Infinity 第三部 Waiting All Night80

小説 Waiting All Night

 差し出された椀の中には、ほんの少しの粥が入っているが、哀羅王子はそれを全部食べ切るのに苦労していた。礼は粥の汁だけでもすすってもらおうと思うが、哀羅王子は口を閉じて顔を背ける。
 礼は、後ろにいた侍女に井戸の水で冷やしていた梨をむいて、哀羅王子の前に出すように言った。細かく切った梨の実を匙ですくって、侍女が哀羅王子の口の中に入れる。ほのかな甘みと水分に、哀羅王子も口元に運ばれる匙を黙々と口の中に入れた。
 しかし、用意した梨半分を全部食べることはなかった。
「ああ、もう一杯食べた」
 礼は無理強いすることはしないで、哀羅王子が食べられないと言ったところで、梨の皿を下げた。次に、哀羅王子は差し出された椀を見て子供のように困った顔を向けたが、礼は容赦せず、哀羅王子に飲むよう声をかけた。
「王子様、そのお薬は必ず飲んでいただかなくてはなりません。どれほど、嫌だと言われても、飲み干すまでは横になっていただけませんわ」
 礼の強い口調に、哀羅王子は顔をしかめたが、思い切って煮だした薬湯の入った椀に口をつけ、喉を上げて飲み干した。すかさず、水の入った椀を差し出され、口の中を洗うように水を飲み込んだ。
「これでいいか!もう横になりたい」
 礼の指示など聞かずに、哀羅王子はすぐさま横になった。礼は微笑んで、哀羅王子が横になるのを手伝った。椀の中には、いつもの睡眠を誘う薬を溶け込ましてあるから、今から王子は否が応でも眠ることになる。体力の回復のためにも余計な動きはしないで、夜まで寝てもらうということだった。
 哀羅王子は目を瞑るとすぐに寝息が聞こえてきた。礼は左腕の傷の具合を見て、薬を塗り、清潔な布を巻いて王子の寝顔をしばらく見つめた。
 まだ顔色は悪い。体だって、哀羅王子は何も言わないが、やっと上半身を起こしていられるほどだろう。
 実言はそんな人を両脇から挟んで引っ立てって連れて行く気なのだ。我が夫ながら、鬼のような所業と思う。仕方ないとわかっていても、心のどこかで納得がいっていない。
 ゆっくりとした静かな足音が近づいてくる。その音を聞いて、舎人と侍女は立ち上がった。礼もそれが誰だか気づいて、背筋を伸ばして座りなおした。
「王子のご様子は?」
 実言は一人で入ってきた。
「先ほど眠られたばかりです」
 礼の夫に応える声は少し低くなった。抑揚のない声に、実言は妻が今夜哀羅王子にさせることを本当に許せないと思っていると分かった。
 舎人と侍女は哀羅王子の褥の周りの水差しや粥や梨を入れた椀、匙などを膳に上げて下がって行った。
 実言は王子を挟んで反対側に座った。
「粥は食べられたかい」
 礼は、少し頭を右に傾けた。その姿を見ると、実言はそれほど食べてはおられないとわかった。
「でも、梨はよく召し上がられました。薬湯も我慢して飲んでいただきました。しかし、もう少し召し上がっていただかないと、体がついていきませんわ」
 実言は二度ほど頷いて、哀羅王子の顔に視線を落とした。
 馬に乗って、矢の中をかいくぐり、傷を負って、熱を出し苦しんでと、その苦難が顔に色濃く出ている。青白く、げっそりと頬がやつれている。
「あの薬を王子にあげたの?よく眠れる……」
 実言が言っている薬とは、飲むと催眠を誘う飲み薬のことだ。礼は痛みがひどくて現と夢の中を行ったり来たりするような状態のときに、患者に飲ませている。実言自身も、戦場での怪我を礼に手当てされたときに、その薬を飲まされて、長い時間ぐっすり眠れて体力が回復したのだった。
 礼は実言がどの薬のことを言っているのかすぐに理解して、頷いた。
「飲んでいただいたわ」
「あれは、よく眠れるからね」
 実言も頷いて、哀羅王子の足元に体を移動させた。礼は不思議そうに実言の様子を見ていると、実言は衾の中に手を入れた。礼は実言が何をしているのかすぐにはわからなかったが、その動きから哀羅王子のふくらはぎをもんでいるのだと気づいた。
「次に目覚めたら王子の体に大変な負担をかけてしまう。少しでも体が楽になるようにと思ってね」
 礼は目を見張って実言を見た。
「王子は王宮に行けばいいだけではない。王子の将来のためにも強い体と心を持ってもらわなければならない」
 実言はそう言って、一心に哀羅王子の足をもむ。礼も同じように衾の中に手を入れて、細い哀羅王子のふくらはぎを掴んでもんだ。
 実言は怖いほどに真剣な目を向けているのに、ふっと礼と目を見合わせて、まなじりを下げて笑った。
 礼もほっとして微笑んだ。夫の横顔は、いつもの冷静な表情のままだが、結い上げている髪が崩れて、髪の束が一筋、もう一筋と下りてきて、ここ数日の疲れが色濃く出ていた。
 それでも、献身的に哀羅王子の体に寄り添っている姿は、ただ哀羅王子の位を守ることだけでなく、その体や心を思いやっている夫の思いがにじみ出ている気がした。
 誰よりも、心を痛めているのはこの男かもしれない、と思うと落ちた髪の束をそっと触ってから、その頬に掌を当てて労わってあげたかった。
 実言は、礼から視線を再び哀羅王子の足に戻して、一心不乱にもんだ。

 哀羅王子の瞼が細かく動いて、薄っすらと目を開けたとき、ぼんやりと二人の人の顔が見えた。
 実言と礼は哀羅王子の目覚めの様子を覗き込んで見守った。
 我慢しきれず、礼が声をかけた。
「哀羅王子様!」
 少し高い声が哀羅王子の名を呼んだ。
 哀羅王子は、名を呼ばれた方に顔を向けた。
「お目覚めですか?」
 女の労わりの色濃い声音に誘われるようにぼんやりと見つめた。
「お水をお飲みになりますか」
 そう問われて、今の自分の状況を思い出した。
 ああ、腕に矢傷を負って寝ているんだった。
 哀羅王子は頷いて、体を起こそうとした。
「急に起き上がってはいけません。ゆっくりと、体を起こして。私がお手伝いします」
 反対側から男の声がした。そちらにゆっくりと顔を向けると、実言の顔が見えた。
 哀羅王子は頷いて、実言の腕に身を任せながら起き上がった。
「……ふう」
 起き上がった哀羅王子は、ゆっくりと実言の支えが弱くなって自分で体を支えるのに溜息をついた。
「ああ、随分と体が楽になった」
 礼が背中から哀羅王子に上着を掛けた時に言った。
「哀羅様、よくお眠りになれたようですね」
「ああ、気がついたら眠りに落ちていた。良い薬を飲ませてくれたんだろう。起きたら、気分もすっきりした」
 礼は傍で水差しから椀に水を注いで、哀羅王子に差し出した。哀羅王子は受け取ると、一口含んだ。
「顔色は大変良くなられました。私は安心しております」
「そうか?……良い医者のお陰かな」
 と哀羅王子は心なしか礼の方へ頭を傾けて、微笑まれた。
 目尻の下がった笑顔の哀羅王子を見て、礼は内心驚いた。とても優しい、美しい表情であったからだ。礼にとって、今までの哀羅王子は人懐っこそうに話しかけてこられても腹の中には、相手を貶めようとする思いがにじみ出ていて恐怖を感じた。目の奥は憎しみで爛々と光っていた。これほどにほっと安らぐような笑みをする人とは思わなかった。実言がどのようなことがあろうとも信じていた人の本来の姿を少し見ることができた。
「……食事をお上がりになりますか?」
 実言が訊いた。
「そうだな……少し腹も空いてきた。もらおうか。体力を付けなくてはいけないだろう。実言にどこまでも引っ張って行ってもらわなければならないのに、ついて行けないとなってはいけないからな」
 哀羅王子は、自分の弱さを冗談にして笑った。実言もつられたように笑ったが、目は真剣で、礼に視線を送った。礼はその視線を受け取って黙って立ち上がり、隣の部屋の侍女に食事の用意を命じに行ったのだった。

 月の出ている今夜を、実言は嫌がった。
「雲があるね」
 実言は哀羅王子の食事を礼に任せて、別室で舎人たち今夜の実行部隊と話をしていた。
「ええ、いずれ月を隠すと思われます」
 風を読んだように一人の舎人は言った。
「そうだな。少し月が隠れるのを待つか。王子の支度もあるし」
 実言は簀子縁から空を見上げて独り言のように言った。
 礼は哀羅王子の前に粥を掬った匙を差し出した。王子の腕を動かさないように、礼が掬って食べさせているのだ。
「ああ、食事など何を食べても同じものと思っていたが、この粥は腹の中に染みわたるような気がする。これほど、旨いと感じるものは、久しぶりだ」
「単なるお粥でございます」
「そうだな。だけど、旨いよ」
「そうであれば、もう少しお召し上がりください」
「……では、もう一口だけもらおうか。食べ終わったら、あの苦い薬を飲まされるだろう。その前に、もう少し旨いものを食べたい」
 子供がいやいやをするように哀羅王子は悲しそうな顔をした。
「でも、熟れた果物を用意しておりますわ。薬湯をお飲みいただいたら、甘いものをいただいてもらいます」
「ああ、そんな引換条件を言うのかい。どんなものがもらえるのかな。そうであればあの苦いものを飲むのも我慢しなくちゃいけないかな」
 礼は笑って別の椀に少しだけよそった粥を匙で掬った。先ほどよりも塩気を利かせた粥だった。哀羅王子は口元に差し出された匙をじっと見て食べようとしなかった。
「王子?……どうなさいました?」
 礼は急に静かになった哀羅王子を心配した。先ほどまでよく食べていた人が、急に食欲がなくなったのか。哀羅王子は礼が持つ匙から視線を礼に移した。
 礼が微笑んで、匙を心なしあげた。「どうぞ」と無言で言った。小さく開けた哀羅王子の口に礼は匙を差し込んだ。王子が匙の中の粥を吸うようにして喉の奥に流し込むのを見守った。こっくりと喉を通すとともに、口から匙を離した。礼は、粥を食べる哀羅王子に安心して前よりも喜色の濃い笑顔を見せた。哀羅王子もつられるように笑った。
 礼はもう一口と匙にすくって哀羅王子の口の中に匙を入れた。何の断りもなく口の中に匙を突っ込まれた形だが、哀羅王子は嫌な気持ちはなかった。逆に礼に甘えているような自分の態度に、内心笑ってしまった。
 自分の運命を切り開くのだと、殺伐とした生活に身を置くことを忍従していても、ふと身の回りの世話を焼いてもらうと、言い知れぬ心地よさを感じる。腕を動かしてはいけないと言われて、粥を口に入れてもらったが悪くはなった。自分の世話をしてくれる者がいることが、孤独ではないと思えて心に沁みた。
 女人の柔らかな雰囲気に包まれるのは、とても心が安らいだ。我が血筋の再興だけを思っていたが、もし今夜それが叶うなら、このような雰囲気に包まれて安らぐ日々を望んでもいいだろうか。
「王子、お待ちかねのお薬でございますわ。どうぞ、召し上がってください」
 礼が言うと、哀羅王子はあからさまに悲しそうな顔をした。礼はその演技がかった表情に自然と笑みがこぼれた。
 苦虫を噛み潰した顔を向けられても、礼は冷ました薬湯を遠慮なく哀羅王子の前に差し出した。
 哀羅王子も逃れられないものと思って、椀を受け取り一気に飲み干した。嫌なものを引き伸ばすのは好きではなかった。
「まあ、王子の心意気を感じますわ」
 礼は後ろに控える侍女におどけて言った。侍女もおかしそうに笑いながら頷いた。哀羅王子は苦しそうな表情をしたが回りの女人たちが笑うので、最後には自分も笑った。
「ああ、口直しがあると言っていたじゃないか。早く出しておくれよ。こんなつらい目に遭わせて、みんなで笑っているなんてひどいじゃないか」
 そんな哀羅王子の言葉に、なおおかしくてみんな小さな笑い声を漏らした。礼は後ろを振り返って侍女に合図した。井戸の水で冷やしていた桃を切って出した。
「ああ、美味しい」
 串にさして口に入れてもらった哀羅王子は、その桃の甘さを堪能した。
「口直しにちょうど良いな。我慢してあの苦い薬湯を飲んでよかった」
 哀羅王子はもう一切れ食べたいと言った。
 そこに、足音をたてずに実言が現れた。
「王子、お食事中でしたか」
 礼の手から桃を口に入れて、哀羅王子はその実をゆっくりと咀嚼して味わった。
 実言は礼とは反対側の褥の脇に座った。
「よく召し上がられたようですね。改めてご気分はいかがですか?」
「ああ、気分はいいよ。気持ちも高まってきた」
「いいことです。しかし、今夜は月がありますので、もう少し様子を見ようと思います。まだしばらくお休みになってください」
 哀羅王子は頷いて、礼と侍女に手伝ってもらって横になった。

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