実言たち大王の軍団は湖のほとりの邸から、細心の注意を払って進んだ。どこで春日王子の一団を発見して、戦になるかわからないからだ。
「ここら辺りには、春日王子を支持する者はいるのか?王子には各地に懇意にしている豪族がいるだろう。そこの子女を王宮や自分の邸に入れていたはずだから」
「はい、土地の者に聞かせております」
湖の周りは大小の豪族が治めており、その勢力をうまく使って探索を進めていた。
その時、前から馬が駆けてきた。
「岩城殿!」
実言は立ち止まってその男が近づいてくるのを待った。
男は息が整うのを待って話し始めた。
「すみませぬ。……土地の者に話を聞いておりましたら、聞き捨てならぬ話がありました。どうも二三日前からこのあたり一帯で武器が集められているらしいのです。ここを治める波多氏は春日王子に近い勢力です」
「そうか。波多氏か……」
実言は頷いて後ろを振り返ると、探索を取りまとめている男に言った。
「あの山はどうだろう?」
実言は広く遠くを見ていて、先にある山を指さした。
「……まだ、あの山には人をやっておりませんが、何かあるということですか?」
「何か物見になっているかもしれない。春日王子と懇意の豪族であれば、物見から観察して教えているかもしれないな」
実言は山の上を見つめて呟いた。
「あの山が気になる。辺りをくまなく探そう」
それから実言は人を割いて山の麓に探索に行かせた。
森の中を獣のように俊敏に進む春日王子の斥候は、邸を出て森の中を抜けて道に出る手前でその場に潜み同化した。どれほどの時をその場にいただろうか。向こうから馬の足音が聞こえてくる。足音は一頭だけ。大王軍が遣わした追手の騎馬団の一人が、春日王子一行が近くにいると踏んでこのあたりを捜索しているのだろう。
ゆっくりとした足並みに、大王の騎馬は警戒しながらもどこか呑気な雰囲気を醸していた。石膏の目の前を通り過ぎて行った。しばらくしてから、その騎馬は戻って来て斥候の前をもう一度通り過ぎた。その雰囲気は先ほどの呑気なものから変わっていた。警戒した視線は地面をしっかりと見据えて、何か手掛かりを探している。
面倒な……
春日王子たちがここらの隠れ邸に潜んでいると踏んで、その手掛かりを探しているのだろう、と斥候は考えた。気づかずに通り過ぎてくれたらいいが、もし何か気づいたような素振りでもあったら、見過ごせない。危険な芽は早めに摘むに限る。
殺生は嫌だな……
斥候はこのまま行ってくれることを願った。
騎馬は、下草を踏みつけてゆっくりと離れて行く。
そのまま離れて行け。そうすれば、命は助けてやる。しかし、後をつけてお前たちの居場所を突き止めてやるがな。
だが、騎馬の足音は遠ざかることなく止まった。馬上の男は森の中に目をやっている。
もう!道らしきものを見つけたか?
この先にある春日王子をお連れした粗末な邸に物を運ぶのに人が何度も往来したので、道のようなものができているかもしれない。
馬が近くの草を食む音だけがしていたが、手綱を引かれて、馬は食事を止めて一歩一歩と森の中に進んで行く。
斥候は前進する足音を聞いて、内心舌打ちした。
そちらに行くのか……そっちは行ってはいけない道なのだ。
その場に石のようになっていた斥候は、音もなく簡単に立ち上がり、やりたくないと思っていたことを実行するために動いた。
実言たちは湖のほとりに陣を張ってここで休憩をして、広範囲に探索することにした。
春日王子の最終目的地はここではないはずだが、都から逃げて、一旦ここらあたりで態勢を整えないとと、思っているのだと推察した。
都にいる湖のほとり出身でこのあたりの地理や勢力に詳しい役人を探してきて急遽この騎馬隊に加えた。その者の話では、このあたりを治めている豪族は春日王子と懇意であるという。春日王子がこれを頼らないわけがない。何かしらの装備や食料を受け取るために落ちあうだろう。
また、逃げるために、馬を使うか捨てるか考えていることだろう。女を連れて行くとなると馬は捨てがたい。春日王子が馬で移動するなら実言たちは見つけやすいというものだ。
湖のほとりは風が抜けて涼しい。兵士たちはそれぞれに座って休憩し、探索に行った者たちが帰ってくるのを待った。
一人二人と探索に行っていた者が帰ってきた。大して情報を持って帰ることができない者ばかりだが、今日取れた魚を波多氏の邸に持って行った男の話を聞いてきた者がいた。
男は、大量の魚を捕まえて持ってこいと言われて、朝からいくつもの罠を仕掛けて大変だったと、自分の苦労話を長々としたのだった。
また、別の者は、多くの馬を移動させているのを見たという農民の話を聞いてきた。
しかし、春日王子の一行の影すら見た者はいない。
きっとこの近くに春日王子一行は匿われ、この先の旅支度を進めているに違いないのだが。
焦りは禁物だが、実言は早く見つけたかった。
実言から少し離れたところに、荒益は座っている。腰に下げていた水筒に水を汲んできてくれた者と会話をしている。いつもと変わらぬ顔つきだが、内心は妻の朔のことを心配していることだろう。一人眠ったまま置き去りにされた礼が言うには、朔の体調は悪く、このまま旅をさせてはその命すら危ういらしい。早く朔を春日王子から救い出し、安全なところに移さなければ。荒益も同じ気持ち、いや、心の中はその気持ちで占められており、自分一人勝手に走り回れるならこの隊を離脱して朔を見つけ出したいだろう。
陣の外では探索に行った兎丸(うまる)が帰って来ないとの声がして、皆が騒がしくなった。しばらくして、幕の間から陣の中に入ってきた兵士が実言の前にしゃがみ、そのことを報告した。
実言は兎丸が向かった方面に三人ほどの探索隊を出した。ほどなくして、兎丸の行方がわかった。
道から外れた林の中で、首を切られて息絶えていた。乗っていた馬は傍にはおらず、逃げたか、または、暗殺者が連れ去ったのかもしれなかった。
すぐに実言の元にそのことが報告されて、実言は陣内を飛び出して、馬でその現場まで向かった。
冷たくなった兎丸の傍らに跪き、よどみのない正確な仕事と思わせる首の傷を見つめた。春日王子の傍に腕の立つ護衛がいるということをうかがわせた。
確かに、哀羅王子を大王の前に連れて行くとき、邸の周りを取り囲んでいた春日王子の間者たちは手強かったことを思い出した。
「兎丸を丁重に弔ってやれ。家族にもその最後を伝えられるように」
実言は山の中から取ってきた大きな葉に覆われて行く兎丸の傍から離れて言った。
実言の後ろを荒益が追ってきた。荒益が声を掛けるよりも先に、実言は振り向いて言った。
「兎丸は何かを……どこかに繋がる道を探っていて見つけたかな?それを知った間者に襲われた。襲った場所はここではないな。春日王子から遠ざけるためにここまで運んだのだろう。入念に隠したようだが、鳥が集っていたのを兵士が不思議に思って見つけたようだ。いずれにせよ、春日王子は近くにいるということだろう」
荒益はそれを受けて言った。
「……波多氏が春日王子を匿っているのだろう。さて、どこへ。自分の邸では、危険だろうから、別の場所だろうけど」
実言は頷いた。
「王子も都のような待遇は受けられないとわかっているだろう。小さな邸でもしらみつぶしに探していくしかないな。歩兵が来るのは、早くても明日の夜だろう。今いる我々だけでどれだけ探せるか。波多氏がどれほどの力を春日王子に注ぐだろうか…」
今度は荒益が頷いた。
「歩兵を待っていてはだめだ。そうすれば相手に装備を揃える時間を与える、または遠くに行く余地を与えてしまう。今いる我々で探索しよう」
荒益は言った。
実言はその通りだと思い、陣営に戻ると皆を集め、二三人の組にわけてあたりを探索させた。
探索はくまなくしらみつぶしに行うよう言われた。皆は馬上から、または歩いて例外なく確認して前進する。
生い茂った背の高い草むらをかき分けてその先を行く者。岩山の前に行きついた者は、その割れ目の中に体を突っ込んでその中に何もないかを確認した。
「何かあるか?」
体を突っ込んでいた男は後づさって出てきて、首を振った。
歩兵がいれば広範囲にしらみつぶしに探すことができるが、少ない人数で地道にどこまでできるだろうか。兵士たちは頭を抱えたい気持ちだった。
一組の探索隊が一人は馬上から、二人は徒歩で背の高い草むらをかき分けながら進んでいる。
随分と奥まで進んだところで。
「また戻るのが大変だな」
徒歩の男が独り言のように言った。北に抜ける街道を外れて、林の奥に入っているところ、何もなければまた戻らないといけない。知らない土地に迷子になりそうで、最小限の目印をつけて進んでいた。
「あっ!」
馬上の男が、小さく叫んで身を固くした。徒歩の二人の男もその声に進むのをやめて、あたりを警戒した。
馬の上からだと背の高い草の上から遠くの様子が見える。少しだけ草が倒れているのが見えた。それは微妙な傾きではあるが、一筋の道に見えた。人一人の幅で何度も往来したと思われた。林の奥に何かあるのかもしれない。
馬上の男は、言葉を発せず手を使って徒歩の男たちにそのまま進むように言った。男たちは再び歩み始めると、左右に分かれて傾く草の道にぶつかった。徒歩の男たちもこれは人が通ってできた道とわかった。そして男の一人はその道をたどるように進んで、見つけた。
馬の糞。
落ちてまだ時間が経過していないことが分かる。この道は馬も通ったのだ。春日王子一行が通ったに違いない。
その予想が外れていても、外れたという確認をする必要がある。
馬上の男は、徒歩の男二人にこの先の探索を任せて、自分は来た道を戻り応援を呼びに行った。
徒歩の男たちは静かな身のこなしで道でないようで道であるその一筋を進んだ。
夏の熱気を含んだ風が背の高い草の頭を押さえつけるように強く吹き去って、一瞬視界が開ける。この草むらがもっと先まで広がっていることを示すように、視界が開けてもその先は同じ草があるだけだった。
草の中を泳ぐように前に進んでいた男たちは、荒ぶるように再び吹いた夏の強い風に自らの頭も押さえつけられて、身を低くしてその風が通り過ぎるのを待った。
顔を下に向けて勢いの強い風に不意に頬を撫でられるのをやり過ごして、顔を上げた時、知らない顔と目が合った。お互いにぎょっとした表情で見合ったが、次にそれは互いが敵であることを認識し、左右に飛び退った。
春日王子の斥候は素早く前進して、男に飛びかかった。
「うわぁ」
叫び声が当たりに響いて、徒歩の男のもう一人は声のした方へと走った。目の前には敵味方が抱き合うように組み合っていた。味方に加勢しようと思うが、一瞬一瞬で敵味方の体が入れ替わって容易に手出しできなかった。
誰の目にも見えない草むらの中で、三人が一塊になり攻防を繰り広げた。
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