それから芹は房にたしなめられたためか、奥の部屋に籠らず、日中は庇の間まで出てきて縫い物に勤しんでいる。
一生懸命に手を動かしているが、手が止まるとしばらくぼうっと外を眺めている。岩城実津瀬と出会う前も左手の残った親指と膝を使って縫い物をしていた。でも、岩城実津瀬と出会った前と後では、芹の心の中は変わってしまったのではないか。
木から離れた葉が池の水面に辿り着いて、波紋を起こすように実津瀬は芹の心に波紋を起こした。木の葉が起こしたその波紋はいつか静まるのだろうけども、実津瀬という波紋を芹は静められるだろうか……。男性に思われる自分を想像もしていなかっただろうけど、こうして思われてみれば、それは得難い愉悦ではないか。
芹は、綾戸の死と実津瀬の喪失という二つの苦しみを抱えて生きていくのだろうか。
姉さまはどうして苦しみばかり背負込もうとするのかしら。誰もそんなこと望んでいないのに。
夕暮れ時、房は裏庭にある従者の部屋の前にたむろする男たちから少し距離を取り一人景色を眺めて休んでいる男に声を掛けた。
「もし、そこのあなた」
房は庭から声を掛けて手招きした。
男は「私?」と自分を人差し指で指して、首を傾げた。
「ええ、そうよ。あなた」
男は、ひょこひょこと飛ぶような動きでゆっくりと走って房の元に行く。
頼りないその動きは年老いたのろまな従者のように見えるが、本当の姿は見た目よりも若く、もっと俊敏に動ける岩城家の間者なのだ。
この男が、実津瀬と芹を再び会わせるために、鷹野と房の間の手紙を運んでくれた男なのだ。ちょうど須原の邸で下働きの男を探していたところ、この男が正体を隠して潜り込み、手を貸してくれたのだ。実津瀬と芹の仲は終わってしまったのだから、邸を立ち去ったと思ったがまだいたのだ。
身を小さくして房の前に立った男に、房は言った。
「まだ、居てくれたの?」
「一両日中には去ろうと思っております」
「まあ。よかった。もう少しいてください」
「……」
「お願いしたいことがあるの。前のように鷹野様にお手紙を届けていただきたいの」
男は頷いた。
「では、今から書くから、今夜届けてくれない?」
男は再び頷いた。それを見て、房は自分の部屋へと走った。
「実津瀬~」
奥の部屋で机に向かっていた実津瀬は顔を上げた。声だけで誰だかわかる。
「おーい」
と返事すると、勝手に上がってきた鷹野が几帳の後ろから顔を出した。
「さすが実津瀬。お勉強に精が出るね」
茶化した言い方をしたが、真面目な顔をして鷹野は机の近くに置いてある円座を引っ張って来て実津瀬の隣に座った。
今日は塾もなく、鷹野と会うことはなかった。実津瀬は宮廷の見習い仕事が終わるとまっすぐ帰ってきて巻物を開いたのだったのだったが、鷹野が座ると巻物を畳んで箱の中に収めた。
「何?」
鷹野は胸から小さくたたんだ紙を出した。
「ん?」
「房殿から手紙が来た」
「房……」
実津瀬はすぐには誰だか思い出せず、頭の中でその名を巡らせた。
「……え、房殿が……何を」
「簡単に言うと、姉を助けてほしい。もう一度実津瀬と会う機会を作ってもらえないか。それまでに、姉の気持ちを変えて見せる、と書いてあった」
実津瀬は鷹野の方に体を向けた。
「妹としては、姉を心配してのことだろうが……実津瀬、どう?」
実津瀬はすぐには口を開かない。腕組をして考えている。
「難しいよね……今から姉さまの気が変わるくらいならもうとっくに気が変わっているよ。実津瀬はどう思う?」
「……私としては言葉を尽くした。それでも通じることはできなかったのだから、もう一度会ったとしても同じことだと思う」
「そうだね、私もそう思うよ。……房殿には申し訳ないが、もう会うことはしないと返事をしよう」
鷹野は言って、この話は終わった。
「ところで、実津瀬、稲生から聞いた?」
「何を?」
「近々、塾生の有志で狩りに出かけようという話」
「ああ、聞いたよ。冬を前に大きな獲物を狙おうと盛り上がった。ちょうど踏集いに集まったあたりだ。鷹取殿から聞いたのだが、あのあたりに野盗が出没しているらしい。だから、大勢で攻めていって、合わせて野盗を退治してやろうなんて話になったのさ」
「父上も我々の狩りの技術が上がると乗り気らしい」
鷹野が言った。
「そうか、そうであれば人が集まりそうだ」
部屋の前の階の下で手紙を受け取った房は、階を駆け上がって奥の部屋まで入った。
須原家に入り込んだ岩城の間者が鷹野からの返事を届けてくれたのだ。
何と書いてあるだろう。姉を助けるためにもう一度会ってくれると書いてあるだろうか。
房は期待と不安に襲われたが、一息ついてゆっくりと開いて、読み進める。
最初は房のことを気に掛ける言葉が並んでいた。その後に鷹野自身のことが書かれていた。
今度踏集いで集まった土地の近くで貴族の子息が集まって狩りをすること。その準備で忙しい。お互い踏集いに行っていたのに、なぜか顔を会わせることがなかった。どうしてだろう……と。
最後に房の願いをかなえることはできない。もう一度会っても結果は同じことだろう、
と簡潔に書かれていた。
最後まで読んで、房は両手の中に顔を伏せた。
ああ、やはり、叶えてくださるわけはないわね。
姉の態度を考えれば、それが当たり前というものだ。
昨日、房は父親から呼び出されて、その前に座ると驚くべきことと告げられた。
房の縁談である。父親は芹の結婚は諦めて、房に矛先が向いたのだ。どうも、踏集いにいた青年が房を見初めて、声が掛かったのだ。相手の男は粟田と言う一族の出身である。粟田という一族は須原家と同等の家柄であり、悪い話ではないため父親は乗り気だ。
名前を聞いても誰だか思い出せない房に、父は会うことを命じた。抗う気はなく、逆にここはいつもより父の命に従順にならないといけないと房は考えた。これ以上父の機嫌を悪くしてはいけないのだ。
承諾の返事をしたあと、姉の部屋に行き、父に言われたことを話した。隠してもいつか姉にはわかることだから、隠さない方がいいと考えたのだ。
「まあ、よいお話じゃないの」
「粟田というお名前は聞いたことがあるのだけど、顔が思い浮かばないの。姉さま、どんな人だかわかる?」
「私もわからないわ。でも、房を見初めるなんて目の高い人ね。お父さまの言う通り会って見たらいいわ」
「……ええ、そうします」
「房は私のようになってはいけないわ。よい人と結婚して、子を産むのよ。あなたの子供はかわいいはずよ。いつか抱いてみたい」
と言って笑った。
「姉さま……」
房は姉の手を握って、喉元まで出そうになった言葉をぐっと我慢した。
姉さまだって、結婚はできる。それを真正面から言ってくれた人も現れた。それを受ければ、姉さまだって子を産んで育てられるわ。私も姉さまの子を抱いてみたい。
それを芹にわからせたかった。だから、鷹野からの返事に期待をしていたのだが、その望みは叶わなかった。
房は両手から顔を上げた。
鷹野様に返事を書かなくては……。無理なお願いをしたことのお詫びと、こうして返事をいただいたお礼をしなくてはいけない。
房は机に向かって筆を取った。
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