New Romantics 第一部あなた 第三章13

新緑 小説 あなた

 芹の心は落ち着かない。
 それは、岩城実津瀬から「待っていて」と言われたこと……。待っていたくないのに、待つしかない。
 毎日毎日、誰かが部屋に入ってくると、何かあるのではないかとびくびくしている。
 今も、簀子縁をこちらに歩いてくる音に、もしや父ではないかと胸の中は穏やかではない。
「姉さま!」
 庇の間に現れたのは妹の房だった。
「今日はいい天気よ、もっと外の見えるところまで出てみたら。庭には秋の花が咲き始めているし」
 芹は親指以外の指がない左手で生地を押さえて、右手で針を持って縫物をしていた。
「縫い物はまた後でできるわよ」
 房は姉の右手を取って立ち上がった。
 芹は縫い物を机の上に置いて妹に連れられて、簀子縁まで出た。青い空が広がり、爽やかな風が吹き抜ける。
 いつの日かのあの池のほとりのよう。その時は、あの人はいなかった。
 芹一人で遠くから聞こえる音楽に合わせて踊り、疲れたら池のほとりに座って水面を眺めていた安らぎのひとときだった。
「庭に下りましょうよ。こんなによい天気ですもの」
 二人で階を下まで下りた時に、遠くから芹を呼ぶ声がした。
「芹!」
 姉妹は一緒に声に振り向いた。その声が誰のものかはもちろんわかっている。
「どこに行くのだ。話があるから上がってきなさい」
 芹の父の声は威圧的だが、顔の表情は柔和である。
 逆に芹はそれの表情を見て悪い予感がした。
 黙って階を上がった芹に、父は言った。
「部屋の中へ」
 父が円座の上に座った。その前に芹が、芹の後ろに房が座った。
「芹!でかしたぞ!岩城家から連絡があった。向こうはお前と会って話がしたいそうだ。私はこの邸に来て会っていただきたかったが、どちらの邸でもなく別の場所がいいと言われて、私も知っている佐田殿の別邸で会えないかと言われた。まあ、岩城様のおっしゃる通るとおり佐田殿の邸で会うことにしよう。芹、わかったか」
 父親はいつになく機嫌がよく、芹は「はい」とも「いいえ」とも返事をしなかったが、そんなことはお構いなしに続けた。
「明日だ。昼に供を付けて佐田様の別邸へ行く。一番良い衣装を選べ。房、身なりのことを手伝ってやれ」
 そう言うと父親は部屋を出て行った。
 須原家は貴族という身分であるが、今、高い地位を得ているわけではない。上の位に上がるためには岩城のような権力者と親戚になるのは一つの手である。それを向こうから言ってきてくれたのだから、こんなありがたいことはない。
「姉さまはもう会わないなんて言っていたのに、あの方は姉さまのこと気に入っていらっしゃるのね。あの方…岩城様は……姉さまのことよく見ていらっしゃったわ」
 楽しそうに房は言った。
「どんな衣装にする?朱色の上着はどう?裳はね…緑色がいいかしら」
 房は立ち上がって部屋の奥に置いてある芹の衣装を入れた箱の前に行った。
 芹はぼんやりと座ったままだ。
 ああ、あの人は言ったことを実行したのだ……。そのつもりで言った言葉だろうけど……どこかで、自分の願いをきいてくれるのではないかと思っていた。
 明日、もう一度正直に話そう……そうすれば私の気持ちをわかってくれるはず……。あの人には私の他にもっとふさわしい人がいるはずだから……。
「姉さま、これはどう?この組み合わせは」
 房が衣装箱から朱の上着と緑の裳を持って来たので、芹は顔を上げた。

 翌日、房と侍女が髪を結ってくれた。左右の横の髪を上に上げて、一つにまとめて小さな飾りを挿す。後ろの髪は垂らした。化粧も房が念入りにしてくれた。
「姉さま、きれい」
 房の言葉に、少しだけ口の端を上げて笑い顔を作ったが、芹はすぐに無表情になった。
 姉の浮かない顔を見て、房は心配している。
 妹は姉の結婚を応援している。
 あの日。都の郊外にある別邸で姉弟だけで過ごしていた時、突然の野盗の襲来に逃げまどった自分達。弟を連れた姉に比べ、一人で逃げていた房は、後ろから姉の声に従って身軽に逃げられていた。
「房!左よ!」
 その言葉に、庭を逃げていた房は左手にある階を駆けあがった。簀子縁を走って逃げていた侍女に手を取られて、一緒に邸の裏へと走っていた時は逃げるのに必死だった。
 侍女と抱き合って、邸の裏の床下に隠れていると、野盗は去ったと邸の男たちの声がして、床下から這い出たのだった。その時になって、姉と弟はどうしただろうと、心配する気持ちの余裕が出た。
手を取り合っていた侍女に。
「姉さまたちはどうしたのかしら」
 と問いかけて、一緒に庭に向かった。庭の奥に人が集まっているのを見て、走り寄った。
 人だかりの中心には、血だらけの姉と弟がいて、姉が獣のように泣き叫んでいる。
「姉さま!」
 人をかき分け房は姉の前に走り出た。
「綾戸!」
 弟の名を呼んだが、姉に後ろから抱かれた弟の綾戸は口から血を出してぐったりとしている。そして、姉の左手と綾戸の左胸が真っ赤に染まっている。
「姉さま!姉さま!血が!たくさんの血が出ている。怪我をしたの?」
 姉の泣き声以上の大きな声を出して、尋ねた。芹は泣き顔を妹の方に向けて、切れ切れに言った。
「うっ…わ、私は……いいの、うっ……綾戸が……綾戸が……」
 再び姉に抱かれた弟を見ると、弟の左胸は赤く染まり、その上に姉の左手から離れた四本の指がきれいに並んでいた。
「姉さま!手が!」
 姉は自分の左手が切られたことはわかっているが、それ以上に弟が切られたことの衝撃が大きくて、自分のことは二の次になっている。
 姉は泣きながら弟を揺するが弟はぴくりとも動かない。
 綾戸は死んでしまった。それを姉は受け入れられないのだ。
 房は胸から白布を出して、姉の左手を包んだ。
「姉さま……綾戸を…」
 房は言い、舎人が芹の前に座って綾戸を抱きとった。
 芹は抗わずに綾戸を渡した。房が白布で覆った左手から手首を握って言った。
「姉さま!手は!手は痛くないの?」
「手?」
 芹は房が握る左手を見下ろした。
 白布が赤く染まっている。
「……痛くないわ……。綾戸の方が痛いはずよ……でも、綾戸は……もう痛みも感じていないかしら」
 あの日から姉の心は弟を守ってやれなかった無念に支配されている。自分の幸せや喜びを求めては綾戸に申し訳ないという気持ちに縛られている。
 多くの幸せを追い求めなくとも人並みの幸せを享受すればいいのだ。例えば、よい相手と結婚し、子をもうけること。それすらも拒否することはないのだ。
 用意のできたな姉と従者を、房は階の下に下りて見送った。
 少し日差しがきつく、芹は頭から織の入った黄色の布を被った。きれいに上げた髪を崩さないように気を付けて。布が風で飛ばされないように端をしっかりと持って。

 芹と会う前日、実津瀬は一人で緩やかな山道を登っていた。
 山頂から眼下に宮廷裏全体が見下ろせる場所。そして、雪の一部を埋めた場所。
 これで何度目かな……。ここに来たのは。最近は来ていなかった。
 実津瀬は、頭上を覆う樹々によって熱のこもった山道を、汗を拭いながら考えていた。
 雪……あなたと同じ……左指のない女人が私の前に現れた。これは偶然かな。あなたは私の命を守ってくれたけど、その女人は弟の命が守れなかったそうだ。
 実津瀬は山頂に辿り着き、木も何もない広くなった場所から下を見た。宮殿の大きな屋根が見え、広場には動いている人影が見えた。
 そして、少しばかり引き返し雪の指を埋めた場所に跪いた。
 雪、あなたがいなくなってなんと味気なく、面白みのない生活だろうと思っていたけど、その……芹という女人と出会って、今はその人が気になっているんだ。こんなにも早くあなたのいない生活から立ち直ろうとしている私をあなたは薄情な男と思うだろうね。
 私はその女人にこんな薄情な男がいるのだと教えてあげたい。愛した女人を死なせてしまってまだそれほど日も経っていないのにもう他の女人を思うような男がいるとね。
 随分と実津瀬はそこに座ったまま、顔を空に向けて目を瞑って心の中で雪に語りかけた。返事が返ってくるわけもないのに。

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