実津瀬は自分から広場に戻ると、皆は帰り支度を始めていた。
鷹野はあの意中の子、里の前に立って何やら話をしている。近寄って行っては邪魔になると、近くの木に背中を預けて周りの様子を見ていた。すると、林の中から広場に女人二人が並んで現れた。
「姉さま、たまには一緒にいましょうよ。せっかくここまで来て、池のほとりに独りぼっちは寂しいわ」
「……いいのよ。邸に一人でいると何を言われるかわからないから来ているだけ。ここで一人だからって別にどうってことないわ」
実津瀬は二人の背中を盗み見た。例の姉妹である。二人は話すのに忙しくて、周りの様子に気を配ることはない。実津瀬が近くにいても姉の、実津瀬に怖い顔を見せた女人は、妹との会話で気づくことはなかった。
実津瀬は鷹野に視線を戻した。そこには、里の手を握っている鷹野がいた。熱心に言葉を交わして、手を離した。里は歩き出し、名残惜しそうに鷹野はその背中を見送った。里が不意に振り返ったので、鷹野は先ほどまで里の手を握っていた手を少し動かした。上げたというほどではない。鷹野は里が自分の去りがたい気持ちを察してくれたと思った。
里が一緒に来ていた女友達に合流したところで、鷹野は実津瀬の方を振り向きゆっくりと歩いてきた。
「なかなかの進展じゃないか」
鷹野は実津瀬の横に立って、同じように広場中央に視線を向けているだけで話さない。しょうがないから、実津瀬から口火を切ると、鷹野はにたりと笑った。
「かわいいなぁ……稲生が絢に夢中になったことがわかったよ」
と言った。
少し上気したような顔を鷹野は実津瀬に向けた。
「よかったではないか」
実津瀬は連れ立って帰る道すがら、鷹野が今日の出来事を意気揚々とこと細かに話すのではないかと思ったが、鷹野は黙っている。ただ。
「里も私を嫌ってはいないようだ。踏集い以外でも会いたいと言ったら、少し戸惑っていたが、私もと言ってくれた」
と、言った。
「それは、随分と鷹野を気に入っているのではないか。大人しい人のように見えるから、強引にするのは良くないだろうけど、親しくなりたいなら押していくしかないな」
実津瀬は言って、もう鷹野は踏集いに行かないというかもしれないな、と思った。そうなれば、実津瀬も行く必要がなくなるが、そうなると、あの姉妹……いや姉の方だ。あの池のほとりで舞う女人を見ることができなくなる。
盗み見る男と決めつけられては後味が悪く、その弁解をしたい気もするがその機会を得られぬままかもしれない。まあ、どちらでもいいことだ。
実津瀬は押し黙って隣を歩く鷹野の神妙な横顔を盗み見て、考えた。
塾から一緒に邸へと戻る途中、稲生は邸に入ったが、鷹野は実津瀬について来た。
「どうしたの?」
「聞いてほしいことがある」
そう言って実津瀬と肩を並べて歩く。
稲生は絢を妻にして、せっせと絢が住んでいる早良家に通っている。そのうち一緒に住もうと言って、準備をしているところだ。
そんな稲生に、自分の恋の相談はしづらいのだろう。実津瀬に里のことを話したいのだと察した。
邸に着くと実津瀬よりも早く実津瀬の部屋に上がって、円座に腰を下ろした。
「里という名だったっけ?あの子……」
鷹野は頷いて、小さな声で言った。
「そうだよ。里に手紙を出しているのだが……あまり芳しくない」
「返事はもらえるの?」
「……うん、しかし、まだ二人きりで会うのは早いと言われた……」
「まだ、踏集いで二度しか会っていないし、前回で親しく話せただけだろう。会うと言ってくれたら運が良かったことだろうし、まだ早いと言われたらそれはこれから時間をかければいいことじゃないか」
「そうなのか?あの日はとても楽しそうに言葉を返してくれた。気も合っていると感じたのに」
「焦っても仕方ないだろう」
自分の気持ちの盛り上がりと同じように里も盛り上がってくれていると思っていた鷹野は、少し尻込み気味の里に不安を覚えているようだ。
「そうだけどさ」
鷹野は膝を抱えて下を向いた。
そこへ、庇の間に影が差した。
「……あ、鷹野が来ていたの」
庇の間に入って来たのは蓮だった。
「ああ、蓮、どうしたの」
「別に、実津瀬は何をしているのかな、と思って来たの。鷹野がいるとは知らなかったわ」
蓮は膝を抱えている鷹野の隣に座った。
「鷹野、どうしたの?そんなに肩を落として」
蓮の言葉に鷹野は口を尖らせて言った。
「もう結婚相手を見つけた蓮にはわからない話さ」
「え、結婚相手……鷹野……恋の話?」
蓮は鷹野から実津瀬に視線を移した。実津瀬は頷いたが、何も言わない。
「失恋したの?」
思ったことをはっきりという蓮に、鷹野はきっと視線を上げた。
「まだ、だよ!」
「鷹野が思っているように相手は鷹野のことを思っていないようで、少し焦っているのだ」
「そうなの?」
蓮の親身に聞こえない言葉に、鷹野は頬を膨らませた。
「蓮にはもう無縁の話だろうな。鷹取殿とはとても仲がいいと聞くし。……私を笑いたければ笑えよ」
「笑うなんてことしないわよ。鷹野らしくないから、これでも心配しているのよ。失恋なんて、誰でもしているからそんなに落ち込むことないわ」
「まだ、失恋はしていないよ!」
実津瀬と蓮は落ち込む鷹野を励ました。
蓮と景之亮の仲は睦まじく、邸の中でも微笑ましく見守られている。
その様子はこの邸を飛び出して、本家にも聞こえていて、鷹野は幸せそうな蓮に噛みついたのだ。
「失礼します。蓮様、鷹取様がお見えになりましたよ」
蓮の侍女である曜が、蓮を呼びに来た。
「え!景之亮様が!」
蓮は膝立ちになって、曜を振り向いた。先ほどまで、鷹野に女心を説いていたのだが、そんなことはもうそっちのけで蓮は立ち上がった。
「鷹野!そう焦ってはだめよ。もう少しじっくりと話をしたらいいわ。今はもう一度鷹野の心を見定めているのよ」
と言い捨てて、さっさと部屋を飛び出して行った。
鷹野も、そして実津瀬もあっけに取られて蓮の後ろ姿を見送った。
蓮は後ろを歩く曜に向かって小声で言う。
「景之亮様、どんな様子だった?」
「今日はこちらに来る予定にはしていなかったけど、早く宮廷を下がることができたから来てしまった。突然の訪問だから、蓮様が忙しくて手が離せないようであれば帰ると」
「忙しくなんてないわ、暇よ!暇。お引止めしてくれている?」
「それは、実津瀬様のところに行っているだけなので、すぐにこちらに戻ってきますと言って、待っていただいていますわ」
「曜、ありがとう!」
蓮は小さな声で曜に言うと、急に静かに歩き出した。もうすぐ自分の部屋の前である。
簀子縁から途中まで巻き上げている御簾の下へと身を屈めて部屋の中に視線を送った。机の前に置いている円座に座る景之亮の尻が見えた。蓮は体を起こして、よりおしとやかに簀子縁を進んで、庇の間に入った。
景之亮は庇の間に影が差したのにすぐに気がついた。いや、その前の簀子縁をぐるりと歩いてくるところから、その足音をしっかりと捉えている。
「蓮!」
蓮が声を掛けるよりも前に、景之亮は振り向いた。
「景之亮様!お待たせしてしまいました」
「いや、待ってなどいないよ。それよりも、忙しかったのではないか?今日は特に訪ねるとも伝えていなかった」
「暇ができたので実津瀬の部屋で話していただけ。それよりも、会いに来てくださって嬉しい。今日は会えると思っていなかったもの」
本家の鷹野が来ているなどというと、景之亮は恐縮してしまうから黙っておく。
蓮は景之亮の隣に腰を下ろすと、ぴったりと体をくっつけて顔を見上げる。
髭の濃い景之亮の頬にはもう剛い髭が覆っている。朝、剃っても午後になると伸びるのだ。初めは日焼けで黒い顔が髭でより黒くなっている。
景之亮が今日の仕事の首尾を話し終えると、蓮は右手を上げて景之亮の左頬に当てた。
景之亮は蓮の右手首をそっと持って、自分から愛しい女人の手に自らの頬を押し当てる。
「今日もよくお働きになった顔」
蓮は言うと、親指でその髭を揉むように触った。
「お疲れになって?」
「いいや、蓮の顔を見たら、例え疲れていてもそんなもの吹っ飛ぶというものだ」
「ふふふ、そんな嬉しいことをおっしゃって。でも、疲れているなら疲れていると言ってくれないと、できるお世話もできないわ。お腹は空いていませんか?お体に効く薬湯をお持ちしましょうか?」
蓮の言葉に、景之亮は首を振った。その間に、景之亮の右手は蓮の背中に回った。
「いらないよ。何もいらない。連に会いたかったのだから、蓮がいればいいのだ」
囁かれた言葉に蓮は耳まで赤くした。それを見て、景之亮は蓮を片腕の中にすっぽりと入れて右胸に引き寄せた。
実津瀬のところから帰る鷹野は、表門ではなく裏門から帰ろうと庭を突っ切っていた。蓮の部屋の前に差し掛かった時に、鷹取様が来ていると言ったことを思い出した。立ち止まって庭から途中まで巻き上げられた御簾の中を覗いてみた。すると、奥の方に二人の人物の腰から下が見えた。ぴったりと寄り添って、女の腰のあたりを囲うように巻かれた腕が見えた。
あれは鷹取様と蓮だ……。
鷹野はすぐに体を起こしてそそくさと裏門から出て行った。
蓮め……。うらやましいな……。俺もあんなことをしたい。
里と思うように気持ちが通わなくて荒ぶる鷹野は、一層気持ちが苛立った。
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