New Romantics 第一部あなた 第三章15

小説 あなた

「芹様!」
 慌てて芹の一歩前を歩いていた従者は手を出した。突き出た石に足を取られて前のめりになった芹の体をすんでのところで受け止めた。
「ああ、ぼおっとしていたわ」
「歩きなれないので、仕方ありません」
 そう言って、従者は芹がしっかりと立つまで体を支えた。
「もう、大丈夫」
 芹が言うと、従者は体を前に向け、首だけ後ろに向けて芹がついて来ているかを確認した。芹はゆっくり歩き出したのを見て顔を前に向けた。
 考え事をしていてはだめね。
 芹は躓くまでの自分を思い出していた。
 考えまいとしても、頭の中に浮かんでくるのは実津瀬のことだった。
 左手を見られた。あんなにまじまじと見た人は、自分以外にいなかった……。妹にも見せてはいない。
 それは……あの人が胸の傷を見せたから……。あの人の命を守った手は私と同じように指が落ちたと言っていた。私も、綾戸の命を守れたらよかったのに。私たちは生かされたのかしら……。あの人は生かされたのよ……亡くなった思い人は、それを望んでいたはずだわ。どちらかの命を取られるのなら、私の命を差し出すと。私はそれができなかった。
 私たちは同じ者ではないわ。
 陽が西に傾いて、塀の影が小路の半分以上を覆う中、芹は足元に気を付けて歩いた。

「姉さま、なんだか髪に艶が増した気がするわ」
 妹と部屋で髪のときあいをしていた。芹が右手に櫛を持って妹の髪を上から腰まである髪を何度も梳いて、それから妹と替わったのだ。
「きっと、あの方のせいではないかしら?」
 房が言うあの方とは実津瀬のことである。
 実津瀬と佐田家の別邸で会って四日が経った。
 今日までなんの連絡もない。しかし、きっと岩城家から明日くらいには何か言って来るに違いない。
「……房、やめて……」
 芹は妹の言葉に振り向いて嫌な顔をした。
「あら、照れることないじゃない。あの方、素敵じゃないの。背が高くて、立ち姿は美しいし、容姿だっていい。声も明るくていい。そんな方といつの間にか知り合っていたなんて、姉さまも隅に置けないわね」
 姉は恥ずかしくてそんな態度になったと、房は感じてさらに実津瀬を褒めた。
 芹は前を向くと、妹の言葉など聞かないとつんっと上を向いて、髪を梳かれた。
「房、変なことを言わないで」
「なぜよ?踏集いでは池のほとりでお話されていたし、佐田様のお邸でお会いされた時も、楽しかったのでしょう?」
「楽しくなんて」
「この前姉さまが帰って来た時、困った顔はしていたけど嫌な感じではなかったもの。たくさんお話して、楽しかったから戸惑われたのでは」
「そんなことないわ……」
 芹は房の言葉を遮ろうとしたが、どんな反論を言おうかと迷った。楽しい話はしていない。けれど……実津瀬が話した胸の傷のこと。芹の左手の傷を見て慰めてくれたこと。どれも、自分の中に留めておきたい。こうだああだと房に話すべきことではない……秘密だ。
 芹の困った顔を恥ずかしがっているのだと思った房はにこにこと微笑んで姉を見ている。
 そこに、ドタドタと簀子縁を踏み鳴らして父親が走ってきた。
「芹!芹!いるか!」
 返事をする前に庇の間に飛び込んできて、続きを言う。
「いましがた岩城様のお使いが帰られた!二日後に会いたいと仰せだ。やったぞ!やった。次こそはより良い返事を引き出すのだ!お前を妻に、正式に申し込みされるようにな」
 上機嫌な父は大きな声で言い放った。
 奥の部屋で髪を梳いていた姉妹は動きを止めて、父親を見上げた。
「芹!こんな縁談はまたとない!どんなことがあっても、お前は岩城様の心を掴むのだぞ」
 そう続けた。その言葉が終わるとすぐに芹は父の方に座り直して、頭を床に付けた。
「お父さま、どうかそのお話はお断りしてください!私のような者は岩城様には不相応です」
「それは我々が決めることではない!岩城様が良いと言えば、もうお前はそれでいいのだ」
「いいえ、私には左手の傷があります。これを持っていけません」
「左手のことは、岩城様もご存じのことだ。私はお伝えした。お前だって当然言っているのだろう。それでも、特にそのことを何かおっしゃることはない。だから、左手のことも岩城様は納得されているのだ」
「私は!私は、この手で岩城様にお仕えすることなんてとてもできるとは思えません」
「思える思えないではない。やるのだ」
「嫌です。どうか、お断りして!私はもうお会いしません。どんなことがあっても。私には不相応なお話ですから」
 芹は父に負けない声で言い放った。
「芹!お前は、また強情な!」
 父はこれまでも、年頃の娘に結婚相手をと、妹と一緒に踏集いに行かせようとしたが、嫌だと言っていうことを聞かなかった。この娘の強情さに手を焼いてきたが、今もそれが出ている。
「お前の気持ちなどどうでもいいのだ!これは我が一族のためだ!」
 芹は顔を左右に振って、どうしてもうんとは言わない。
「いい加減にしろ。なぜ、言うことが聞けぬか!」
 父は頭に血が上り、手が出る。額を板に着けた芹の頭を押さえつけた。
「お父さま!やめて!」
 姉の額をぐりぐりと押し付ける腕に房は取りついた。
「房!放せ!」 
 房の手を払いのけて、父は芹の肩を持って上体を起こした。顔を上げた芹に詰め寄った。
「芹!いうことを聞け!」
「いやです!」
「何を!」
 掴んだ肩を後ろに引き倒して、馬乗りになった。
「お父さま!やめて!」
 顔に向かって振り下ろされる手を房は止めるために掴んだ。侍女たちも大きな音を聞きつけて集まり、主人の手を止めに入る。
「旦那様、おやめください」
 男たちも数名よばれて、暴れる主人を止めに入ってやっとのことで二人を引き離した。
 房は姉に近寄り、体を助け起こした。
「姉さま……」
 痛みで芹の目尻から幾筋かの涙が流れている。
「ああ」
 先ほどきれいに梳いた髪は乱れて、口の左端が腫れて、血が滲んでいた。
 芹は左袖で左頬を覆った。手のひらで殴られた口元を押さえて顔をしかめた。
「痛い?姉さま」
 芹は妹の言うことに答えず、黙っている。
「芹!わかったか!」
 邸の男たちに抑えられて肩で息をしながら、父は娘に言った。
 芹は口元を押さえたまま、首を激しく振った。
「まだきけないのか!」
 頑なな芹の態度に、父は再び頭に血が上り、立ち上がって芹のところに行こうとするので、男たちは押さえる手に力を込めた。
「芹がだめなら!房!お前をお勧めしよう。お前たちは同じ母親から生まれた。顔もよく似ている。芹のような強情で可愛げのない娘では、いずれ出戻ってくるのがおちだ。房、いいな。明日にでも、岩城家に行ってお詫びをして、房のことをお話してくる」
 芹の隣で芹の背中を支えていた房に向かって父は言った。
「お父さま!そんなことは!」
「これは、一族のためだ。こんな機会を潰すことはできない。なのに、どうしてきけないのだ、芹よ。こんな娘はもう知らん。我が一族の一員ではない。房、お前はわかるだろう。いいな、心積もりをしておくのだ」
 そう言うと、父はわざと足を踏み鳴らして簀子縁を進み自室へと帰って行った。
「姉さま……口の中を切ったの」
 房は後ろから姉の肩に手を置いて、尋ねた。
 姉は言葉を発するでもなく首を横にも立てにも振ることなく、じっと前を向いている。房が芹の肩口から顔を出してその横顔を見ると、目の縁に涙が盛り上がっていた。
「痛い……?」
 芹は何も言わず涙を拭うと、肩にある妹の手に右手を置いた。

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