New Romantics 第一部あなた 第ニ章7

小説 あなた

 桜の花びらが枝から離れて岩城実言邸の大きな池に浮かんだ。
 束蕗原から来ている医術見習いの女と蓮は薬草園の隣に建っている小屋で薬草作りをしていた。二人ですり潰す作業をして小屋から出ると、薬草園の裏から宗清の威勢のいい声が聞こえた。実津瀬が舞や笛を得意としている反面、宗清は武術に精を出している。だから、弓の稽古の声が聞こえているのだと合点した。
 蓮は宗清の声が実津瀬の部屋の前の庭からとわかって、渡殿を超えて簀子縁を進み、実津瀬の部屋まで来た。
 階の下には実津瀬が立っていて、その視線の先には宗清が小さな弓を引いていた。
 予想外だったのは、宗清の後ろに鷹取景之亮が立っていたことだった。
 階の一番上に立った蓮に気づいた実津瀬が振り向いた。
「蓮」
 そう呼びかけると、宗清も気づいて、弓を放ったと同時に。
「姉さま」
 と階の下に駆け寄ってきた。
 その後ろには、蓮に気づいた鷹取景之亮がこちらを見ているのがわかった。
「宗清、弓の練習をしていたのね」
「うん、教えてもらっていたのです。あの方に」
 そう言って、宗清は遠くにいる景之亮の方を向いた。
「鷹取様は弓の名手とお父さまから聞いてね、宗清の練習に付き合っていただいていたのだよ。宗清の悪い癖をすぐに指摘された。直す方法を教えていただいてすぐに実践したら大分的に当たるようになった。ね、宗清」
 兄の実津瀬に言われて、宗清は笑顔で頷いた。
「鷹取様の弓の腕は評判通りですね。そして、人に教えるのもうまい」
 実津瀬は少し離れたところにいる景之亮に向かって言った。それが合図のように、景之亮は階の下まで歩いてきた。
「いいえ。武官の役職にある者は誰でもわかっていることですよ。私が特別ということではありません」
 と返して続けた。
「教えたことがうまくできていたから、的の真ん中に当たったよ。まだ、体が小さいうちはこのくらいで練習を終えた方がいい」
 そろそろ弓ばかり撃つのに飽きてきた宗清は頷いた。
「ご指導、ありがとうございました」
 と言って、頭を下げると沓を脱いで階を上がった。宗清を追うように実津瀬も階を上がったので、取り残された蓮と景之亮は階の上と下で見合った。
「やあ、蓮殿。先日は、美しい姿で私にお会いくださったのに、その反対に私はとんだみすぼらしい姿でこちらをお訪ねして、恥ずかしい限りでした」
 と、頭をかいた。
 そう言われて蓮は今日の景之亮の姿をまじまじと見た。
 着ているものは、洗い立てでさっぱりとして仕事の汚れはない。そして、頬の髭はきれいに剃っていた。日焼けの浅黒さだけはどうしても変えようがないが。
「いいえ。父は、鷹取様に何もお知らせせずにうちに来るように言ったとか。悪いのは父ですから、お気になさらないでください」
 それを聞いた景之亮は少しだけ口元をほころばせた。
 蓮は真っすぐにこちらを見ている景之亮の視線に、はっとした。前回の初対面の時は、着飾っていて化粧もしていたが、今日は薬草作りの作業用に汚れていい着古した衣装に、顔はどうなっているだろう。薬草の汁でも頬につけているかもしれない。髪は乾燥させた薬草の粉末を被っているかもしれない。
 蓮は、今日の自分の姿を景之亮がじっくりと見ているような気がして、恥ずかしくなった。着飾らなければ、こんなものである。
「私……今日は普段の姿をお見せしてしまって、この前と違いすぎるので、驚いていらっしゃるかしら……」
「ああ、そんなことはありませんよ。普段のあなたが知れてよかった」
 そう言ったところで、実津瀬が戻って来た。
「鷹取様、父が帰ってきました。部屋にご案内します」
 実津瀬は階を下りて、沓を履き景之亮を庭から父の部屋に案内しようとする。
「では」
 景之亮は短く挨拶をして実津瀬と共に蓮の前から去って行った。 
 景之亮は自分に会いに来たのか、と蓮は思ったが違ったようです。すぐに自分の都合のよい関係になるわけではなかった。今日も父の用事のようだった。
 鷹取様は私をどう思っただろうか……
 自分のことは置いておいて、景之亮の気持ちが気になった。

 実津瀬は部屋で本家から借りてきた書物を広げていた。教育熱心な祖父園栄は異国から書物を取り寄せて、息子や孫たちに読むように勧めている。今日、塾に行った帰りに稲生と一緒に本家により、書物を数本借りてきた。
「まったく、私たちには目の肥やしだよ」
 稲生は大きな声では言えないと、声をひそめて言った。
「鷹野も広げてはみるけど、熱心ではないからね」
 自分も熱心に勉強するほうではないが、家柄だけで知識のない無能と陰で笑われるのも嫌なので、努力はするものだと思っている。
 それに、蓮の結婚相手として紹介された鷹取景之亮は異国の書籍の知識をよく知っていた。初めて会った時に、塾でどのようなことを習っているのかという話になり、実津瀬が話すとすらすらと暗証している異国の詩を読み上げていた。あのように即座に知識を披露できることがうらやましく思った。父は弓や剣の技術もあり、あのように学問もある鷹取のことを高く買っているのだとわかった。
「ところで、宴の準備は進んでいるの?」
 桜の散る頃に、稲生の気に入っている絢という少女たちに藍や蓮も含め同じ年ごろの者たちを集めて本家の庭で十名と少しの人数の小さな宴をしようと計画をしていた。
「まあ、進んでいるよ」
 と口にはしたが、そんな段取りをするのが得意ではない稲生は自分の世話役の舎人、弦雄(つるお)に全部を押し付けてやらせていると察した。
 立派な岩城本家の庭を見られることを皆が楽しみにしているらしいから、もう中止はないのだ。
「そう、進んでいるのならよかった。では、私は帰るよ」
 そして、実津瀬は邸に帰ってきて、自分の部屋で借りた巻物を広げたところだった。
 蓮の結婚相手の出現、稲生が計画している小さな宴と日々刺激がある。だから、あの心の痛みは表面には出てこない。
 雪と別れるという選択は、自分にどのような心の変化を起こすだろうかと思っていたが、意外にも波風は立たなかった。凪のような穏やかな心で、雪のことを考えない毎日を送っている。
 でも、舞の稽古場に行くときは体が緊張している。その途中で雪に会ったらどのような態度を取ればいいのかわからないからだ。実津瀬は稽古場から門までの行き帰りに心がきゅうと締め付けられるのを、胸を押さえて何度行き来したことか。しかし、雪に会うことはなかった。
 本家から巻物を借りた日から五日後、かねてから計画していた稲生と絢の密会を助ける宴が催された。
 招待された者は岩城本家の美しい庭が見られると喜んでいるが、本家の鷹野、藍、実言家の実津瀬、蓮はこの会の目的を重々承知していた。
 邸の主人である稲生達の父、蔦高が最初だけ顔を出した。その後は、集まった者たちで庇の間や簀子縁に敷物を引いた上に集まって座りおしゃべりをして、珍しい食材の食事をつまんだ。
 男子は塾での顔見知りであり、女子はその姉や妹である。皆、どこかで見たことのある者たちだった。知らない相手には、知った者がその仲を橋渡しする形で輪の中に引き入れて、身近な話やこの庭の美しさを口にし、たわいもない話に花を咲かせた。
 稲生は最初、今日招いた者たちの中心の輪の中に入って、皆の話を沸かせたり心を和ませたりと主催者として立ち振る舞った。実津瀬や蓮、鷹野も同じで、皆が楽しんでいるか、目を配った。そして、小さな藍を守った。
 この場では一番年下の十三の藍は、年に似つかわしくないほど美しく大人びた容姿の少女だ。一人にしていたら、男子が手を取ってどこかに連れて行こうとしてしまう。なので、いつも傍に岩城家の者がついていた。
 王宮での有馬王子との懇談の後、内々に誰が印象に残ったか、また会ってみたい者はいたかを有馬王子にお尋ねした話を漏れ聞いたところによると、一言も話さなかった藍とまた会ってみたいとおっしゃったとか。それを聞いて、藍の将来は決まったようなものだった。言葉を発さずとも、王子の印象に残りまた会いたいと言わしめたのは、やはりその容姿であろう。一目で印象に残る容姿を持って、なお心根の優しい子であれば、有馬王子の妃になった後も途切れることのない愛情を勝ち取れると想像できた。
 人と会って、様々な知識を持っておくことも将来、大王の妃になるための勉強と思ってこの場に出したのだが、その美貌に隙があればものにしようと寄ってくる輩がいるのも困りものだった。
 当の藍はまだ、自分の生まれ持った美貌に自覚がないようで、すっと自分の隣に座った男の横に、すぐに鷹野や実津瀬が座って話し掛け、蓮が藍の手を握って他の女子たちの輪に連れて行くのを不思議に思っていた。
 そんな中で女だけで輪になって話しているところに、蓮に話しかける男がいる。蓮も笑顔で訊かれたことに答えている。笑った時に細まる目、びっくりして大きく見開いた丸い目、ころころと変わる表情は可愛らしく、蓮も男たちに注目されているのだと、実津瀬は藍の隣で妹の様子を窺った。
 主催者として立ちまわっていた岩城家の者たちを隠れ蓑に、稲生は絢を連れて庭の奥へと消えて行った。
 稲生がいないことに気づいた実津瀬は、うまくやっているだろうかと思った。少しの間、絢と二人きりでいさせてやろう、と実津瀬は簀子縁に出ると、高欄に腰かけて懐から笛を取り出した。
「実津瀬、吹いてくれるの?」
 庭に下りていた蓮が庭の花を観ていた者たちを階の近くに呼び寄せた。
「兄の笛を聴いて。とても良い音色で、心地いいの」
 蓮は嬉しそうに実津瀬に笑顔を向けて、さあ吹けと言っている。
 弟妹達に聴かせるのとはわけが違うと、少しばかり緊張して唇を舐めた後、実津瀬は笛から音を発した。
 美しい音色に皆がうっとりと聴き入っていたら、急に扇情的な音色に変更して皆の心を掻き立てた。曲が終わって笛から唇を離すと、皆がその演奏と技術に拍手を送った。
 実津瀬は嬉しさと恥ずかしさで頭をかいた。
「実津瀬、素晴らしいよ」
 そういった賛辞を贈られて、他の曲も聴かせてくれと求められた。
 実津瀬は言われるがまま笛を吹いて、皆の耳と心を潤わせた。
 蓮は兄の演奏が褒められることを自分のことのように鼻が高くなる気持ちだった。もっともっと音色を旋律を聴かせてくれと求められることに応える兄に、妹ながら嬉しい。
 蓮は誰よりも激しく手を叩き、兄に賛辞を送った。
 実津瀬の笛と庭の花、珍しい食材による食事に皆が満足している時に、稲生と絢は庭の隅に戻っていた。
高欄に腰かけていた実津瀬は二人の姿を見て、二人きりの時間を持たせてやれたと思った。
二人は手を握り合って立っていた。一度固く結び合った指は離しがたくどちらからも離せずにここまで戻って来たようだった。
 実津瀬の視線に気づいた稲生はその時になって慌てて絢の手を離した。絢も手を離さないといけないと気づいて稲生が離した手をもう一つの手で握った。そして絢はゆっくりと女子たちの輪の中に入って行った。皆が再び庭の花を眺めたり、追加で出てきた食事を摂るために別れて小さな輪を作っているところに、高欄から立ち上がった実津瀬の隣に稲生が立った。稲生はぐるりと庭を回って別の階から邸の中に入ってきたのだ。
「いい音色だったね」
 となんだか照れたような笑顔で言ってきた。
 先ほど、絢と手を繋いでいた姿を見られたことに少しばかり照れているのだと実津瀬は思った。
「聞いてくれていたんだ。……満足そうな顔だな。その様子では絢との仲を深められたのだろうな」
 それまでの絢と二人きりの逢瀬で上気したのを残し、目尻の下がった稲生の顔をにやにやと笑って言った。
 稲生は言葉にはできず、深く頷いて笑った。
 それから日が傾くと共に、その宴もお開きになった。出席者は三々五々に家路についた。最後まで残った絢に稲生は寂しそうな視線を送り二人は見つめ合って身内以外に人がいないことをいいことに再び手を握り合った。
 実津瀬、蓮、鷹野は二人を残して部屋の中に入った。藍は既に邸の奥に引っ込んで休んでいる。
「では、私たちも帰るよ」
 実津瀬は鷹野に言って蓮と共に本家の門を出た。
 実津瀬は蓮と肩を並べて邸に戻る道すがら、今日の宴のことを話した。
「本当に藍はきれいな子。日に日に美しさが増している気がする」
「ああ、そうだね。もう、邸の外には出せないよ。もう、伯父上の気持ちは決まっている。有馬王子のお妃に推すだろう」
「そうね、今日来た男の人は藍のことを忘れられないかもしれないわね。もう二度と見ることができないかもしれないもの」
「蓮も人気だったじゃないか。川島永礼(ながれ)や賀川楢由(ならゆ)は蓮のことを見ていたよ。何度も話し掛けられただろう。あれは、蓮のことが気になっていたからだ」
 そう言われて、蓮は悪い気はしない。少し照れ笑いをした。
「そう言う実津瀬も私と一緒にいた女の子たちから、実津瀬には決まった人はいるのか、好きな人はいるのかと訊かれたわ。私はどう答えたらよかったかしら。実津瀬、好きな人いるの?」
 単刀直入に尋ねてくる蓮に実津瀬は何と答えたものか考えた。実津瀬は雪とのことを誰にも言っていないし、そんな素振りも見せていない。きっと誰も気づいていないだろう。初めての恋をして、溺れ、そして終わらせた。だから、今決まった人はいないし、好きな人もいない。それが答えだと蓮に言った方がいいだろうか。
「私は……色恋には疎くてね」
「あら、本当?なんだか、様子が変な時があったから、実津瀬は恋煩いをしているのかと思った」
 蓮の言葉に実津瀬は内心驚いたが、極めて平静を装った。
「それは蓮の深読みさ。色恋には未熟なんだよ」
 蓮はそれ以上のことは言わず、笑っている。
 実津瀬はそれ以降蓮の追求がなかったため、歩きながら自分の心の内に向き合うことができた。
 ああ、雪……、今頃どうしているだろう。もう、私のことなど忘れてしまっただろうか。自分から別れを切り出したというのに、未練たらしいことを考えてしまう。
 実津瀬は東の山の上のあがった月を見つめた。蓮は黙って空を見上げる実津瀬の横顔をこっそりと盗み見ていた。

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