朔は落ち着かない心で、部屋の真ん中に座っている。いつもはそんなことをしないのに、じっと自分の指を見ている。
落ち着かないのは……だって、今から実言がここに来るんだもの。
先ほどまで朔の住まう邸で婚約の儀を執り行っていた。そして、今から朔の部屋に実言がやってくるのだ。
朔が子供の頃から夢見ていた実言の妻になることがとうとう叶ったということである。
朔は息を吸うこともできずにいると、階を軽快に上がってくる音が聞こえた。
「朔!」
几帳の間から部屋の真ん中に座っている朔を見るとそう呼びかけたのは礼である。
婚約の儀の末席に参列していた礼は帰る前に朔に会いに来たのだ。
「礼!」
朔は一人の時間に堪えられなくて、礼の呼びかけに立ち上がって階の前の庇の間に出てきた。
「どうしたの?」
「私は帰ります。今日の朔はいつにもまして綺麗。もう前みたいに会えないのが寂しいわ」
と言った。
「会おうと思えばいつでも会えるわ。……実言は家にずっといなくちゃいけないなんて言ったりしないわ」
「そう、でも前みたいには会えない。……ごめんなさい。愚痴のようなことばかり言って。あ!」
礼はそう言って、母屋を繋ぐ渡殿の方へ視線をやった。朔にもその音が聞こえた。母屋からこちらに向かってくる足音。
多分、実言である。
「では、朔、またね」
礼は翻って庭を突っ切って走り去っていった。
礼は簀子縁から去っていく礼の背中を眺めていると、本当に渡殿から簀子縁を歩いて朔のいる庭に面した簀子縁に実言が現れた。
「朔」
実言は朔を見咎めると、明るい声を出した。
「どうしたの?」
実言は朔の傍に立って、一緒に朔が見ていた方を眺めた。
「いいえ、少しばかり庭を眺めていただけ」
「長く待たせてしまったね。退屈させてしまったかな」
そう言うと、朔を部屋の中に誘った。
気づいたら、実言の後ろにいた岩城の従者も、部屋の中にいた朔の侍女もいなくなっている。
朔は実言と二人きりであることに、先ほどの婚約の儀以上に緊張した。
「疲れてはいないかい?私は身軽なものだけど、女人はいろいろと身に着ける物が多いようだから」
朔はいつにもまして布を重ねた豪華な衣装に、耳飾り、腕輪、指輪、そして実言から贈られた首飾りを着けている。
そんな朔を気遣う実言の言葉を聞いて、朔は嬉しさが込み上げてくる。
朔は大丈夫よ、と意思表示するために首を横に振ろうとしたが、その前にその頭は実言の胸に抱かれていた。
「待たせたね……」
実言は囁くように言って、朔の体を部屋の奥に引きずり込んだ。
朔にとっては実言との密着はそれはそれは恥ずかしくもあるが、嬉しくもあった。実言に体を委ねて、暗闇の中に連れていかれる。
「……実言」
部屋の奥は陽の光が遮られて薄暗い。
部屋の真ん中に座ると実言は小さな声で自分の名前を呼ぶ朔を見下ろした。不安そうな瞳が外からの日の光を映し光っている。
実言は朔の頤に親指を掛けようとすると、朔は抗うように下を向いた。そして、顔を右に背ける。実言の指は朔の顔を追った。
朔はなぜ逃げているのだろうと、自答した。こうして実言の腕の中にいて、実言に触れてもらうことが夢見てきたことだというのに。晴れて現実になろうとしているのに。
朔はしっかりと追ってきた実言の指にその細い顎を捕らわれた。
実言は朔が下を向いたままだが動く気配がないことがわかって、そっと丸めた指先を頬に触れさせて様子を見た。数度軽く触れた指先は大胆になって頬全体を覆って、中指が朔の耳の後ろをくすぐった。親指が朔のしっとりとした肌を撫ぜた。
「朔……綺麗だ……」
それは、朔を罠にかける合図のようだった。
そんな言葉を実言からもらったことはなかった朔は、顔を上げて実言を見た。
朔の顔が上がったところで、朔の頬にかかっていた指には力がこもり、反対の頬も実言の反対の手によって掴まれた。
あ、と思った時には、朔の唇は実言のそれに吸われていた。
実言の素早い動きは、上を向いた朔の両頬を捕らえて引き寄せると、桃色の花が咲いているような唇を奪った。
その時間はどれくらい経過しただろうと思うほどにたっぷりとした長さに感じだ。ゆっくりと実言の唇が離れていくのを今度は朔が追っていきそうになった。
朔は逸る心を静めるために目を瞑ったままでいると、くすりと実言が笑った気がした。自分がおかしな顔をしているのかと思って、慌てて目を開けたら、すぐそこに実言の顔があって、再び吸われた。
次は短くて、実言が離れたらすぐに朔は目を開けた。
「可愛らしかったから」
と実言は笑った理由を呟いて朔を胸に抱いた。朔は実言の胸に頬を押し付けて、幸せに浸った。
自分の初恋は成就したのだ。
これから、この人の妻になり、今まで以上にこの人を思う。そして、その愛を一身に受けるのだと信じた。
日を重ねるほどに、実言の情愛の表現は濃く深くなり、いつ、契っていいと心積もりはできていた。
そう、あの日……櫓に上がって新嘗祭の前の外国の使節団の行列を見ていた、あの日まで。愛する妹に奪われることになるなんて、露ほども思わなかったことだった。
終
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