れて吸われると癒される。やがて、実言の唇は礼のそれを求め、重ねた。合わさっただけだったものが、息を継いだ後にはもっと深く絡み合った。
言葉は無くても、お互いが心も体も求めあっていることがわかった。唇は離れ難くて、何度も口づけて、吸い合って、それはまた長い口づけとなった。
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