New Romantics 第一部あなた 第三章14

小説 あなた

 佐田家の別邸は都の南にあり、邸の周りはのどかで、小さな森が点在し、作物を育てている畑があった。そのため、人通りも少なく、芹は畑を作る母親と子供の二人連れとすれ違っただけで、後は誰とも出会わなかった。
 従者が門を入って訪いを告げると、すぐに人が出てきて玄関から芹たちを通した。案内された部屋は御簾を途中まで巻き上げていて、風通しのよい明るい部屋だった。
 すでに岩城実津瀬が座っているのではと思ったが、部屋の中には誰もおらず、芹と実津瀬が座るであろう二つの円座が置いてあった。
 部屋の中まで一緒に来た従者は、円座を見下ろして顔を上げた芹に一つ頷くと部屋を出て行った。
 芹はどちらの円座に座ろうかと少し悩み、人知れず小さな溜息をついて、手前の円座に部屋の奥に顔を向けて座った。
 いつ来るだろう、まだ待たされるのか、と思い始めた時に簀子縁を歩く足音が聞こえた。
 そして部屋の正面から人が入って来た。芹は振り向くと、岩城実津瀬一人だった。
「少し待たせたかな」
 実津瀬の言葉が合図にように部屋に周りに巡らされている途中まで巻き上げられた御簾は次々に降ろされた。三人くらいの男たちが簀子縁の方から御簾を下ろしている。
 芹は一気に部屋の中が暗くなったので、見てわかるほど肩を上げて驚いた。
「部屋が暗くなって驚いた?前にも言った通り、あなたに嫌われることはしないよ。あなたと話をしたいだけだから、変なまねはしないからね。約束する」
 芹の前まで歩いてくる実津瀬は言った。
 階に下りる正面の御簾だけを残して、左右の御簾は全て下ろされた。実津瀬が円座の前に立つと、正面を隠すように几帳を立てて、二人だけの狭い空間へと変わった。
 実津瀬は芹の左側に座ったので、芹は体を左に半分まわして、実津瀬と正面を向き合った。
「会えて嬉しい」
 芹がこちらを向いて、座る位置や衣装の広がりを整え終わって顔を上げた時に、実津瀬は言った。
 芹は「会えて嬉しい」なんて、女たらしの言う言葉に思えて、権力者の一族である岩城実津瀬の女人慣れしている言葉や態度に少し嫌悪感を覚えて、何も答えなかった。
「ここまでは徒歩?邸から少し遠かったね。でも、踏集いの場所はもっと遠いものね」
 弁解めいた言葉も芹は聞くだけで、返事はしなかった。
「あなたのお願いをきかないから、ご機嫌斜めなの?」
 実津瀬がそう言うと、芹は何も言わないままではいられなかった。
「ご機嫌斜めだなんて……そんなことはないわ。でも、私の気持ちは知っていらっしゃるでしょう。私は、今日ここに来ることなんて望んでいないのだから」
「でも来てくれたね」
 それを聞いて、芹はキッと目を剥いて実津瀬を睨んだ。
 父親を通して話をされては、断ることはできない。来る来ないの選択権など芹にはないのだ。そのことは実津瀬もわかっているだろうに。
 実津瀬は怒った顔の芹を横目に話し始めた。
「私たちの出会いの意味は結婚だけど、将来のことなど誰にも分らない。私はあなたと別れることになっても仕方ないと思っている。でも、それは今ではなく、もっと先でもいいのではないかと思う。だから、もっと気楽になって。最後にはあなたの気持ちを尊重するから」
 芹は今日だけと思っているのに実津瀬はこれから何度も会うことを考えているのだ。
 いやよ、もうこれっきりにしたい。
 芹は暗澹たる気持ちに満たされる。
「お邸から出ることはよくある?」
「……踏集いの時だけ……妹が今年から踏集いに行くようになったから。邸の外には出ることはほとんどないわ」
 芹は心の中で呟いた。あの……弟を亡くして邸に帰ってからは。
「そうか。でも、須原の邸にはよい庭があるから、庭を歩けばよい気分転換になるだろう。庭で舞うの?」
「舞わないわ!音楽がないもの。邸の者は誰も音楽に長けた者はいないもの」
「そうなの?では私の笛で舞ってみるかい?」
 芹は眉をひそめて実津瀬を見上げた。
 これは芹の機嫌を損ねたのか、と実津瀬は思って話を替えた。
「池のほとりで、あなたに私の舞のことを話した後、無性に舞いたくなって、今少しずつ練習をしている。踊り慣れた舞の型をさらうだけだが、踊ってみると、頭も心もすっきりした。あなたと話したおかげだ」
 ちらりと芹の顔を窺うと、芹は眉根を寄せた険しい顔はしておらず、実津瀬に舞いについて話していた時の人の気持ちに寄り添う言葉を言った柔和な表情になっていた。
「私のおかげなんてこと……ないわ。お父さまから聞かされたわ。あなたはとても舞の巧い人だと。大王から宴で舞が見たいと所望されるほどで、都でも名の通った人だと。そんな人が私のおかげだなんて。前にも話をした通り、あなたは望まれているのよ。舞を舞って、それを多くの人に観てもらうように、多くの人から望まれているの。だから、少しずつでも舞を舞えるようになるわ」
「どうして?私があなたのおかげと言っているのだから、そうなんだよ。私にそんなふうに言ってくれる人はあなたしかいないんだから」
 よく言えば謙遜なのかもしれないが、自分を小さいものとして貶めるように言う芹の言葉に実津瀬は抗いたくなった。
 芹は困った顔をして顔を伏せた。
「私の舞を見てくれない?あなたに見てほしいな」
 実津瀬の言葉に芹は顔を伏せたままだった。
 芹はどう答えたらいいものかと考えていた。見るか見ないかの答えではなく、見ることはないという断りをどう言ったいいかということだ。
「……芹」
 名前を言われて、芹は驚き顔を上げた。
 そこには帯を解いて、上衣の襟を寛げている実津瀬がいた。下着まで一緒に引いて左胸を出す。
 最初に変なまねはしないと言ったのに、あの言葉は早くも嘘だったと知れたのだ。
 芹は体を後ろに引いて実津瀬から離れようとした。
「待って。あなたに見てほしいんだ」
 実津瀬は左胸に自分の左手を置いて、右手を芹の膝元に置いて身を乗り出した。
「怖がらせてすまない。変なことをしようなんて思っていない。私の話を聞いてほしい」
 芹は実津瀬の言葉に少し落ち着き、右手を後ろについて引いた体を支え、自分の体を守るように左手を左胸に引きつけて固まり、実津瀬の次の言葉を待った。
「いきなり胸をはだけるなんて、驚かせてしまった。でも、これを見てほしいんだ」
 そう言うと実津瀬は左手を下ろして胸の傷を露わにした。
 肩口から入った剣の刃が、乳首の上あたりで途切れて乳首の下からまた始まる不思議な傷跡。
 もう傷を負って随分たったから傷口は完全に塞がっているが、肌を裂いたその跡に、芹は目を当てたがすぐに左手の長い袖で顔を半分覆って、見ないようにした。
「……どうされたの……その傷は……とても痛ましい傷跡……」
「これを見て、何か不思議に思うことはない?」
 実津瀬に言われて、芹はもう一度だけ左胸の傷を見た。
「……傷跡が途中で切れて、また傷があるわ……」
「そうなんだ」
 実津瀬は乗り出した身を元に戻して、はだけた胸を隠した。
「この……途切れたところは、ある人の左手があったのだ。その人が後ろから私を引っ張って、下りてくる剣から私を守ろうとしてくれた。おかげで私の左胸は守られた。その代わりその人の左手から四本の指が切り落とされた」
 実津瀬は言って、芹を見た。
 芹は実津瀬の左胸を見つめていたが、実津瀬が自分を見た時に一緒に目を上げて視線を合わせた。
「あなたの左手を見た時、すぐに頭の中をよぎったのは、私の左胸を守ってくれた手のことだ。その手が現れたように思えた。須原の邸で会ったのは私の父の企みかもしれないが、その前に踏集いで出会ったのは偶然だ。でも、あなたに会うためにあの場所に行っていたのではないかと思った。だからね、私はあなたと話がしたいのだ」
 芹は後ろに引いていた体を正し、右手で左手首を持って胸に抱いた。
「……その人は……」
 芹の短い言葉に実津瀬は言いたいことを汲み取った。
「その人は……亡くなったよ。あなたとは逆だ。私は生きたが、その人は死なせてしまった」
 芹は視線を落とした。亡くなった者を悼むんでいるのか睫毛が震えている。
「私たちは生き残った者、生かされた者同士。だから、私は少なからずあなたの気持ちがわかると思っている」
 芹は何も返答しない。
 実津瀬は膝を前に進めて、芹に近づいた。
 そして、池のほとりで迫ったように、右手を差し出した。
 芹は実津瀬が広げた手の平を見つめていたが、導かれるように胸に抱いていた左手を差し出した。
 左手の指四本がないことをすぐに見られないように長くしている袖が実津瀬の手に乗った。実津瀬は右手を袖の中に入れて芹の左手を出した。親指だけが残り、四本の指があった部分は引きつれた皮膚で覆われている。実津瀬は右手の平で芹の左手を包み込んだ。
「大変な傷だ……。この傷だと、痛みはもちろん、熱も出て苦しんだはずだ。当時は相当苦しんだのではないの」
 実津瀬に訊かれて、芹は封印した記憶の扉を開けたように思った。
 亡くなった弟の体を取られた後、妹の房が左手に白布を巻いて、寄り添ってくれた。邸に上がり、土足で踏みつけられた褥の土を払って、芹は横になった。野盗を追い払ったが、いつ舞い戻ってくるかわからず、夜明けまで動ける者は簀子縁に出て警戒にあたったのだった。もちろん、芹の傷の手当などできない。房が白布を巻いたその上から自分の手を重ね、早く夜が明けろと念じていた。
 夜が明けて、近所に応援を呼びに走り、同時に医者も呼んだ。到着した医者は傷口を洗って、白布を巻いた。別の白布に置いた落ちた指を見たが、それが元の場所に着くことはなく、ただ、この傷が癒えるのを待つだけだと言った。
 芹は熱を出し、数日苦しんだ。傷口が痛くて、昼も夜もまとまって眠れなかった。痛がりようが尋常じゃない時に見舞いに来た父親は、もう芹は死んだ方がいいとさえ言った。しかし、母と妹、医者の献身的な看護で芹は左指がないだけの生活が送られるようになった。
 あの時は、弟と他の従者たちが亡くなって、邸全体が悲しみに暮れていた。その悲しみの大きさに、芹の傷は見過ごされがちだった。
 当時、こんなふうに私の痛みを労わってくれる言葉はあったかしら。母も妹も助けてくれたけど、弟が亡くなったことの悲しみが大きくて傷のことはろくに話をしてこなかった。それから幾年か経ったが、私が暗く落ち込んでいるから誰もこの傷のことを言う人はいない。
「辛かっただろうね。でも、今こうして元気な姿でいてくれてよかった」
 芹は実津瀬の言葉で目の奥からじんわりと滲むものに堪えた。
 芹は左手を実津瀬の手の平から下ろし、再び自分の胸に抱いた。
「……その人はお身内の方?」
 芹が実津瀬の身代わりになった人のことを尋ねた。
 実津瀬は少し言葉を発するのに時間がかかった。雪のことをどういったらいいだろうか。あれこれと言葉を弄しても仕方ないので、実津瀬は事実を言おうと決めた。
「いいや……その人は、私の思い人だった。その人も私を思ってくれていた。私のために命を落としたと言ってもいい」
「そう……あなたは無念でしょうけど、亡くなった方はあなたを守ることができたことに安堵されたでしょう。……生きていれば言うに越したことはないでしょうけど」
 芹の表情は変わることなく、淡々と話している。
「傷口はまだ新しい。そんな昔の出来事ではないのね」
 芹はこわごわと傷を見ていたが、一目見ただけでよく古くないとわかったものだと思った。
「そう、この夏の事だった」
 芹はそんな近いこととは思わず、顔を上げた。
「好きな人を死なせてしまった私は、日をあかずして、こうしてあなたのことが気になり、何とか口説こうとしている薄情者さ。そんな男は嫌い?」
 微笑む実津瀬と目が合って、芹は何と答えたものかと考えて、俯いた。
「今日、あなたの心を決めろなんて言うつもりはない。また次に会うまでに考えておいてくれればいいから」
 実津瀬の言葉に、芹は慌てた。次に会うなんてこと、芹は考えていない。今日も、自分の気持ちを話してわかってもらうことが目的で来たのに、実津瀬の話に引き込まれて何も言えていなかった。
「ま、待って。私は……私の気持ちは池のほとりで話した通りよ。お願いをきいて。次に会うなんて……」
 芹は身を乗り出して実津瀬に言った。
 実津瀬は芹の言葉を聞いているが、頷いているだけだ。
「うん、あなたの気持ちはそうだけど、今日私と会って、また気持ちの変化もあるはずだ。池のほとりと、今日とでは嫌だといった左手を見せてくれた。それだけでも、あの時と気持ちは違っている。だから、そう焦るものでもないよ。気持ちが変わらないと言うのであれば、次の時にまた同じことを言ってくれたらいいから。ね」
 そこで、御簾の上がっている正面から人が庇の間に入って声を掛けた。
「実津瀬様……」
 御簾が下りて、几帳の中で話をしているので、外の明るさの変化に気づいていなかったが、もう夕暮れが迫っていた。芹が徒歩で帰ることを考えると、この会談はそろそろお開きにする時が来たのだ。
「わかっている。ちょうど話が終わったところだよ」
 そう実津瀬は返事した。
 実津瀬が一方的に話しただけじゃないか、と芹は心の中で叫んだが、口をつぐんで実津瀬の行動を見ていた。
 実津瀬ははだけた襟を直し、帯を締め直すと芹の右手を取って立たせた。几帳の間から庇の間に出たところで、芹に短い言葉を言った。
「また、こちらから連絡をするよ」
 芹は断りの言葉を言いたかったが、実津瀬の気持ちが変わらないなら同じことを言ってくれていいという言葉に騙されるようにその場は黙った。
 簀子縁には芹と一緒に来た従者が連れて来られていて、一緒に近くの階を下りた。
 実津瀬は簀子縁から芹を見送った。
 芹は一度だけ、振り向くと実津瀬がこちらを見ていた。すぐに前を向いて、従者の後ろを着いて行く。

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