Infinity 第二部 wildflower44

小説 wildflower

 夜明けに、耳丸が目を覚ますと、すでに礼は体を起こしていた。
「よく眠れたのか?」
 耳丸が聞いた。礼は頷いて。
「耳丸は?」
 と聞き返した。
 耳丸もよく眠れた。どの道を行くべきか悩んでいたが、睡眠をとったことで頭の中はすっきりしている。
 礼は水筒を逆さにして飲んでいるが、滴ってくるものはないようだ。木の生い茂った森の蒸し暑い中を歩いてきて、喉が渇いている。一刻も早く飲み水の確保を急ぎたかった。
「行こうか」
 耳丸は礼を促した。礼が頷いて立ち上がると、二人は荷物を担いで、シダの茂みの中に分け入り、緩やかな山肌を下って行った。しばらくシダの中を歩いて行くと、下に道が見えた。
「礼、道だ」
 先を行く耳丸が後ろを振り向いた。足元を見ながら歩いていた礼は、顔を上げた。人が歩いて作ったであろう土のむき出しになっている一本の筋が見えた。やっと、本来の道に戻ったのだ。しばらく行くと、下に川のせせらぎが聞こえてきた。
 礼の前を歩いていた耳丸は後ろを振り返った。あの音が聞こえるか、ということだ。礼もほっとした顔をして、二人は川岸を滑り降りていった。
 初夏の川は水量が減って、川幅の真ん中を水が流れていた。そこまで、二人は大小の石が転がる乾いた岸を歩いて、水のほとりまで行った。
 礼は膝をついて体の態勢を保って、身を乗りだした。山から下りてきた水は冷たく、両手を浸けて汗と土にまみれた手を洗い流した。
 耳丸は顔ごと川の中に浸けて、しばらくして顔を上げると盛大に顔を振って雫を飛ばすのだった。実に気持ちよさそうで、礼は微笑した。礼も真似るように体にこもった熱を逃がすために自分の顔を川面に浸けた。眼帯のことや、装束のことなどにかまっていられなかった。それほど体は、限界に近づいていたのだと感じた。その後で、水を両手で掬うと喉を鳴らすほどの勢いで飲み干した。冷たい水は喉を刺激して、渇きの深さを思い知らされた。
 耳丸も存分に清水で喉を潤すと、人心地ついて辺りを見回した。礼は手ぬぐいを出して、首筋を拭っている。耳丸は川岸を川上に少しばかり上った。すると、素焼きの食器の欠けらが石の間に引っかかっているのを見つけた。食器がここにあるということは、川上に食器を使う人がいるということだ。絶対にこの先に、目指す集落があるのだ。
 若田城で、その集落への道のりの中で一度、川を渡ると言っていた。どこで渡るかは若田城の者たちも分かっていなかったが、渡るならここで渡ってしまった方がいいのかもしれない。この先、夷にいつ出くわすかもしれないという恐怖を抱きながら歩くより、道はなくてもこの浅い川を渡り、集落を目指す方がいいのではないか。
 耳丸はそう考えた。
「礼。俺の判断に従うか?」
 水筒に水を入れ終えた礼に、耳丸は問いかけた。
「もちろん。昨夜言った通りよ」
 その言葉に、耳丸は自信を持つのだった。
「川を渡ろう。ここは浅瀬だ。渡れば夷との遭遇はないはずだ」
 先に耳丸が大きな石を選んで進み、その後を礼が追った。小さな石を足場に選んだときは、耳丸が後ろを向き礼に手を貸して支えながら、川を渡った。
 反対側に渡ると、道らしい道はない。目の前には背の低い藪が見えるだけだ。耳丸が先に立って、腰ほどの茂みの中をかき分けて足元に危険がないか確認して進んだ。中には棘のある樹が自生していて、礼に注意を促した。
 耳丸は所々で、持っていた手ぬぐいを裂いて、樹の枝にくくりつけながら歩いた。
 夷といつ出くわすかわからない、という極度の緊張に縛られないのはありがたい。対岸の道から警戒に歩く夷に見られないように、休憩のために川岸に下りる以外は、できるだけ藪の中を歩いた。
 二回ほど川岸に下りて休憩した。暑さが増してきて、水を汲むのに忙しかった。本当にこの先を行けば目指す集落はあるのかと、不安を感じることもあるが、礼は何も言わず、耳丸の後ろを歩いてくる。この暑さと肉体の疲労が顔に現れているが、耳丸の案内に不安を覚えているような顔つきはない。それが耳丸にとっては救いだった。
「はあ」
 耳丸は大きなため息をついた。行けども行けども、藪の中だ。自分の判断が揺らぐ葛藤からも、体の外に一度息を吐かなければならなかった。
 礼は立ち止まって水筒から水を飲んでいる。
 耳丸は苛立ちのため息がまた出そうになったときに。
「耳丸……」
 礼は、視線を遠くに向けて耳丸を呼んだ。
 耳丸も礼の視線を辿る。耳丸は川岸ばかり見て歩いていたが、今、礼が示すのは藪の先の山側を見ている。藪の向こうに背の高い樹が横に立ち並んでおり、その向こうに透けて見える景色は、水田と粗末な掘建て小屋だった。
 それは、探し求めていた集落の一端の風景のはずだ。
 そうと確信して、耳丸は駆け出していた。礼も後に続いた。藪の中の棘を持った枝に引っかかる痛さなど気にならなかった。集落を目隠しするように立っている背の高い樹の幹まで来ると、幹に手をついてその先の風景を見た。
 耳丸は踊り出しそうな思いだ。そこには手入れされた水田と、畑、そして遠く向こうに集落の姿が見えたからだ。
 礼も棘のある枝に苦戦しながら耳丸に追いついて、幹の影からその景色を見た。
「礼。着いたぞ」
 耳丸は力強く言った。
 水田に降りるには石積みした垣を下りなくてはならなかった。耳丸は石垣の隙間に足を置いてゆっくりと下りて行った。礼が大事な薬箱を耳丸に渡して、同じようにゆっくりと石垣を下りた。
 礼と耳丸はお互いの喜色に溢れた顔を見やって、さらに喜びが高まった。じんわりと目を潤ませる礼を耳丸は見守るのだった。
「行こう。これからが本番だ」
 礼は大きく頷いて、首巻きを整えた。
 水田のほとりの道を遠く回るようにして歩き、だんだんと民家に近づいていく。人影は見えず、二人は順調に民家へと進んでいた。
 突然のことだった。耳丸の足元に槍が刺さった。
 耳丸はすんでのところで後ろに飛びすさってかわし、後ろを歩く礼とぶつかった。そのまま、礼を背中に庇って、辺りを見回した。
 第二の攻撃はない。耳丸はしばらくじっとしている。礼も耳丸の背中の中で、息を止めた。
「お前たちは何者だ。何の用があってこの村に来た」
 野太い声が鋭く言った。夷たちの言葉とは違い、耳丸たちにもはっきりとわかった。それが、やはりここは大王の支配下にある者たちの住む土地だと感じさせた。
「私たちは旅の者だ。あなたたちに危害を加えるわけではない」
 耳丸は叫んで答えた。そして無意識に両手を挙げていた。
 耳丸の無抵抗の動作に、声の主とその他の村人たちは、水田を囲む垣の陰から立ち上がった。壮年の男が四人、その後ろに老年に差し掛かった者と、まだ少年の域を出たばかりと思われる男たちが五人ほど列をなして現れた。
「後ろにおられる方はお医者だ。私たちはほうぼうを旅しながら、病人を診ているのだ」
 耳丸は声を張り上げて言った。どれほどの説得力があるかわからないが、この村のどこかにいるにちがいない実言にたどり着くためには、こういうしかないと思ったのだった。
 突然の闖入者から村を守るために立ち上がった九名の男たちは顔を見合わせた。声の主である先頭の男は耳丸たちから視線を外すことなく、槍を構えたまま耳丸を見ている。
 会話は訛りもあって、耳丸は半分くらいしか理解できなかった。
 先頭の男が、槍を持つ反対の手を挙げると、男たちは口々に自分の意見を言い合うのをやめた。
「ここは、旅をしてくるには遠い場所だ。目指して来なければたどり着けないはずだが」
 後ろの男たちは槍や鎌など、それぞれがとりどりの武器を持って構えている。息の抜けない間合いだが、耳丸は男の言葉にそれもそうだな、と納得して笑ってしまった。不敵にも、怯んだようにも見える笑みに、男たちは気色ばみ武器を持ち直す。
「いかにも、私たちはこの村を目指して来た。その村にいる怪我人を助けるためだ。私の後ろにいる方は本物の医者だ。偽りの身分ではない」
「後ろの者を前に出せ」
 大きな耳丸の後ろに隠れて見えない得体の知れない者を見せろと指示した。
 耳丸は横に動き、後ろにいる礼の姿をさらした。
 頭巾をかぶり、左目に眼帯をして、首に布を二重に巻き、汚れた袍と袴姿の小柄な人物が現れた。
 村の男たちは一斉に礼に視線を注いだ。
「この方は喉が悪いのだ。言葉を発せられないため、私が代わりに答える」
 多くの男たちの不躾な視線に晒されるのは、礼にとっては初めてのことだった。しかし、今の自分はそんなことに驚いたり、怯んだりしている場合ではない。
 左目の眼帯が、男たちのざわめきを呼んだ。顔は汗や土で汚れて、色の白さやつるりとした肌は消えているので、女性らしさが目につくことはなかった。
 男たちはそれぞれの思いを口々に発している。手を挙げて制し、先頭の男は言った。
「どこから来た?」
「若田城だ。ここから、若田城を目指した者がいただろう。その者が若田城にたどり着いたのだ。それで、まずは我々が遣わされたのだ」
 男たちの顔色は変わったように見えた。先頭の男は黙る一団の不自然さを隠すように大きな声を出した。
「お前たちをすぐに信用するわけにはいかない」
 男は後ろを振り向き指示をしている。若い男たちが四人前に出てきて、耳丸と礼に近づいた。
「こちらがいいというまで大人しくしていてもらう。連れて行け」
 四人の男たちは、礼と耳丸の左右につくと腕を取られて歩かされた。
「瀬矢様」
 耳丸は後ろを歩く礼に顔を振り向けた。下を向いていた礼は顔を上げた。
「心配はいりません」
 耳丸に声をかけられて、礼は放心した状態から我に返った。
 小屋の前で二人は後ろ手に縛られた。体の大きな耳丸は上半身に何重にも縄を掛けられた。そして、小屋の中に投げ入れられる。二人が持っていた荷物も一緒に入れられたが、薬の入った箱も同じように投げられそうになるのを見て、礼は血相を変えた。口が開いて今にも声が出そうになった。
「待ってくれ」
 耳丸が叫んだ。
「その箱は、医者にとって大切な薬が入ったものなんだ。この方が命と同じほどに大切にされているのだ。この村のどこかにいる怪我人たちを助けるために必要なものだ。どうか、粗略には扱わないでくれ」
 礼は飛び出しそうになった言葉を飲み込むように口をつぐんだ。耳丸の懇願の声が鋭くて、若い男は薬箱をゆっくりと地面に置いて出て行った。男たちが皆出ると最後に外から扉に横木を差した。
 二人が入れられたのは、かつて牛馬の小屋だったもののようだ。広い小屋の中で礼と耳丸は隅に座った。四方のうち三方は板で囲われているが、一面だけは板を入れておらず、外から中を見えるようにしている。横木を差し終えた村の男たちは壁のない面に来てその前で捉えた闖入者たちを眺めている。
 捕らわれた二人が何もできないとわかっているから、安心して好奇なものを見るようにじろじろと不躾な視線を向けた。耳丸は礼を隠すように奥へと座らせ直し、自身はその前に胡坐をかいて座った。不意に首を横に向けて礼に話しかけた。
「どこかにいるさ。男たちは顔色を変えたからな。実言たちをどこかに隠しているのだ。必ず俺たちを連れて行ってくれる。それまで辛抱だ」
 礼はじっと耳丸の背中を見つめて聞いていた。

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