立ち上がった二人はしばらく丘の上から、眼下に広がる宮廷を見つめた。小さな点がせわしなく動いているのは、宮廷で働く官吏や女官たちだ。
働く宮廷の人たちの姿を俯瞰して見ていると、二人は心が落ち着いていくのを感じた。自分の大切な人の命が尽きても、他の人の日常はいつもの通りに過ぎて行く。悲しくても苦しくてもひとえに皆に、明日は来る。
「実津瀬、帰りましょうか……。私たちはお父さまやお母さまに心配をかけさせてはいけないわ。陽が落ちて部屋にいないとなると、皆が探し回ってしまう」
実津瀬が頷くと、蓮は実津瀬の腕を取って、来た道を歩いて下りた。
二人は西の山に陽が沈む前に、邸の裏門の中へと入った。裏門から近い蓮の部屋の前の庭から階を上がると、足音を聞きつけた宗清が簀子縁を走って現れた。
「兄様!姉様!二人してどこに行っていたの?」
「ちょっと、気分を変えるのに、外を歩いていたのよ」
「兄様、体は大丈夫?」
「ああ、体を元に戻すのに歩いたよ。だいぶ動くようになった」
宗清は実津瀬の胴に腕を回して抱きつき、上を見上げて実津瀬の顔を不思議そうに見ている。
「どうしたの?宗清?」
蓮が黙って兄を見上げている宗清に声を掛けた。
「顔が真っ黒だよ。土がついて。姉様も同じだ。何をしていたの?竹藪の中で宝物でも掘っていたの?」
それを聞いて、実津瀬と蓮はお互い顔を見合わせて笑った。それぞれ涙を土の付いた手で拭っているうちに黒い顔になったのだ。互いが見える側の頬には土がついていなかったから気づかずに帰ってきてしまった。
「本当ね。でも、宝探しをしていたわけではないのよ。土を触ったから真っ黒になった。手を洗わなくちゃ」
庇の間に入って、部屋の隅に置いている盥に水差しから水を注いで手と顔を洗った。それが合図のように、侍女の曜が灯を持って入って来た。
「曜、ありがとう。替えの水を持って来てもらえる」
曜は頷いて下がって行った。
「お母さまに、兄様姉様が帰って来たことを伝えてくるよ」
宗清は言って、曜を追い越して母の部屋に走って行った。
「実津瀬、胸の傷は痛くない?だいぶふさがっていたけれど、長く動いたから開いたりしていないかしら」
蓮に半ば強制的に脱がされて、実津瀬は上半身裸になった。
別の盥に残っていた少ない水を入れて、白布を浸して、汗を拭った。
「……うっ」
と実津瀬が小さく呻いたので、蓮は手を止めた。
「少し、血が出ているわ」
蓮が実津瀬の胸から顔を上げた時、声が上がった。実津瀬と蓮で声の方を見ると、榧が盆を持って入って来たところだった。
「まあ、兄様、そんなひどい傷を負っていたの?」
榧は兄の前に座って、その傷をまじまじと見た。
「痛むの?」
「少しね」
蓮が再び傷の周りを拭いて、机の上から薬を持ってくる間、榧はもう一度兄の左胸の傷を見た。
「……不思議ね、傷が途中で……なくなってまた始まっている」
榧の言葉に、実津瀬もそれを聞いている蓮も答えなかった。
「榧、薬を塗るわね……」
その言葉に、榧は乗り出していた体を後ろに退けた。蓮は再び傷口を拭いて、壺から薬を少量取って塗った。
塗り終わると、白布を置いて、下着を着させてその上から長い白布を二回ほど胸に巻いた。榧は盆を兄の前に出して。
「どうぞ」
と言った。冷えた水を椀に入れて持って来てくれたのだ。
「今日も暑かったものね。外を歩いていたら、持っていた水は全部飲み干してしまったもの。実津瀬は喉が渇いているでしょう」
「榧、ありがとう」
実津瀬は椀を持って、ゆっくりと水を飲んで乾いた喉を潤した。
椀を盆の上に戻したところで、複数の足音とともに元気な声が聞こえた。
「兄様!姉様!夕餉の準備ができたよ!」
「できたよ!」
宗清を真似て珊の声も聞こえた。二人は追いつけ追い越せで駆けてきて、庇の間に飛び込んできた。
「まあ、二人とも元気ね。でも、実津瀬はもう少し安静が必要だから、部屋に入ってきたら静かにね」
と蓮が諭した。
「はい!準備ができたから、あちらのお部屋に行こう。お父さまも待っているよ」
父が待っていると聞くと、実津瀬も蓮もゆっくりとはしておられず、兄弟姉妹全員立ち上がって、身なりはきちんと整っているかをお互い確認し合って、わいわいと両親の待つ部屋へと向かった。
家族全員で囲んだ夕餉は、母が考えた献立で滋養のあるものばかりだった。おいしいおいしいと宗清が口に運んでいる。
皆が笑い合っているのを見ていると、実津瀬だけが暗い顔をしていられない。小さな子達のちょっとした言葉や行動が可笑しくて、実津瀬はふっと笑みをこぼした。
その様子を見て、ほっとしている人がいることを実津瀬は知っている。
家族と夕餉をとった翌日、実津瀬は宮廷の見習い仕事に行った。上司に数日の休みを詫びると、父から話がいっているようで。
「夏風邪を引いたとか?もう熱は下がったのかね。体調不良は誰でもあることだから、元気になったのならよかった」
と言われた。実津瀬は深々と頭を下げて、自分が任された今日の仕事をするために机に着いた。それから、何人かに「風邪は治ったのか?」と声を掛けられた。実津瀬は曖昧に頷き、突然休んだことを詫びた。
塾にも行くと、本家の稲生と鷹野が優しく迎えてくれた。
「風邪だって?宴の舞の評判は良かったらしいじゃないか。終わったら疲れが出たのか?」
「そのようだ。寝込んでしまってね」
実津瀬は言って、普段通りに講義を受けた。
「実津瀬、これからどうする?」
前に座っていた鷹野が振り向いて言った。
「寝込んでいて、宴が終わってから楽団の方に顔を出していないのだ。だから、稽古場に行こうと思うよ」
「そうかぁ。稲生の結婚の準備が進んでいて、一緒に冷やかしたいと思っていたのだけど。まだ今度だな」
鷹野は言って、席を立った。
実津瀬は通いなれた宮廷の道を通って、稽古場に顔を出した。
「実津瀬!」
一緒に舞った淡路が近寄ってきた。他にも実津瀬に気づいた者たちが集まる。
「どうした?体はもう大丈夫か?」
実津瀬は頷いた。
「夏に風邪を引くなんて、舞った後に気分がよくて裸で寝たのか?」
淡路の言葉に集まった楽団の男たちは笑った。
ここでも、自分は風邪で寝込んだことになっているのだとわかった。
そこに、楽団を束ねる楽長の麻奈見が稽古場に入って来た。
それを合図に、皆は実津瀬を囲む輪を解き、それぞれの持ち場に戻って行った。一人になった実津瀬に、麻奈見が近づいてきた。
「元気そうでよかった」
「はい」
「……傷が治るまでは、後ろで笛を担当して」
と小さな声で言われた。
「……はい」
実津瀬が顔を上げた時には、麻奈見は舞の練習をしている集団の方へと歩いて行った。麻奈見は父の実言とは旧知の仲で、父から本当の話がいっているようだ。傷を負っていることを知らせて、無理をさせないように言ってくれているのだ。
実津瀬はまだ体が本調子ではない、と言って後ろで言われたとおりに笛を吹いた。稽古が終わると、実津瀬は一人宮廷から出るために門に向かって歩いた。長い屋根付きの回廊の途中で立ち止まった。
そこは、雪と待ち合わせをした柱だ。ここから回廊を外れて庭の方へ行くと、椿の木が何本も植わっていて、お互いその陰に座って相手が来るのを待っていた。
いまでも、椿の陰から、人影が現れて。
「実津瀬様!」
と呼びかけられるのではないかと思う。
実津瀬は椿の木に近寄り、誰もいないことを確認した。
雪……そう簡単にあなたを忘れられるわけがないよ……。
あなたがいないことはわかっているのに、気持ちは私たちの思い出の場所にあなたがいるのではないかといつ、期待してしまうよ。
実津瀬は宮廷の門を出ると、すぐに邸には帰らず、雪に会いに行った。雪が残してくれた雪の一部が埋まっているあの場所に。
昨日ここに埋めたというのに、すぐに会いに来てしまった。
しばらく、目印として置いた石の前に手をついて、じっと問答した。掘り返して雪の指を見たい気持ちに駆られるのを我慢した。
実津瀬は涙を拭って、丘を下りて行った。
宴から十日が過ぎた。その間、蓮は景之亮の怪我のことを忘れたことはない。特に左腕の傷は蓮を守るために、相手が振り上げた剣を受けたのだから。
母の指示で一日おきに、景之亮の邸に医者の佐田祢が訪ねて傷の様子を見ているようだから、心配はない。もし、傷が悪化しているようなら、母から何か説明があるはずだ。
蓮は午前中の薬草作りが終わると、自分の部屋に戻って机の前に座った。机の上には途中まで写した薬草の本を置いている。それを開いて、続きを書き進めていると、手元に影が差した。
蓮は顔を上げると、父が蓮の手を見つめていた。
「お父さま!」
「とても集中しているね」
きっと足音を忍ばせて入って来たのだろう。蓮も父がいうように集中していたから、気づかなかった。
実言は蓮の隣に座ると、蓮が書いているものを覗き込んだ。
「ああ、やはり蓮の字は美しい。礼も蓮が書いたものはよくわかると言っているよ。小さなころから筆を持っては手本の真似をしていたものね。私や礼に似なくてよかった。蓮も実津瀬も私たちにはないものを磨いて評価されていることが嬉しいよ」
蓮は恥ずかしそうに下を向いて笑った。
そして、父が自分に用があるのなら、あの事だろうと、ずっと気になっていることを思った。
「蓮、そんな顔しないでよ。私が来たらよからぬことでも起こるのかい」
と蓮が少し身構えたことを察して言った。
「……そんなことは……」
「明日ね……。明日、景之亮をここに呼ぶよ。そして、二人の気持ちを聞こうと思う。だから、蓮は心の整理をして、明日、その答えを教えておくれ、ね」
蓮は言われることは予想していたが、とうとうその日が来るのだと思うと、怖い気持ちになった。
「なあに、お前の心に従えばいいだけさ。私の顔色を窺ったり、景之亮のことを過度に考えたりしてはいけないよ。そんなことを考えても、お前は幸せになれないからね。私の一番の願いは蓮が幸せになることなのだから。ね」
実言は言うと、立ち上がった。
「礼にも明日、景之亮が来ることは言ってある。蓮は何を着るだろうかと言っていたよ。私が去ったら、入れ違いに礼や榧が来るかもしれないね」
実言はそこまで言って自室へと帰って行った。
蓮は再び写本を続けようと机に向かったが、手は動かなかった。続きを書こうと思っても、頭の中は景之亮のこと、明日のことに向かってしまう。
そうしているうちに、簀子縁をこちらに向かって歩いてくる静かな足音が聞こえた。
父が言ったように、入れ替わりで母の礼がやってきたのだとわかった。
蓮は筆を置いた。気持ちを紛らわせるのに、明日何を着るかを母や妹と話す方がいいな。
蓮は立ち上がって、庇の間へと出て行った。
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