Infinity 第二部 wildflower5

牡丹 小説 wildflower

 礼は同時期に実言から碧妃とそして耳丸に引き合わされた。
碧妃とは体調管理を仰せつかっているということではあるが女同士の日常の話が楽しくて、地位の違いはあるものの心が通じるものがあった。
 逆に、耳丸とは相容れないものがあった。
 耳丸は実言に気安く話しかける。乳兄弟として乳飲み子の頃から近くで過ごしてきたので、二人きりの時は主従の間柄は厳格なものではないようだ。そこに礼が実言の妻として加わったが、耳丸は実言との関係を変えない。実言と二人きりの時は呼び捨てにして、いろいろと意見している。実言が許しているのだから、それでいいのだろうと思った。しかし、礼の前でも耳丸は実言との昔からの親密さを見せつけるように呼び捨で呼んでいる。
 耳丸は主に実言の従者として働いているが、礼が碧妃のところに赴く時には車について警護することもある。その時は寡黙に仕事に従い、いち使用人として有能に働いている。
 実言がもう一度自分の側に仕えてほしいと思って連れてきた相手なのだから、礼も信頼しているが、耳丸から送られる視線には、険があり気になった。
 ある日、礼は縫や屋敷の下女たちと庭で干した薬草を倉に収める作業をしていた。重いものがあるわけでもないので、女たちだけで行ったり来たりしながら箱を運んでいた。
 礼はむしろに広げた薬草を集めて箱に入れる作業をし、縫と下女は二人で箱を持ち上げて倉へと持っていくところだった。
「耳丸!見ているのなら、手伝いなさいよ」
 庭の樹に寄りかかってこの作業をみている耳丸に縫が声をかけた。耳丸はその声に反応するわけでもなく、縫たちが自分の前を、箱を持って通り過ぎていくのを眺めている。
 確かに、見ているのなら、手伝ってもらいたいところだが、礼は何も言わない。
 耳丸は縫たちが倉の中へと入っていくと、もたれかかっていた樹から身を起こし、礼に近づいた。礼はむしろの上に大きな足が目に入り、耳丸が手伝う気になってくれたのかと膝をついて作業していた顔を上に向けた。
「まるで、婢のようだ」
 耳丸は右の口の端を歪めるように釣り上げて、吐き捨てるよう言った。
 礼は見下ろされてぶつけられた言葉の意味がわからず、少しぽかんとしていた。
「俺は、あんたが嫌いだ。実言の相手として認めない」
 次に言われた言葉にも、礼は何か言い返すこともなく、耳丸を見上げていた。
「実言は騙されているのだ。あんたは親にでも言い含められて、命懸けて実言の気を引こうとしたのだろう。それが矢に射られることだ。実言の同情を買い、まんまと妻の座を手に入れたのだ。そんなあんたを認めない。ここではあんたはその医術のおかげで認められているようだが、俺は騙されない。実言には家柄、容姿全てを欠かくことなく備えた相手を得られたはずなのに、あんたの捨て身の行動に嵌められてしまった。俺は、実言の目を覚まさせてやる。それをあんたに告げておくよ」
 耳丸はそう言い放って、踵を返して庭を出て行った。そこへ縫たちが倉から戻ってきた。膝立ちになったまま、固まったように動かない礼に、縫は声をかけた。
「……縫、私は部屋に戻るから、すまないけど、ここを片付けておいてくれない」
「はい。それは、やっておきますけども、礼様、気分でも悪いので?」
「大丈夫よ。……でも、少し横になりたいの。……一人で行けるわ」
 傍に寄って支えようとする縫を言葉で押しとどめて、礼は立ち上がった。
「後はお願いね」
 縫は離れの部屋の階に向かってふらふらと歩いていく礼の後ろ姿を見送った。
 礼は、離れの階の下までたどり着き、ゆっくりと上がった。部屋の中では澪が片付けをしていた。
「礼様、どうされたのですか?」
 ひどく辛そうに体が前かがみになって部屋に入ってきた礼に澪は近づいてきた。
「ああ、大丈夫。少し部屋でゆっくりしたいから、一人にしておいて」
 礼は部屋の中に入って肘掛けに寄りかかった。澪は心配顔で礼を見つめたが、それ以上は聞かず片付けも途中で部屋を出て行った。
 耳丸の言った言葉が耳から離れない。実言の許婚になって、朔との間には埋められない溝ができたが、それ以外のことではすんなりと物事が過ぎていった。もしかしたら、実言の許婚になったことを陰では何か言われていたかもしれない。しかしそのような言葉が礼の耳に届くことはなく、今日まで過ごしてきた。
 あのようにはっきりとした悪意の言葉を言われたのは初めてで、礼の体は雷に貫かれた気持ちだ。心をえぐられた思いだ。
実言に相応しくない。
 確かに実言の本当の相手は、朔だった。家柄も良く、美しく、傷一つない全てを兼ね備えているといえる。朔に比べたら、礼が劣ることは間違いない。
 実言に守られて今まで過ごしてきたが、やはり耳丸と同じように礼が実言の妻の地位にいることを快く思わない人はいるのだろう。
 そう思うと、胸が苦しくなってくる。やはり、自分には大それことだったのかもしれない。岩城家の一員になり、薬の知識で人に求められ認められていると思っていても、耳丸のように思っている者はいるだろう。
 突きつけられた現実に、目がくらむ思いで、礼は肘掛けに支えられながら数刻を過ごした。
「礼、どうしたのだい?」
 気づいた時には、実言は部屋の中に入ってきて、礼を見ていた。
 急いで肘掛けから体を起こしたが、実言は肘掛けに突っ伏していた礼に近づいてきた。
「皆が心配しているよ。気分でも悪いかい?」
 実言が信頼している耳丸の言葉で、自分の居場所の不相応に気持ちが沈んでいるなんて言えるわけもなく、礼は言いよどみながらも答える。
「なんだか、疲れが出てしまったようで、少し横になっていたかっただけなのよ。縫たちがあなたに何を言ったのかしら」
 礼は微笑んだが、実言の手が伸びてきて、礼の顔を捉えてじっと見つめる。
 礼は右目で実言をじっと見返すと、実言は少し笑って、礼を抱き寄せた。
「このところ私の頼みを聞いてくれて忙しくしているから、疲れが出たかな?」
 礼は実言の腕の中に身を任せた。己の体を包み込むその腕の中のなんと心地よいことか。
 今では、不相応な自分であることは承知でも、この手を放すことはできないと思うのだ。
「実言」
 礼が胸の中から顔を上げて名を呼ぶと、実言はその瞳を覗き込んだ。
「……」
 礼は何も言わずに、再び実言の胸の上に顔を伏せた。実言は礼を抱いたまま後ろに倒れて寝転んだ。
「今日はずっと私の腕の中で横になっていればいい」
 と囁いた。

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