Infinity 第二部 wildflower38

山の中 小説 wildflower

 馬が逃げるという事件が起こったが、それも無事に戻ってきた。二人はその馬に乗って北へとひた走った。
 礼は勝手に木を下りてしまい、実言を本当に怒らせてしまったと反省の気持ちを込めて礼は静かに耳丸の後ろをついて行った。口少なで、休憩や食事も無言が続いた。
 耳丸はその時の怒りをまだ引きずっていた。礼がいなくなったその時にどれほどの不安や恐れを感じたかを考えれば、礼の態度はもっともと思い、腹立ちは収まらない。
 本当に、礼の行動は貴族の妻にあるまじきものだと思う。耳丸はやはり、この女を好きになれない。でも、旅の道中でこの険悪な雰囲気のまま過ごすのもいたたまれず、居心地の悪さだけは取り除きたいと思った。
 今夜の野宿の場所を決めた耳丸は唐突に礼に向かって言った。
「俺が水を汲んでくるから」
 礼は、馬から下ろした荷物をどこに置こうかと思案していたるところだった。
「ついでに川に仕掛けもしてくる」
 ぶっきらぼうに言って、礼が使っている竹筒を出すことを要求するように手を出した。礼はあっけにとられているが、自分の腰に垂らしている竹筒を耳丸に手渡した。
「気をつけて」
 礼の言葉に背中を向けて耳丸は無言で、小川に続く緩やかな坂を下っていった。
 あまりにもそっけない態度ではあるが、礼が木からおりて消えた時の一件を耳丸が許そうとしてくれていることはわかった。
 陽が西に落ちるころ、耳丸は火を起こし、夕餉の支度を始めた。
「小川には魚がたくさんいたから、きっと掛かっていると思う。様子を見てくる」
 礼は頷いて耳丸を見送った。
 礼は集めておいた焚火のための小枝の束をゆっくりと火の中にまとめて投げ入れた。そのため、一時的に火が大きくなって枝が爆ぜるぱちぱちという音が高鳴った。
 その時、遠くで山犬が鳴く声がした。
 礼は遠くで鳴いていると思って聞いた。すると、わりと近くからそれに呼応するように別の山犬の遠吠えがした。
 近い、と思い、礼は驚いた。
 ここまでの道のりで、山犬の遠吠えは何度か聞いている。いつも遠くで鳴いているし、呼応する鳴き声も遠くからだった。
 耳丸は野盗と獣に注意を払っていることを礼も分かっていた。今まで出くわすこともなく、ここまで来られたが、今の山犬の遠吠えが思ったより近くだった。
 礼は身を固くして、耳丸が戻ってくるのを待った。しばらくしてすぐに、耳丸が静かに、しかし、急いで来たのだろう、息を弾ませていた。
 手には、川での仕掛けに掛かっていた魚を3匹、串に刺して持っていた。
「聞こえたか?」
 礼は頷いた。 
「近かったな」
 礼はもう一度無言で頷いた。
「ここらあたりまで来るかな?山犬は群れをなして狩りをするというから、襲われたらひとたまりもないな。少し様子を見よう。荷物はまとめて、いつでも出発できるようにしておこう」
 耳丸はとってきた魚を火の近くに立てに刺した。それから、馬の方へ歩いていく。
 礼も、絶対になくせない薬の入った箱はすぐに担げるように自分の近くに置き、その他の荷物も閉じて、いつでも持ち運びできるように準備した。
 不穏な山犬の遠吠えは、一日の疲れを取るための睡眠をとることを許さない。耳丸は礼に寝ろというが、耳丸が炎々と燃え盛る焚き火に太い枝を突っ込んで松明を作っている様子を見ると、何かが起こりそうで、礼も眠れなかった。
 せっかく川で捕ってきた魚も、手荒く火のそばで焼いて、二人で食べた。いつ、食事ができるとも限らないため、摂れる時に取ろうという思いだった。
「体を横にしていろ。眠らなくていいから、目を閉じて。少しは体も休まるだろう」
 耳丸はそう言って、無理やりのように口の端を曲げて笑みを作った。礼を安心させるためなのだろう。
 礼は耳丸の言うことに従い、荷物を枕に体を横にした。
 礼が自分の言うことを聞いたことに満足したのか、耳丸は自然と小さな笑みをたたえた。
 礼は目を閉じた。心は休まらないが、体は少し楽になる。
 闇夜の中で、煌々燃え盛る焚き火の爆ぜる音がたまにするだけで、静寂が広がっていた。耳丸も、荷物に背中を預けて、少し警戒を解いた様子でじっと火を見つめていた。礼も、目を瞑っていると次第にとろとろと眠気が襲ってきた。
 そこへ、山犬の遠吠えがした。長く引く鳴き声。
 近い!
 耳丸は、預けていた体を起こして身構えた。礼も、目を見開く。
 次に近くで下遠吠えに、また礼達の近くから遠吠えが帰った。呼応し合い高く引く鳴き声。
 それがもう一度した。
 礼は、怖くなって体を起こした。
 すぐにでも、獣がそこの林から飛び出してきそうだった。
 耳丸は松明を持って立ち上がると、馬を一頭ずつ連れてきた。礼も立ち上がって、連れてきた最初の一頭の手綱を預かると、木の枝へとくくり付けた。二頭目も反対側の枝へと手綱をかけるのに、礼が手伝おうと近寄ると、耳丸は礼に松明を手渡した。両手が使えるようになった耳丸は手早く、枝に繋いだ。
 二人とも不安を呼ぶ推測は口にしない。黙って、体を動かした。
 そこへ、また遠吠えだ。先ほどよりももっと近い。すぐ後ろで鳴いたような気がする。
「礼、必要な荷物を持て!」
 礼は飛び上がって薬の道具が入った箱の元行き、背負った。
「必要なものだけだぞ!」
 耳丸の厳しい声に、礼は躊躇をやめて、木のそばへ走った。
 すぐに耳丸は、気のそばで片膝をつくと、礼に立てた膝へ上がれと言った。
「早く。木の上へ」
 耳丸の膝を踏み台にして、礼は木の枝に這い上がった。
「これを!」
 手にしていた松明を礼に渡す。
 耳丸の息つかせぬ鋭い声に、危険が迫っていることを感じた。
 耳丸は木の上の礼が松明を受け取ると、荷物をまとめた袋を掴んで、もう一方の手で焚き火に焼べていた太い枝を拾い上げた。燃え盛る枝を取り上げた時に、突然林の奥から草木を揺らす音がしたと思ったら、獣の唸り声と共に山犬三匹が飛び出してきた。
 礼は悲鳴をあげた。馬たちも獣の唸り声と礼の悲鳴に驚いて、けたたましい嘶きをあげた。
 唸り声をあげて、山犬たちは耳丸に襲いかかろうとしている。
 耳丸は松明を掲げて剣のように扱い、逆の手に持った荷物の袋を盾にして、山犬に対峙した。
 間合いを見ながら、耳丸に襲いかかろうとする山犬は、後から二匹が加わって五匹になった。耳丸はじりじりと追い詰められて、礼のいる木を背に少しずつ後退していた。飛びかからんばかりの山犬に松明を突きつけて怯ませるが、五匹が次々に機会を狙っているので、耳丸は四方八方に目を配って、来る犬来る犬を追い立てる。
 山犬は馬たちの周りにも、代わる代わるまとわり付くように取り巻いている。礼は木の上から、「しっ、しっ」と声を張り上げて、持っている松明を下に向けて山犬を追い回した。馬も自分の尻に齧りつこうとする山犬たちに後ろ足で強烈な蹴りを見舞ってやろうと、荒い鼻息とともに、後ろ足を振り上げている。山犬たちもすんでのところでかわしたり、かするように蹴りを食らって、一歩下がって様子をみたりしている。
 山犬と礼、耳丸の格闘はしばらく続いた。山犬もすぐには諦めない。
 そして、耳丸が疲れて、上げていた松明を持つ手が下がったときを見計らって、一頭が襲い掛かった。
「耳丸!」
 礼が悲鳴を上げた。
 右手に持っていた袋を飛びかかる山犬の前に突き出した。山犬は、迷わずに突き出されたものにかぶりついた。
「きゃあああ、耳丸!」
 礼は叫ぶ。耳丸は持っていた袋を放り投げて、それに噛み付いた山犬を投げ飛ばした。礼は飛んでいく山犬を見て耳丸の腕が食いちぎられて失くなったのかと思った。
「耳丸!」
 先ほどよりもより切ない大きな叫び声を上げたが、すぐに腕は失くなっていないことに気づいた。耳丸は腰から背中に差していた剣を引き抜くと、次に飛びかかってきた山犬に振り下ろした。確かに切りつけた手応えを得た。山犬は耳丸の後ろに飛びすさっていった。
 その間にも、齧りつこうとしていた山犬が馬に蹴られて、この戦いから離脱して行った。
 まだやる気のある三匹はグルグルと右左に歩きながら、耳丸との間合いを詰めている。耳丸はじっと対峙して、獣の出方を待った。一匹が飛び出し、それを合図にもう一匹も飛び込んできた。
 耳丸は二匹が一緒に飛びかかってきてのを、一匹目はかわしたが、二匹目をかわしきれずに転んだ。
「耳丸っ」
 礼がまた金切り声を上げた。
 耳丸はすぐに立ち上がり、剣を振り下ろした。剣の切っ先が山犬の腹に走った。
「わああっ!」
 なんとか反撃できたことでホッとしたところ後ろで大きな声がして、耳丸は振り向くと、礼が木から飛び降りていたところだった。
 そして、手に持っていた松明を山犬の肌に押し当てる。山犬は傷を負った後で動きが鈍くなったところに、火で炙られて弱々しい鳴き声をあげて林の中に逃げていった。残りの二匹に対しても、礼は松明を振り回して、近づいて来させないようにする。耳丸は立ち上がると、手に持っていた松明を一匹目に目がけて投げつけた。
 それを潮に、山犬はこの狩りをあきらめた。すっと礼たちに背を向けて、林の中に消えていった。姿を見た礼はその場にへなへなと両膝をついて座り込んだ。礼の後ろで肩で息をしていた耳丸は、同じようにその場にあぐらをかいて座った。

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