耳丸は男について、回廊を歩き築地塀をくり抜いた門を通り抜ける。これで官衙(官庁)を出て、その裏に続くその他の施設や役人たちの居住地に入った。横に立ち並ぶ建物は、下っ端役人たちの執務部屋や、食堂、倉庫だ。何棟かの建物を通り過ぎて、目的の建物までくると、その路地へと入って行った。建物の中へ入ると、そこには粗末な衣服の男が机の前に座って書物をしていた。
「若見」
男は、部屋の中に居る男をそう呼んだ。若見は、顔をあげる。
耳丸と男は、部屋の中に進んで、土間を上がり、机を並べてある板間へと上がった。
「何でしょう。その方は?」
若見は、座ったまま男を見上げている。男が若見の前に座ると、その動きに合わせて視線を落とした。男の後ろに控えて座る耳丸を男越しに鋭く見つめている。
「この人は我が主人に仕える人なのだ。主人の密命を受けて都からこの地に今しがた着いたということだ。それで、今夜の泊まる場所などの手配をお前に頼む」
「はい。しかし、今は余っている部屋はないですよ。次の戦に備えて人を集めていますから、どこも満杯です」
「そうか。では、お前の部屋はどうか。一人だろう」
そう言われて、男は少し躊躇したが、しぶしぶと思われないように表情を整えて。
「ええ、そちらの方がよければ」
「もう一人、連れがおります」
耳丸は、忘れてはならない礼のことを言った。
「そうだった。都から医者を連れていらっしゃったのだった」
「二人ですか?」
男は少し声を裏返すように荒げて言った。しかし、断ることはゆるされないこととわかっていて、それ以上には何も言わなかった。
「では、よろしく頼む。後で、若見のところに伺うので、そこで詳しいことをお話ししましょう。若見、今日はもういいから、この人をお前の部屋に案内して差し上げろ」
男は、耳丸と若見をそれぞれ見ながら伝えると、部屋を出て行った。
残された耳丸と若見という男は、しばらくの間その場の気まずさに耐えた。そのうち我慢しきれなくなって、耳丸が口を開いた。
「私は、耳丸と申します」
「耳丸さん……」
若見は耳丸の名を口にして確かめた。
耳丸は若見という男を推し量った。その風体は、自分より少し年が上のような、二十五、六歳の、さほど背は高くないが、がっちりとした体躯の濃い顔の男である。東国から徴用されてきた人物と思われた。
「連れの医師を市の店先で待たせているので、迎えに行ってきていいでしょうか。だいぶ待たせており、心配をしていると思うので」
「ああ、いいですよ。でも、道に迷ってはいけないので、私も一緒に行きましょう。高峰様にも今日はいいといわれたので、これで帰ります。少しお待ち下さい」
若見は机の上に広げていた書物をたたんだ。筆を箱に収めて、箱の蓋を閉じる。道具は共同で使うので、この場に置いておくようだ。書物を包んで、背にくくりつけると立ち上がった。用意はできたということだ。
二人はついさっき会ったばかりのために、ぎこちなく、どのような距離で歩けば良いのかわからない。
「市まで案内しましょう」
市の方向がわからず、戸惑いの表情を見て取ったのか若見は、そう言って歩き出した。
「お願いします」
と耳丸は男の後を追った。
市に着くまで二人の男はたいした会話をすることなく、連れ立って歩いた。体の大きな耳丸を従えて歩く若見はその状況に戸惑いを覚えているようだ。市に着くと、若見は耳丸を仰ぎ見た。
「どこの店かな?」
馬を繋ぎやすいように、端の店を選んだのですぐにわかる。耳丸は連なる店の前を歩いて端まで行き、馬を繋いでいる店を見つけた。
「あそこでございます」
耳丸は礼のことが心配で、心なしか早歩きになって店先に着いた。
客はおらず、店の主人がなにやら奥に座っている礼に向かって話しかけているのを礼は微笑して頷いている。
「礼」
思わず、そう呼びかけたあと、瀬矢という医者として呼びかけないといけないことに気づいた。
礼もその声に振り向き、安堵した表情を浮かべたが、耳丸が一人でないことに気づいて、表情を少し硬くした。
「瀬矢様。お待たせしました。行きましょう」
耳丸は再び店の主人の手の中に渡した。北の最果ての地でも、通用する都の硬貨である。
礼は自分が言葉を発しない人物であることをきちんと自覚して、視線や頷きだけで気持ちを表した。店の奥に座っていた礼を見た若見は無意識に感想を声にしていた。
「女みたいだ……」
耳丸はその声を聞いて、内心慌てた。こんな最果ての地では都から来た女は、身の危険が高いと思って男装束にさせたが、その線の細さや衣装では隠せない顔を見ると、女であることを隠せないのかもしれない。
「瀬矢様。この方の所で、今夜はお世話になることになりました」
耳丸は奥から出てきた礼に言った。やはり、着ている着物は男のものでも、姿は小柄で女のようにしか見えないかもしれない。
礼は頷いて、若見の方を見た。
若見は店の奥にいた小柄な人物が立って自分の前に出てくるのをまじまじと見ている。隻眼であることがこの時わかったようで、少し驚いて体をのけぞらせた。
礼は頭を垂れた。よろしく、という思いのようだ。
「この方は、怪我で言葉が発せないが、こちらが話していることはわかるので。何かあれば、私が話しますから」
耳丸は礼の事情を話したが、若見は聞いているのかいないのかわからない様子だった。
「どうかあなたの部屋にお連れください」
馬を連れて、礼と耳丸は若見の後について行った。
若見は時折、ちらっと後ろの二人を振り返った。遅れずついてきているか確認するためだった。
しかし、小柄な瀬矢という医師と、その人を連れてきた耳丸という体の大きな岩城家の家来の不自然な二人に、釈然としないものがあった。たおやかな雰囲気を醸し出す瀬矢という人は、女のように見えるし、体の大きな荒々しい風貌の耳丸はまるで都から瀬矢という恋人をつれて北の地に逃げてきたように見える。邪推すれば、同性の愛を成就させるために、逃げてきたようだ。
時間は陽が西に傾き、山の後ろに沈もうとしている。
「馬はこちらに」
礼と耳丸は厩に案内されて、馬を繋いだ。それから、横に長い建物が列をなして建っている中を歩いて、そのうちの一つへと連れて行かれた。
「私の部屋はここです」
部屋の入り口に立てている板を外して、二人を入れた。
地面より一段高くして床を張っただけの部屋。筵が部屋の隅にたたんであるのと、服や持ち物を入れている函があるのみだ。一人には少し広いが三人では狭いといった広さだった。
「さあ、どうぞ」
若見は、気軽な調子で二人に中に入るように促した。
耳丸は先に礼を入れて、自分が続いた。礼を奥の隅に座らせて、荷物を置いた。
「食事をお持ちしましょう。食堂がありますが、お二人は目立ちすぎます。岩城の者とわかると気色ばむ輩もいるでしょう。実言様が行方知らずになって、今ここでは岩城の者は劣勢で、肩身の狭い思いをしていますので」
不意に若見は実言の消息を言ったので、耳丸は礼を見た。礼は疲れているのか下を向いているが、実言の名に耳はそばだっただろう。
「馬に、水をやりたいので案内していただけないだろうか」
耳丸は外に出て行く若見に声をかけた。
「瀬矢様はゆっくりとお休みください。すぐに戻ってきますから」
不安そうに見上げる礼にそう言い置いて、耳丸は若見とともに部屋を出た。途中、馬に水や餌をやるやり方を教えてもらって、若見と別れた。
一人部屋にいる礼は、少しは不安であろうが、少しの間誰もいない部屋でくつろげたらいいと思った。耳丸と二人きりの時は男装束でも、女のように振舞っていいし、話もできるが、ここにきては女らしさを出してはいけないし、声も出してはいけない状態なので、今までにない疲れが出ているだろう。泊まる部屋も二人であれば、少しはくつろげるが、若見がいてはそうもいかない。
耳丸は馬の世話に思いの外時間をとってしまった。すでに若見が部屋に戻っているかもしれない。耳丸は慌てて若見の部屋に戻った。
若見は台所に行って、食事をくれと頼んだ。料理人は夫婦と、他に二人の男が官衙に勤める役人たちの食事をまとめて世話をしている。今日は粥、青菜、豆、わかめの汁といった献立だ。二人分を盆の上に乗せて、部屋に戻った。
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