Infinity 第三部 Waiting All Night98

小説 Waiting All Night

 夜明け前、邸に女を一人置いて、春日王子たちは出発した。
 春日王子は出発前に朔の顔色があまりにも悪いので、心配している。背中にすがる体はあまりにも軽い。朔に何を聞いても、旅は初めてだからと言って、その後は迷惑をかけてすまないと謝るばかりだった。朔の体を心配して途中休憩をとっていては、いつ、追手に ‘ 追いつかれるかわからない。今は無理をさせてでも、この湖のほとりを北上し、越前まで行くのだ。そこからは東国に行くことを考えている。
「朔、辛抱してくれ。今はできるだけ早く先に進みたい」
 春日王子は背中に向かって言って、馬を走らせる。
一団は朔を入れて十人ほどだ。七頭の馬が春日王子を守って北上していた。都から春日王子と共に都を脱出した臣下は金輪常道だけだった。滝根可輪若は春日王子が都に残るように言った。
 後ろから追手の見張りをしていた一頭が猛烈な勢いてこちらに走ってくるのを最後尾にいた男が気付いて、春日王子を呼んだ。馬も人も息を切らしている。
「どうした?」
 春日王子が聞くと、息を整えつつ言った。
「都からの追手が迫っています。先頭が川を越えました」
 皆は一様に驚いた顔をした。朔も、春日王子の背中にすがったまま、体を強張らせた。だが、春日王子だけが平静な顔をして聞いている。
「そうか。思ったよりも早かったな。追手の一行には大将がいるだろう?誰だがわかるか?」
「会話から、岩城の者が大将のようです」
 それを聞くと、春日王子はにやり、と笑った。
「追ってきたのは、やはり岩城か」
 春日王子は囮がいても自分を追うのは、岩城だろうという予感めいたものがあった。岩城実言の女が飛び込んできたことから、より予感は強まっていた。
「先を急ごう。この先の河知(かわち)(地名)で、対応を考える」
 春日王子は言うと、春日王子と共に周りを囲む馬は一斉に動いた。
 河知とは春日王子と繋がりのある豪族が治める土地である。都を出ると決めた夜には密かに人をやって、河知に人や武器を集めるように指示をしていたのだった。
 旅の態勢、装備を整えるためにも、ここで時間を使って用意をしようと思った。
 途中、河知を治める豪族、波多氏の者が案内のために待っていた。連れていかれた邸は藪を抜けた先にある粗末な建物で、部屋も二間しかない。
「追手に見つかっては元の子もないので」
 と言い訳めいた言葉を言って、波多氏の使いは邸の中に案内した。
 部屋の中は綺麗に掃除されていて、食料もたくさん持ち込まれていた。
「主人は追ってこちらに参ります。必要なものがあれば何なりとお申し付けください。できる限りのことをするようにと仰せつかっております」
 春日王子は頷いて、馬から下した朔を支えて邸の中に入った。褥が敷かれた部屋に朔を連れて入って横にさせた。
 殺風景な板間に、色褪せた几帳が隣の部屋の隔てとなっている。
 朔は横になって真っ白な顔で、きつく目を瞑ったまま荒い呼吸をしている。
「しばらくここで休め、いいな」
 春日王子は朔の背中をさすって、小さな声で言った。朔は薄っすらと目を開けて頷く。
 春日王子は安心したように笑って、朔の傍を離れた。
 几帳の向こうでは男たちの話す落とした声音を子守唄のように朔はうつらうつらした。
 暫くして春日王子は朔の元に戻った。
「どうだ?気分は良くなったか?」
 隣の部屋で今後のことを話していた春日王子は話が一段落して、朔の寝ている部屋へと入ってきた。
 春日王子の問いかけに、朔は王子を見上げ起き上がろうとした。
「そのままでよい。寝たままで」
 春日王子は策の傍に座って、見下ろした。
「食事も満足に食べれないのであろう。都を出て三日であるが、随分と痩せて頬がこけたようだ。無理やりつれてきたものだから、心も体も心構えができておらぬのであろうな。すまぬ。もう少し辛抱をしてくれ」
 春日王子は朔の痩せた頬に手を当てて、しみじみと言った。
 追手の一行に向けて放った数名の斥候が返ってくるまでの間、春日王子は誰も傍に寄せ付けずに朔の元にいた。
 朔は春日王子が心配顔で肩を落としたような姿を見ると、申し訳なく、飛び起きて嘘でも体は問題ないと言いたかったが、もうこの体は自分ではどうすることもできないほどに弱ってしまっていた。
「……王子……足手まといになってしまって、申し訳ありません。追手がすぐそばまで迫っているのですか?そうであれば、もう……私は捨て置いてくださいまし。私はここまで連れてきて来ていただいただけで嬉しいですわ……」
 か細い声で朔は絶え絶えにそう訴えた。
「何を言うんだ。追手など何も問題はないことだ」
 春日王子は礼の頬に手を当て言った。
「それより、何か面白いことを考えよう。今は追われる身だが、東国へ逃げ延びたら、どのようなことをしようか。都のような暮らしはできないが、お前といれば面白いことが思い浮かびそうだ」
 いつになく春日王子は笑っている。口の端を上げて、むりやり笑い顔を作っているような感じだ。朔はその顔を見るとさらに申し訳なく思うのだった。
 今、自分の中に留めているこの体の秘密を話してしまおうかと思った。こんなに足手まといになっている自分の真実を話してしまったら、王子はどのような決断を下すだろうか。
 春日王子には一人も子供がいない。自分の血筋を継がせる興味もないのではないか、と思われる。そのようなことを宮廷内の女官が話しているのを聞いたことがあった。子ができたと告げたら、春日王子は朔への興味を失ってしまうのではないかと思った。望まぬものを成した女に用はないと。
 そう思うと、やはり朔は何も言えなかった。 
「湖の景色はどうだった?初めて見る景色だっただろう?」
 朔は頷いた。
「東国に行けば、お前に見たこともない新しい景色を見せられるな。お前と一緒に見るもの聴くものが後々に思い出となり、東国で月を見ながら昔々の苦労話として語るのもよいな」
 春日王子は言って、笑っている。朔も東国にたどり着いた後、丸く輝く月の下で、春日王子に酒を注ぎながらゆっくりとこの旅の苦労話や美しい景色に感激した気持ちを語り合っている様子を想像したら、自然と笑みがこぼれた。
「笑ったな」
 朔の笑い顔を見て、春日王子はさらに目尻を下げて笑った。
「……春日様」
 几帳の後ろから控えめに春日王子を呼ぶ舎人の永見(えみ)の声がした。
「……なんだ?」
「阿嘉月(あかつき)達が戻ってきました」
 斥候にやっていた者たちが戻ってきたというのだ。
「わかった。すぐ行く」
 春日王子は言うと、衾から出していた朔の手を身を乗り出して握ると、その頬に自分の顔を近づけた。
「またしばらくの間よくおやすみ」
 朔は頷き、ゆっくりと目を閉じた。白く清楚な花が揺れてその花びらを散らすような儚さを思わせて、春日王子はまだ傍についていてやりたかった。
 しかし、そこは振り切って立ち上がり几帳の外で小さな声で永見に訊いた。
「阿嘉月は何と言っている?」
「すでに部屋に居りますから、直接お聞きください」
 永見は言って隣の部屋へと入った。そこには、まだ汗も引かない薄汚れた阿嘉月他二名の男が春日王子の前に座っていた。
「相手はどうだ?」
「騎馬と徒歩の兵士が追ってきています。先行して騎馬が迫っています。騎馬の数は三十ほど」
「三十!少ないではないか……おとりを使ったかいがあったな」
「徒歩の兵士はおおよそ二百ほどかと、道が悪く一斉にはこちらに来れていません」
「騎馬をどうするかな。もうそこまで来ているのか。ここを通過して行ってくれるなんて淡い期待をするのは無理だな」
 といって、春日王子は自分を嗤った。
 この人数で、三十の騎馬と対峙するのは正気ではない。運よくすれ違って、逃げ切ることができればこんなありがたいことはない。しかし、そんなにうまくいくわけもない。大王の軍勢は血眼になってこちらを探すだろうから、見落とすようなことはあるまい。たとえ運よく逃げ切れても、無傷では済まされない。数人の命を失うかもしれないと覚悟しておく必要があった。
 それでも、何事もなくここを乗り切れたらと都合のいいことを願ってしまい、春日王子は自分の甘い考えに苦笑してしまった。
「もしかしたら……」
 春日王子は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「皆、斥候に戻れ」
 そう言うと、阿嘉月たちは音もなく立ち去り、部屋には春日王子と金輪常道と舎人の永見だけが残った。
「武器はどのくらい集まっている?兵士もできるだけ集めてくれ。……波多はどうした?」
 波多はこの河知の領地を治めている豪族だった。
「波多は武器や馬、人を集めているところです。間もなく、本人が王子の前に参るでしょう」
「ふん。物事はうまくいかんな。思った以上に追手が早く来たものだ」
 春日王子は、部屋から外の景色に目を移した。真っ暗闇の庭に虫の音が響いていた。

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