小さくて柔らかなややをかわるがわる抱いて乳を飲ませる。二人とも一生懸命に乳首に吸いつき飲んでいる。飲み終わると、眠たくなったのかあくびをするように小さな口を開けた。機嫌よく礼の腕の中にいると思ったら、急に火がついたように泣き出して、慌てて揺り動かしても泣き止まず、礼は困り果てた。しかし、礼はややの全てが愛おしくて、できることはなんでも自分でした。
二人のややはすくすくと育った。ぷっくりとしてすべやかな肌と可愛らしい声に皆が集まってきて、去の屋敷で愛された。
新しい年が明けた。
都では新年の行事が行われ、慌ただしい日々が過ぎているはずだが、ここ束蕗原は穏やかな日々である。去が治める一帯の村落から新年の挨拶に来る人々を、出迎えて皆で一緒になって新年を祝った。
礼は日に日に豊かになるややの表情に目を細めて喜んでいたが、心の中では実言が北方に行って一年が経ったのだと感慨深く思った。
季節は梅に、そして桜と移り変わった。
その頃、礼は異変を感じ取った。
訳も分からず、胸騒ぎがして仕方ない。
夜中に、ややと乳母たちと寝ている部屋を抜け出し、一人簀子縁へ出て、階の上に腰掛けて、夜空を見上げた。月の明るい夜だった。
庭の土を踏みしめる音がして、礼は驚いたが、身じろぎせずにじっとその音に耳を潜めた。礼のいる階に面した庭の端で、足音は止まり、礼は恐る恐る足音のする方向に振り向いた。
そこには耳丸が立っていた。相変わらずの仏頂面で礼を見ている。
「耳丸」
耳丸は、庭の中に入って階の近くまで来た。
実言が束蕗原に耳丸を寄越してくれたことを、去は感謝していた。去の屋敷には壮健な若い男は少ない。力仕事で人手がいるときは村の若い衆たちが来てくれるので、困ることはないが、やはり若くて力強い男が屋敷の中にいることは安心だった。耳丸は腕も立つ有能な男だったためなおさら去りは頼りにした。
今も、耳丸は寝る前に邸を一周して何か異変がないかを確認しているのだった。
「こんな時間にどうしたのだ」
礼は束蕗原に来て、ややを生み育てるのに必死で、耳丸と話すこともなかった。
正月の祝いもここ去の邸では皆が同じ部屋で祝うので、耳丸もいたはずだが礼の右目には映ったかわからない。
耳丸の問いに、礼は素直に答えた。
「眠れなくて」
耳丸は相槌を打つことなく、黙っている。
「耳丸は、都に行った時、北方の戦について何か聞いていないかい。都には実言のことは伝わっていない?」
礼は何気ないように、耳丸に訊いた。
耳丸は定期的に都の岩城の邸に行っていた。礼はそこで実言の様子を聞いていないかと問うたのだった。
「いいや、何も」
そっけない耳丸の返答に、礼は落胆した。
「そう」
「体が冷えるだろう。もう部屋に入ったほうがいい」
礼は耳丸に促されて、羽織っていた兄瀬矢の形見の上着の前を詰めて、立ち上がった。
「実言のことで、何かわかればすぐに教えてやる」
礼は頷いて、そっと部屋の中に戻った。
耳丸は夜の見回りの時に、度々礼が夜中に階の上に座り込んで、夜空を見上げている姿を見た。物悲しそうな風情で座り込んでいる礼を遠巻きに見るだけで、そっときた道を引き返して話すことはなかった。
ある日、薬草を保存しておく棟に囲まれた庭で、耳丸は年寄りの下男と薪割りをしていた。そこへ、去の弟子の一人が礼を探しに来た。
「耳丸。礼様を知らないかい?」
「いや、知らない。ややの部屋ではないのか?」
「それがいないのよ。ややは乳母が見ているのだけど、部屋を出て行って戻ってこないものだから、探しているの」
もう部屋を出て一刻もの時間が経過しているとのことだった。
「礼様を見たら部屋に連れ戻してちょうだい」
弟子はそう言い置いて、礼を探して母屋のほうに向かった。耳丸は老爺に後の仕事を任せて、自分も礼を探しに歩いた。
最近の礼は、毎夜、簀子縁に出ていた。思い悩んでいる風に、膝を抱えてじっと空を眺めている。明るい月を、新月の夜は星明かりをじっと見ていた。実言恋しさに思い悩んでいるのだろうと思っていたが、そこまで深刻になっていたのか。
耳丸は母屋を離れて、畑の広がる方へと向かった。邸や作業棟は弟子たちがくまなく探しているだろう。もしかしたら、邸を離れたところにいるかもしれないと畑へと向かった。
畑に沿って歩くと大きな樹があり、そこまでは歩いてみようと進むと、樹の上から足が見えた。礼が樹に登っているのだ。耳丸はゆっくりと歩いて近づき、声をかけた。
「礼」
樹の枝から見えていた足が驚いたように動いたが、後はなんの動きも無かった。
「礼、皆が探しているぞ」
幹の根元まで来て、耳丸は上を見上げた。幹に体を預けて枝が伸びる別れ目に腰掛けた礼がいた。
「一刻も何をしているのだ」
「ごめんなさい。みんなに心配をかけてしまった」
礼はそういうが、樹から降りてこようとはしない。
「木に登るなど、危ないだろう」
「私は、子供の頃から木登りが好きでね。怖くもないのよ」
「お前は本当に実言の妻に相応しくない女だ。どこの貴族の妻が木に登ったりするものか。実言が甘い顔をするから、つけあがって」
「実言は私が懐妊の可能性があるときは心配して、木に登ってはいけないと言った。今はその心配もないから登ってみたかったのだ」
「どうした?何かあったのか」
礼の抑揚のない声に、様子がおかしく感じられて耳丸は訊いた。
「耳丸。今度はいつ、都に行く?」
礼は耳丸の問いには答えず、逆に尋ねた。
「五日後の予定だが」
「そう。そのとき遣いを頼まれてくれないかい。宮廷楽士の音原家の麻奈見殿に手紙を渡して、返事をもらってきてほしい」
「……どうしたというのだ……実言に関係することなのか……」
「実言が毎夜、夢に出る」
「実言が?お前たちは夢の中でまで会って、戯れているのか」
「……違う。実言が私に別れを言いに来るのだ。自分が身罷った後のことを心配して、私を励ますのだ。……きっと、北方で実言の身に何か起こった違いない。それを知りたいのだ」
礼は耳丸に話をしながら、声が震えた。右目から流れ出る涙を耳丸に見られないように、袖で拭った。
「耳丸。ここから北方へはどれくらい歩けば着くのだろう」
「さあ、ひと月はかかるのではないか」
「そう。やはりとても遠いところね」
やっとのことで礼は木から下りてきた。慣れたもので、幹のくぼみに足をかけてするする下りる。耳丸は礼が自分の後ろを歩いているか確認するために少し首を後ろへと向けた。
耳丸の後ろをとぼとぼと歩く礼は、実言がいる北の方角の空をじっと見つめていた。
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