礼は少ないが花をつけた薔薇の庭の中に一人立っていた。
どんよりとした重苦しい雲が立ち込めて今にも雨が降ってきそうなこの日は、誰も庭には出てこない。
この庭は宮廷の端にあるため、周りを高い築地塀に囲まれている。築地塀には屋根を設えていて、回廊になっており、万が一雨が降っても回廊へと逃げていけばよかった。
礼は美しい衣装、しかし、色や織りの派手さを抑えたものに身を包み、心細い表情でその人を待った。
この庭に通じる入口は三つあった。礼は庭師や下男たち使用人が出入りする入口から入る許可をもらった。他に後宮に近い方に入口があり、低い垣があって他の庭園と自由に行き来できるようになっている。もう一つは非常用に、築地塀の途中に扉があるが普段は開かずの扉である。
礼は後宮に近い入口に時折目をやって、その姿が現れるのを待った。
昨日、礼は詠妃の依頼に応じるか考えた。春日王子という人との関わりをお互いに葬り去る約束をしたい。いや、詠妃が封印したいのだ。都では春日王子に関係する者たちの粛清がまだ続いていた。その波は大王の妃といえども例外ではないと、不安になる気持ちはわかる。それを、同じ女として、礼は何か助けられたらと思う。だから今、ここに来ることにしたのだった。
随分と待って、本当に詠妃はやってくるのだろうかと不安になった頃、後宮側の垣に人影が差した。
垣の扉を開ける人は詠妃その人だった。供を一人も付けず、手紙に書かれていた通り二人で話すために、自分一人で現れたのだ。
美しい衣装を身に纏い何変わらぬ姿ではあるが、こちらに向かってくる顔は頭上の空と同じで曇っている。
「約束通りに一人で来てくれたのね」
庭の真ん中に立っていた礼の前に詠は立って言った。
「はい、詠様」
「よく来てくれたわね。嬉しいわ」
詠妃は言った時に、少しばかり口の端を上げて笑顔になった。
「無駄な話をしてもしょうがないわね」
詠妃は礼の前で両手を合わせているその右手を取って握った。
「お前は私を恨んでいるかしら?……私は悪気があったわけではないわ。あの方に言われるがままよ。私には強い後ろ盾がいないのよ。だから私ができることは何でもやったわ。あの方の機嫌を取ることも、私は後宮で生きていくためには必要と思っていたのよ。……お前は私があの方との間に入って引き合わせたことを、恨んでいないかしら。そうであるならこの場で謝るわ。それが心にずっと引っかかっていたことなのよ。申し訳ないことをしたわ」
そう言って、詠妃は握っている礼の手の甲に額をつけるほどに頭を下げたのだった。
礼は心の中で驚いていた。
詠妃は一人で弁解めいたことを途切れもせず話していたが、言ってみれば、詠妃は礼が自分を恨んでいないかを心配しているのだ。
確かに、礼は詠妃の手引きによって春日王子の元に行き、そこで春日王子から凌辱されそうになった。凌辱されなかった代わりに、実言は生きて帰れないことを見越して北方の戦に行かされたのだった。
戦で実言は大きな怪我を負って瀕死の状態になり、礼はそれを助けるために産後の体で長い旅をして実言を探し出し看護して助けたのだった。
詠妃が話すその頃はちょうど妊娠が判明して、実言の出征や出産と自分の体と心が大変な時であり、実言との時間や子供のことに頭が一杯で、詠妃への恨みなど今の今まで思い出すこともなかった。
「詠様、私はそのようなこと……考えてもみませんでした。……今の都は悲しいことばかりです。争いごとなどもう嫌ですわ。詠様にしても、大王をお支えされている大変な身。もう、昔のことはお忘れください。私は忘れました」
と言った。
すると、詠は少しばかり額を上げて、礼の顔を上目遣いに見た。そのような角度からの詠妃も、長いまつげがくるりと反り返って、そのすっきりとした目をより美しく縁取っている。礼はそれに一瞬見惚れていたら、詠は悦びで笑顔になった顔を上げた。
その時、空から大きな雨粒が落ちてきて、詠妃の頬を打った。礼にもその雨粒は降りかかり、二人は自然と手を繋いだまま、庭を廻る屋根のある回廊へと避難した。
「急なことで驚きました。……詠様、濡れていらっしゃる」
急な天候の悪化に礼は驚き、その気持ちを言葉にして詠妃を見た。大粒の雨が粒のまま詠妃の背子の肩に載っているのを見て、礼は手をやってその雨粒を払おうとした。
手を上げようとしたら、重くて途中までしか上がらない。それは、詠妃が礼の手を握ったまま放さないからだった。
「詠様、肩に雨粒が……落としませんと、お召し物に沁み込んでしまいます」
礼は言うと、詠妃は雨に打たれる薔薇の植わっている庭へと向けていた視線を礼へと向けた。
「……詠様?」
礼は詠妃の怒れる、怖いと感じる視線にぶつかって、思わずその名を呼んだ。
詠妃は何も答えず、握った礼の手を引っ張る。
「詠様、何を!」
手を強く引かれて、礼は思わず声を上げた。
「来い!」
詠は鋭く言って礼の手を引いたまま、背を向けて後宮側の入り口に向かって進もうとした。
「嫌です」
礼は抗おうとしたが、詠妃の力は思った以上に強く、引っ張られるままに体が前に進むのでせめて声だけでも抵抗した。
「詠様!……私は昔のことは忘れました。誰にも口外致しません。どうか、私を子供の待つ我が邸に帰してください」
「うるさい!私の言うことを聞け!」
「嫌です!嫌!私は誓ったはずです。詠様と春日王子のことは忘れると!」
礼はたまらず言い放った。
「黙れ!黙れ!勇(ゆう)矢(や)!」
詠妃は礼を威圧するように大声を上げて、掴んでいるその手を引っ張った。そして、最後に人の名のような言葉を発した。礼は、詠妃が何を考えているのかわからなくて、恐怖した。
その時である。
「お待ちください!」
礼の背後で声が上がった。敏感にその声に反応した詠妃が、顔を上げたのを礼は見上げた。
「お前!嘘を言ったな!」
詠妃はすぐに礼を見、その唾が降りかかるほどの勢いで言った。礼は背後から発せられた声の主が誰かはわかっているが、その姿を確認するために振り返った。
そこには実言がいた。隣には知らない男がいて、後ろに兵士らしき男四人が二列になって、回廊をこちらに向かって進んでくるのだった。
「礼!お前、一人で来いと言っただろうに!私を裏切ったな!」
そこには清楚な美しい妃とは思えぬ憤怒の形相で、礼を睨みつける詠妃がいた。
その間にも実言と他の五人の男たちは礼の背後まで詰め寄って来ていた。
「詠様!この場はどう言うことでしょうか?」
ちょうど礼の後ろに立った実言は詠妃に問いかけた。
「……女の密談である。お前たちこそ、このようなところに勝手に入って来て、無礼ではないか!」
「これは!こちらは、警備の一環でございます。突然悲鳴が聞こえて、後宮に近いこの庭で何か起こったのかと、駆けつけたところ。そうすれば、詠様が今手を握っている女から、詠様と春日王子の名が発せられました」
実言は礼の両肩に手を置いて、詠妃と対峙する格好となった。詠妃は横を向いて、視線を外した。
「私には関係のないこと。この女が一人、口走った妄言であろうよ」
「そうでしょうか?詠様は春日王子と親密な関係が噂されています。周りの侍女達に聞けば真実か明らかになるでしょう」
詠妃は顔を上げて、実言を睨んだ。
「詠様、私の隣にいるのは、弾正台の少弼である川原殿です。この方も聞いておられました。このことは、すぐに弾正台の長官に報告していただきます」
詠妃は、警備で見回っていたと話すこの男が、ちょうどよい具合に弾正台の役人と一緒にいるなどと信じることはできなかった。もう、礼との密会の内容を予想してつけ狙っていたということを悟った。やはり、礼とその夫は筒抜けであったか。
礼という女は、心に訴えて同情を引けば、こちらの思うように詠妃を憐れに思って一人で来ると考えた。それに賭けたわけだが、その当てが外れたということだ。
詠妃はそれでも、礼の掴んだ手を離さずその場の状況を窺った。
「衛士たちを後宮へと手配してくれ」
弾正台の役人、川原は落ち着いた声で、後ろにいる一人の男に向かって言った。
その時、実言が思いついたように言った。
「葛城王子を探してくれ。すぐに警護をつけるように手配を」
息子の葛城王子の名前が出ると、詠妃は敏感に反応した。
「葛城は関係ないであろう!」
「いいえ、春日王子と詠妃様の親密の意味合いを考えれば、葛城王子は無関係とは言えません。嫌疑がある間は警護をつけておかなければなりません」
警護とは聞こえが良いが、どこへにも行かせない、幽閉のような措置と考えられる。
「岩城!お前!」
詠妃は声を荒げたが、実言はそのような声など聴こえないような、涼しそうな顔をしている。
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