厩に行くと、鞍を載せた二頭の馬の準備がしてあった。
景之亮は蓮が馬に乗るのを手助けし、馬上で蓮の体が落ち着くと、自分はひらりと軽い身のこなしで馬上へと上がった。
さすがに警備の仕事で馬に乗り慣れているだけある。美しい乗り姿に蓮は見惚れていた。
「では行こうか」
景之亮が先導する形で二人は裏の垣についている扉を開けてもらい、人通りの少ない小路へと出た。
今日、このように馬で遠出をしようという話になったのは、いつものように景之亮が実言邸を訪れた三日前だ。蓮が厩で馬の世話をしているところに景之亮が現れた。
「蓮!」
下働きの年老いた男と手伝いの子供とともに、蓮は馬に餌をやっていた。
呼ばれて蓮は笑顔で振り向いた。
「蓮は厩にいると聞いて来たんだ」
「あら、私ったら馬の世話に夢中になっていたのね」
蓮が持っていた桶を下働きの老人は両手を差し出して受け取った。そして、蓮は景之亮とところまで行き、男たちが馬の世話をしている姿を眺めた。
「ここのお邸は、何でも揃っている。馬もたくさん」
「お父さまはことらさ、馬を大切にしているの。遠くへ行くときの手段として必要だから。お母さまにとって大切な場所、束蕗原には大叔母、私にとって祖母のような人が住んでいるの。そこに行く必要があるために、馬は確保しているの」
「あなたは馬には」
蓮は頷いた。景之亮は、驚きの表情をした。
「乗れるの?」
「はい。……お母さまが乗るの。子供の頃から馬に乗るのが好きだったんですって。左目を失っても馬に乗る練習をして、乗っていたわ。私もその姿を見て、馬に乗りたいと言って子供の頃から練習してきたのよ」
「そう?それは意外だ」
「乗って見せましょうか?」
「そうだなぁ……そうであれば、一緒に馬に乗って遠出をしようか。都の外まで、どうかな?」
景之亮の提案に蓮は顔を輝かせた。
「行きたいわ!」
「では、近々行こうか。天気の良い日に」
景之亮も笑顔で言った。
今朝、蓮は陽が上った秋の青空を見上げて、心が躍った。予想通りに、景之亮は宮廷から下がると、すぐに蓮のところに来て、遠出をしようと言ってくれたのだ。
乗れると言ったのだから、恥ずかしいところは見せられないと、蓮は乗れると言った翌日から馬に乗る練習をした。久しぶりに乗ったがすぐに勘を取り戻していった。
そして、今である。
「うん、いいね」
と景之亮は言った。
「安心だ」
二人は人の少ない道を選んで進み、都の東側へ門から都の外へと出た。
都の中のように整備されていない荒れた道、すれ違う人々は薄汚れた衣装で暗い顔だ。淡色の世界に、樹々は鮮やかな赤や黄色に色づき始めていた。
「よい日だ。暑くもなく、風は爽やかで」
景之亮は蓮と馬を並べた。蓮は訊ねた。
「どこへ行くの?景之亮様」
蓮が都の外に出ることなど束蕗原に行く時くらいで、この場所がどこなのかさっぱりわからない。
「景色の良い場所がある。そこに行こうと思っているよ」
「景之亮様はお仕事で都の外にも行かれるから、美しい場所を知ってらっしゃるのね。楽しみ」
景之亮は蓮に馬の乗り方の少し教えて、蓮はそれを素直に直した。
「うまいよ、蓮」
軽快に馬をさばき、二人は北へと進んだ。小さな川の傍に来ると、景之亮は止まって後ろの蓮を見た。
「ここを渡るよ」
川の中に馬を入れて、ゆっくりと渡って行く。川幅も狭く、浅い。蓮も景之亮と同じように道を通ろうとゆっくり後に続いた。
「よし、ここから少し川を遡ろう」
馬を速足にして、川に沿って走ると一旦川から離れて、林の中に入った。しばらく行くと目の前に大きな岩山が現れた。岩山の上から水が岩の肌を滑って落ちてくる。岩の滝だ。落ちた水は川となって流れていた。
この流れが先ほどの小川になるのね。
蓮は目の前の大きな景色に圧倒されながら、そのようなことを思った。
景之亮が馬から下りて、蓮の傍に行き手を差し出した。蓮はその手を握って、馬から下りる。岩肌から落ちる水の前に二頭の手綱を引いて行き、水を飲ませた。
「景之亮様も喉が渇いたでしょう」
蓮は自分の腰に下げていた水筒を取って景之亮に渡した。
「あなたも同じだろう」
景之亮も自分の腰の水筒を取って、蓮に渡した。
お互い、自分の水筒を使えばいいものを、交換して飲むことになって、一口水を飲んだ後、二人は顔を見合わせて笑った。
水筒に水を補充して、馬を引いて森の中に入る。
途中で、手綱を大きな木の枝に巻き付けて、馬を置いた。
景之亮は隣を歩く蓮の体を背中から腰に手をやって引き寄せた。あまりにも力強いので、蓮は景之亮の胴に手を置いてつかまった。
「ここを抜けたら、小さな泉があるんだ。周りは草に覆われていて、寝転ぶにはいい場所だ。先ほどの岩の滝に目を奪われて、この奥まで入って来るものはなかなかいないんだよ。だから知る人ぞ知る秘密の泉だ」
景之亮は言うと、前へ前へと歩いた。
蓮は先ほどの大きな岩の滝に驚いたけど、今度は泉の景色も見られるのだ。
最近は邸の庭の季節の移り変わりしか見られていなかったので、こんな自然に触れることもなかった。景之亮が見せてくれる初めての景色はどれも感動と驚きが沸き起こる。
鬱蒼とした背の高い樹々の間を抜けると目の前が開けて、小さな泉が見えた。周りは大きな樹と青い草が生い茂っていて、人が近寄っていないことが分かった。景之亮は蓮の腰から手を放すと蓮は泉の近くまで走り、体をゆっくりと一回転させた。
「ぽっかりと開いた穴みたい」
泉の上の青空を見上げて蓮は言った。
「周りの樹々は色づき始めているわ。色とりどりできれい」
ゆっくりと近づいてくる景之亮に蓮は笑顔を向けた。
屈託のない優しい笑顔。子供っぽい言い回しは蓮が景之亮に甘えているからだ。
二人きりの時に自分にだけ見せる姿を、景之亮はかわいいと思うのだった。
「景之亮様はどうして、いつ場所を知ったの?」
「王族の狩りに随行した時にね、皆はあの岩の滝にばかり気を取られていてね。少し中に入ったら、小さな泉があったのだ。泉の周りのこの青々として柔らかい草が気持ちよかった。あなたと遠出をしようという話になった時、この場所を思い出したのだよ。日陰の草の上に寝転んで、景色を見て風を感じ、鳥の鳴き声を聴くのもいいと思ってね」
景之亮は蓮の手を取って泉に向かって横に伸ばしている枝の下へと進んだ。枝の位置が低くなっていくので、最後は二人とも両手と両膝をついて進んだ。そこを抜けるとまた枝の位置は高くなり、そこに座ることにした。座る前に景之亮は上着を脱いで、草の上に敷いて、蓮に座るように言った。
「それでは、景之亮様の上着が汚れてしまうわ」
「私はあなたの服が汚れる方が嫌なんだよ」
景之亮にそう言われて、蓮は申し訳なく思いながら景之亮の上着の上に座った。確かに草の上はふかふかの褥の上のような感じがした。
二人は並んで座り、小さな泉を眺めた。
静かな森の中は時折鳥の囀りが響き、空から落ちてきた葉が水面に波紋を作った。
蓮はゆっくりと景之亮の肩に寄りかかった。
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