New Romantics 第一部あなた 第ニ章8

小説 あなた

 蓮は机の前に座って、束蕗原から届いた薬草の本を開いていたが、ぼんやりと前を見ていた。
 誰のために写本をしたらいいのか。それは、母のためであり、束蕗原の去のためであるのだが、気持ちが入らない。
 蓮は筆を持つ気にならず、膝の上に両手を置いて、開けた格子から外の景色を眺めていた。
 すると、遠くから複数の足音が聞こえた。
 蓮は顔を上げて、背中を向けている庇の間の方に意識を向けた。
 何やら母の声がする。その声に返答しているのは男の声。その声は、とてもよく覚えている……鷹取景之亮のものだ。
 後ろを振り向くと、もう、簀子縁から妻戸を押して、部屋の中に入ってくるところだった。
「蓮!鷹取様をご案内したわよ」
 母が笑顔で庇の間に入って来た。蓮は立ち上がった。
 母の後ろには、鷹取景之亮が困ったような顔をして立っていた。
「お母さま……鷹取様」
 蓮は庇の間に出て二人を出迎えた。
「急に訪れて驚かれたでしょう」
 母の後ろから景之亮が弁解の言葉を述べた。
「いいえ、そんなことはありません。いらっしゃいませ」
 蓮は笑顔で景之亮を迎えた。
「先ほど、旦那様から鷹取様をお引き合わせいただいたの。三人で楽しいお話をしていて、次はあなたと一緒にお話しようと思ってお連れしたわ」
 礼は蓮の前まで来て話した。
 隣の部屋から侍女の曜がやってきて、円座を部屋の真ん中に置いた。
 前に会った時と同じで、身なりをこざっぱりとした衣服に包み、髭を剃っていた。
 礼は置かれた円座に景之亮を座らせた。蓮も母の隣に座って、母と景之亮の会話を聞いている。
「ねえ、蓮、鷹取様は薬草のことに詳しいのよ。熱冷ましの薬湯のことを話していたの。旦那様は全くわからないという顔をしていたわ。この話が分かるのは蓮だから、こちらにお連れしたのよ」
「いや、私は礼様や蓮殿の知識には及びません。よく熱を出すので、熱冷ましの薬湯だけには詳しいのです」
 景之亮は頭をかいた。
「そう?でも、薬草のことを知っていらっしゃるわ。あなたはよく熱を出されるの?」
「ええ、突然熱を出します。薬湯を飲んで一晩眠れば、治りますから、薬湯の作り方だけはやけに詳しくなったのですよ」
「まあ、そうですの。うちは薬草を常備していますから、いつでも持っていきますよ。あんたも、あなたでなくても邸の方が熱を出したならすぐに駆け付けますからおっしゃって」
 母はにこにこと笑って景之亮と話している。
 蓮は隣で二人の話を聞いていた。
 薬草の話をしていたかと思うと、次は弓の射方を話している。この前、弟の宗清の弓を見ていた時のことだ。
 母は楽しそうに右目を大きく見開いたり、目を細めたりしている。景之亮の話に耳を傾けて、質問を投げかけている。
 しばらく話をした後。
「楽しいお話のところですが、そろそろ私はお暇を。これから宮廷へ仕事に」
 景之亮は立ち上がると、蓮と礼も立ち上がった。
 蓮は景之亮とまともに一言も話さないままだった。景之亮を見送る蓮の心はざわついた。簀子縁まで出ると、舎人の忠道がやってきて案内していった。
「楽しい方ね。またお話したいわ」
 一緒に見送った礼は娘を振り返り言った。
「そう言えば、あなた、何も話さなかったわね」
 ふと気づいて、娘に言った。蓮は下を向いて部屋の中に入って行った。
 話さなかったのではなく、話せなかったのだ。
 母と景之亮が口を挟む隙もないほど、よどみなく楽しそうに話しているから相槌さえも打てなかった。
 無口な女と思われたかしら、それともお高く留まって口をきかないと思われたかしら……。
 ああ、こんなのではお父さまが言うように、鷹取様に嫌われてしまうわ。
 そんな考えに至って、蓮ははっとなる。私は、景之亮に好かれたいと思っているのだ。それはどうして。伊緒理とは似ても似つかない容姿に幻滅していたというのに。
 蓮は一旦部屋に引っ込んだが、心が落ち着かなくて再び簀子縁に出てきた。母は自分の部屋に戻ったようで、誰もいない。蓮は沓を持って階を下りた。春の終わりの濃い緑に包まれていく庭を散歩したが、たどり着いたのは実津瀬の部屋の前だった。
「あら、蓮」
 庇の間にいた実津瀬は目ざとく庭に佇む蓮を見つけて、簀子縁に出てきた。
「どうしたの?鷹取様がいらしていたようだけど、お会いした?」
 蓮は首を縦に振ったあと、横に傾げた。
「なに?」
 蓮は階の下で沓を脱いで、一番上まであがると腰かけた。自然と実津瀬もその隣に座った。
「好きでもない人に好かれたい、嫌われたくないと思っているのかしら。お母さまが鷹取様を連れて部屋に来たけど、一言も話せなかったの。そんな私を鷹取様はどう思ったかしらね……。嫌な子と思われたくない自分がいるわ」
「……蓮らしくないね。自分の思うようにしたらいいさ」
「自分の思うようにがわからないから困っているのよ!」
「次に鷹取様と会った時にはよく話をしたらいいよ。私が間に入って少し話したら、二人きりにしようか?よくよくお話できる」
「急に二人きりは嫌よ!」
「どうして?」
「戸惑うわ。うまくお話しできるかわからないもの」
「普段は知らない人とでもよく話しているじゃないの」
「もう!実津瀬は意地悪ね。……人を好きになるって難しいわ。伊緒理のことを思っていた時とは違う……」
 蓮は呟くように言った。
 実津瀬はその言葉を聞き逃さなかった。
 人を好きになるって難しいって、何が難しいのだろうか。
 人を好きになるなんて簡単なこと……でも、好きになる前と好きになった後は悩ましい。蓮は……いや、自分も。
 柔らかな肌に包み込まれ、自分の心をくすぐる甘い言葉の囁きに餓えている自分を抑え込んで、今夜も実津瀬は褥の上に横たわるのだった。

 五月に入って、実津瀬は忙しく働いていた。見習いといっても、役人の端くれとして頼りにされていた。岩城一族の一員であれば、試験を受けることなく階位を受けることができる。これがどれだけ恵まれた境遇であるかを、実津瀬はわかっている。だから、この見習いの期間を神妙な気持ちで勤めている。
 今日も朝から書類の下書きに追われ、書いたものを点検に回し、うまく書けているものはそのまま上にあげられた。
他の官庁に渡す書類は決まった時刻までに定められた箱に入れておけば、配達をする役人が配ってくれることになっているが、その時刻が過ぎて。
「ああ、これを入れておくのを忘れていた!」
 と叫ぶ男がいた。皆は、やれやれという反応である。その男は粗忽者でこのようなことはたまの出来事ではなかった。
 本来なら塾に行っている時間であるが、多忙で宮廷に居続けた実津瀬はそろそろ引けようと思っていたので、その役人に声を掛けた。
「私はもう引けますので、よろしければその書状をお届けしておきましょうか?」
 後ろから掛かった声に男は振り向き、実津瀬の手を握らんばかりに喜んだ。
「すまない。頼んでもよろしいか?民部省の川佐殿に直接渡していただけると、ありがたいのだが…」
「川佐さまですね。承知しました」
 実津瀬は握りつぶさんばかりに握られていた書状を受け取って、懐へと収めた。
「それでは、私は失礼します」
 実津瀬は身の回りを整え終わって中務省の館を出て行った。
 民部省は少し歩かなければならない。実津瀬はその川佐という人物が館にいることを願って、小走りに民部省の館を目指した。館に入って訊ねると、運よく目当ての人物は机に向かって書き物をしていた。事情を話して、懐に入れていた書状を渡すとお礼を言われて、実津瀬の役目は終わった。
 普段は入らない役所の雰囲気に慣れず、実津瀬は館を出て十分離れたところで伸びをした。
 今日は塾にも行かず、役所の仕事ばかりで肩が凝った。民部省から稽古場までは遠くないが舞の練習には行かずに今日は邸に帰ろうと思った。
 実津瀬は、普段来ない館から近くの宮廷を出る門に向かうにはどちらを行けばいいかわからなくなった。回廊に出て、どちらに向かえばいいか、きょろきょろとあたりを見回していると、運よく役人が通りかかったので訊ねた。その役人が指し示した方向に向かって回廊を歩いていると、向かいから女人が歩いてきた。実津瀬はその人が誰であるかすぐにわかった。このまま、歩いて行けば対面することになるがそうなってもいいかと迷う。
 逆に向こうから来る女人は下を向いていて、反対側から人が来ていることに気づいていない。
 実津瀬は自然と歩みを緩めた。このまま歩いて行って、自分は何事もなくすれ違えるのかを考えていた。
 自分から断ち切ったはずなのに、毎夜心に立ち上る女人。その実態を前にして無視できるだろうか。
 俯いて歩いていた女人は顔を上げた。そして、向こうから男がこちらに向かって来ていることがわかった。すると、立ち止まりくるりと背を向けて来た道を走って引き返した。
 その行動を見ると、実津瀬は自然と女人を追いかけていた。
「……雪!……待って!」
 女人……雪は実津瀬が追ってきていることに気づいて、回廊を外れて庭の中に入って行った。実津瀬はたまらず雪の名を呼んだ。
「……待ってくれ」
 そんなすがるような言葉を言った後、実津瀬はどの口が言っているのだろうと思った。
 雪は庭に入って樹々の間を縫うように進むことで追手から逃げようとしたのだが、石や草、落ちている葉や枝に足を取られて思うように進めなかった。まして、裳が走ることを妨げる。実津瀬は体も大きくて歩幅も広く、袴で雪よりも走りやすくその距離はぐんぐん縮まった。
「雪!」
 すぐ後ろで声がして、雪は逃げ切るためになお、前へ前へと走った。実津瀬は袖でも掴めればと手を伸ばした。指先は雪の袖を触っている。雪は必死で逃げるが、それ以上に実津瀬は雪を必ず捉まえる思いで腕を伸ばした。
「いや!」
 雪は大きな声を出して、掴まれた腕を引き寄せられるのを抗った。
「悪かった!」
 雪は腕を振って、実津瀬の手を振り払おうとしたが、掴まれた手首は簡単に放されない。
「雪!すまなかった。私が悪かった」
 実津瀬は嫌がる雪を引き寄せてその体を腕の中に入れた。雪は実津瀬の腕の中から抜け出すために全力でその腕を自分の体から引き離そうとした。雪の爪が実津瀬の腕に食い込みその肌に傷を作ったが、それくらいのことで腕はびくともしない。
「雪!」
「私を遠ざけたのは実津瀬様ではありませんか!なのに、なぜ、今このように私を捉えて放してくださらないのです?酷い人!」
 雪は声を震わせて訴えた。
 実津瀬はさらに腕に力を込めて、背後から雪の体をすっぽりと包むように抱きかかえて言った。
「私が悪かった。私が言ったことは間違いだった。……会わないと言ったものの、今日あなたの姿を見たらどうしようもない衝動に駆られて。あなたに逃げられて追わずにはいられなかった。だから、あなたに嫌がられ罵られても放せない」
 雪は何も言わずに肩を震わせている。それで、実津瀬は泣いているのだと知った。
 静かに泣く雪の体を自分の方に向けて改めて抱き締めた。
「あなたから離れるなんてできることではなかった。私が浅はかだったのだ。許してほしい」
 雪は実津瀬の胸に頬をつけて、小さく肩を震わせた。流れる涙は実津瀬の上着を濡らして沁み込んだ。
 顔を上げた雪はまだ潤む瞳を実津瀬に向けた。実津瀬は少し口元を綻ばせた。
 二人は言葉を交わさずともこの先どうしたいかをわかりあっていた。手を繋いだ二人は、実津瀬の。
「行こう」
 という言葉が合図になり、庭の奥へと歩いて行った。

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