実言と哀羅王子が飛び出していった後、礼は邸の者たちの手当てをしていた。門を飛び出して矢面に立った兵士たち、弓矢隊として弓を射った者たちが相手の弓で負傷してしまった。門を勢いよく閉めるのに、転んで擦り傷を負ったり、膝や腕を打った者たち。そのような者たちを順にみて回った。
「礼様、どうぞ車の用意ができましたので、邸にお戻りになる準備を始めてくださいまし」
と促されても礼は手当を受けていない者がいないと確認できるまで見て回った。それが終わると、すぐに車を停めている部屋に向かった。
小さな車が停まっている。人一人が乗れる小さな車だ。供に従者二人がついた。
「世話をかけるわね。よろしく」
礼は素早く乗って、ゆっくりと車は出発した。
夫たちは無事に王宮にたどり着いただろうか。
実言は礼に多くを説明しなかったが、今夜にも戦が起こるようなことを言っていたから、早く邸に戻って子供達に会わないと。月の宴から会っていないのだから、もう何日会っていないことか。あの可愛らしい顔と顔が思い切り怖い顔になって、自分たちを長らく放っておいたことを責め立ててくる。礼は申し訳ない気持ちになって、胸が締め付けられた。早くあの子たちに会いたい。
夏の夜。
じとっととする蒸し暑さに人は外に出て涼みたいところを、今夜は戸を全て閉じてしまって、人の声はもちろん、動物のなく声も聞こえない。
今夜、権力闘争の高まりの末に、力がぶつかり合って爆発するのではないかと都中が恐怖しそれをその目にしてしまっては災いが降りかかってくるとでも思っているのだ。
むんむんとした暑気が都の空を覆っていて、礼はその熱に汗がにじんだ。
この熱気に何かが起こらないはずはないという気持ちになり、早く邸に帰り、実言の言うように門を固く閉ざし子供達を抱いて邸を守り、この夜をやり過ごさなくては、と思う。
礼は小さな窓から外を見た。
すると、窓から礼が進んでいる方向に一台の車が停まっている。
こんな夜に外出とは、よっぽどの用事があるのだろう。早く目的の邸に着けばいいが。
礼の車がその車に並んだ。粗末なつくりの一人乗りの車。どうも車輪の調子が悪く、立ち往生をしているようだ。供の二人の男がどうにか車輪を直そうと、跪いて手を動かしている。
早く直ればいいが、と礼は窓から目を離し、前を向いた。
その時。
「どうだい?直りそうなの?」
と、車の中から女人の声が車輪を直すのに苦心してる男に問いかけた。男たちはその言葉に返事をしているが、礼には遠い言葉に聞こえた。それは、車の中にいる女人の声に気持ちが囚われてしまったからだ。
「ちょっと止まっておくれ」
礼は角を曲がったところで車を停めさせた。
「奥様?どうされました?」
供の男たちは車の入り口のおろした御簾の前で尋ねた。礼はすぐには答えず、すれ違った車から聞こえた女人の声を何度も思い返していた。
あの声は……。
「さっきすれ違った車はどうなった。ちょっと角を曲がって見てきておくれ」
男たちは目を見合わせたが、「お願い」という女主人の言葉に従わざるを得なく一人が走って角を見に行った。
戻ってきた男が礼に報告した。
「車輪は直ったようです。ゆっくりと進んでおりました」
男の報告に、礼は頷いて。
「……あの車を追って頂戴」
と言った。男たちは御簾越しに聞こえてくる礼の言葉に戸惑った。
「すまない。あの車に乗った人は知り合いでね。こんな夜に出歩いてはいけないと教えてあげたいの。できれば邸に連れて行きたいから。お願いよ」
と言って懇願した。
男たちは女主人に反論することもできず、車の向きを黙って変えた。
「すまないわね」
礼は御簾を手で少し上げて感謝の気持ちを込めて言った。そして、胸の上に手を当てた。先ほどまでは実津瀬と蓮という自分の命に代えても惜しくない我が子が心を占めていたというのに、その人の声を聴いたら、それまでのことが吹っ飛んでしまった。
ああ、あの声は……。
朔……朔だ。
礼はそう確信すると激しく動揺した。なぜ、朔がこんな夜に外出しているのだろう。
宮廷に勤める男たちは今夜がどんな日になるか、予想しているだろうに。荒益はこのことを知っているのだろうか。
男たちは車の向きを変えて、女主人が追えと言った車を遠くに見ながらゆっくりと車を進めた。
礼は都のどこに誰の邸があるかよくわからなかった。朔の車が進んでいるこの道を行くと誰の邸にたどり着くのか見当もつかない。
前を行く車は一目を避けて大きな邸の前を通らず、細い道を選んで進んでいるように見える。礼の従者たちはどこに行くのかも分からず心細く思いながらそれを追った。
朔は誰に会いに行くのだろうか。こんな夜更けに出歩くなんて、それとも荒益の指示なのか。そんなこと荒益がさせるはずはない。……礼には朔が行く場所が全く思いつかない。
真っすぐ進んでいた車が不意に停まった。考え込んでいた朔は顔を上げる。
「どうしたの?」
小さな声で外に声をかけると、従者は車の入り口すぐ下に駆け寄ってきて跪いた。
「どうも、追っていた車は佐保藁のお邸に入って行きました」
礼にはその言葉が何を指しているかわからなかった。
「佐保藁って……」
礼が聞き返すと。
「春日王子のお邸でございます」
と男は返事した。
「……」
礼は驚いて押し黙った。
よりによってなぜ、春日王子の邸に朔は入っていたのだろうか。礼はいくら考えてもわからなかった。
「その……佐保藁のお邸から見えないところに車を停めておくれ。入って行ったのなら出てくるまで待ちたい」
従者が息を呑んだのが、礼にはわかった。
「すまない。お願いよ」
車の中にいる女主人の顔は見えないが、その必死な声に従者も否とは遠回しにも言えず、春日王子の裏門近くにあった空き地の草の中に車を隠して待った。
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