夜明け前に野営をたたみ、薄暗い道を馬で走ってきた一行は、急に開けて目の前に広がるどこまでも水平線の続く水面を見て声を上げた。朝日が当たって、きらきらと輝いている。
「海か?」
と口々に言い合って、誰かはもう越前まで来てしまったかと呟いた。
「いいや、これは湖だ。海ではない」
と地理に詳しい者が教えてやった。
「春日王子たちはどちらに行ったのでしょう?」
実言が波打ち際まで進み出ると、湖のほとりに立つ従者は訊いた。
「どちらかなぁ……」
実言は意外と呑気な声で答えた。
追跡の一行は野営が続き、食料調達も難しく旅の疲れが出ていた。追い逃すことなど絶対に許されないことだが、その背中が見えない中で、少しばかり心の緊張が途切れつつあった。
「岩城殿!」
春日王子たちが湖の東と西のどちらに進んだかを探りに行かせていた者たちが戻ってきた。実言を呼ぶ声に皆が振り向いた。
「この先の枝にこのようなものが」
一人が手に細い布を持ってきた。
実言はそれを手に取り、今までに見てきた紐と比べた。それは、これまで通ってきた道のしるべになっていた紐と同じだった。
「どこにあった?これは今までの道しるべと同じものだ」
「あちらです」
と指を刺した。
「行こう!近くにまだいるかもしれない」
その掛け声で皆は西側へと馬首を向けた。
「礼!……礼!」
礼は広い草原の中で前へ前へと無我夢中で歩いているところを後ろから呼び止められたような気がした。自分の名を呼ぶ声に、振り向いて呼ばれた方へ走り出す。
「礼!」
礼はいきなり腕を掴まれて、抱きとめられる感覚に襲われた。
礼はゆっくりと意識を取り戻した。ゆっくりと目を開ける。ぼやけた視界の先に、人の顔を見えた。
「礼!」
そこには礼を抱き起した実言がその体を揺すっていた。
「……み、こと」
礼はその声で目の前にいるぼんやりしていた人影が実言であると分かった。しかし、深い眠りの中から急に起こされて、体がうまく動かない。
「よかった。お前が倒れているから心配したよ」
実言は礼を一度強く抱いた。
「何も、されていないか?体を傷つけられたりしていないだろうな」
礼はゆっくりと首を左右に振った。
「岩城殿、誰もいません。立ち去った後のようです」
邸中を走り回っていた兵士たちは、敵の陰を見つけることができずに、実言にそのように報告するしかなかった。
「……誰も……いない?」
礼は言った。
「何?どうした?」
実言は礼にだけ聞こえる小さな声で囁いた。
「誰もいない?……朔は行ってしまったの?」
「ああ、春日王子も朔も、誰もここにはいない」
礼は自然と涙が出た。眠気に引きずり込まれる直前の朔の哀しい笑顔が蘇った。あんな顔をして、朔は春日王子の元に行ってしまった。本意ではないはずだ。
「礼……なぜおまえだけ置いて、春日王子は行ってしまったのだ」
実言のすぐ後ろに、荒益が近づいてきてしゃがんだ。
荒益の顔を見たら、この先の朔の身を思い、申し訳なく思った。
「……朔と逃げるため、私は睡眠の薬を春日王子に飲ませることにしたの。皆が眠っている間に、こっそりと逃げるはずが、……なぜか……私が飲んでいて、眠っている間に皆は去ったのだと思うわ」
礼は言って、両手で顔を覆った。
「……礼」
荒益は実言の後ろから礼を心配そうに見ている。礼のこともだが、ここにいない朔を気にかけている。
礼は荒益の声を聞いて、顔から手を下ろした。
「荒益!朔は、朔はあなたのことを思って、春日王子の元に行ってしまったの。朔は、春日王子の嘘に騙されて、邸を出てしまったことを悔やんでいたわ。どうか、朔が戻ってきても、叱らないで。朔を温かく迎えてあげて」
「礼は朔と話したのかい?」
「ええ。途中から春日王子と朔に追いつき、朔と一緒にいたわ」
「朔の体は無事かい?」
「ええ、でも、旅慣れていないしこの夏の暑さに、苦しんでいたわ。私……朔を手離してしまった。……ごめんなさい、荒益。私は朔を助け出せなかった……」
そこで礼は小さな泣き声を上げた。むせび泣きをする礼に、実言は肩を抱いてやるしかなかった。
「礼が無事で何よりだった」
荒益は噛みしめるようにゆっくりと言葉を選んで言った。
「朔のことは私に任せて。……実言、礼を労わってやって、無事に都に帰れるように手配をしてくれ」
荒益はそう言って微笑む。
礼は荒益に朔の体の秘密を訴えたい衝動に駆られたが押さえた。朔は嫌がるだろうが、朔を助けられるのは夫である荒益しかいないように思った。
「実言、これからも私を連れて行って。朔は体が弱っているの、助け出したらすぐに体を休めなくてはならない。そのためには私が必要よ。お願い」
礼は強く訴えた。
「もう、都に帰るのにも遠いわ。最後まで連れて行って。後ろで待っているから。朔を助け出したら、私に渡してほしいの」
額がくっつきそうなほど顔を近づけて礼は言う。
実言は一度礼のこのお願いを許している。そして、ここから人をつけて都に帰すのは難しい。春日王子はすぐ目の前を進んでいるのだ。礼のために人も馬も割けない。
「わかった。しかし、最前列に出すわけにはいかない。邸から連れて来た兵士がいるから、その者たちと一緒に後方で待っているんだ。朔を助け出したらすぐに呼ぶから」
実言は後ろを振り向いて部下を呼んだ。
「和良三(わらみ)!」
和良三と呼ばれた男が飛んで来て、実言の後ろに立った。
「お前は、後方の徒歩の部隊に合流だ」
驚いた顔をして黙っていると、自分の腕の中にいる女人の顔を向けて知らせた。
「礼だ。わけあってこの先も一緒に連れて行く。お前が馬の背に乗せて、連れてきてくれ」
和良三は、実言と礼の邸で、実言の傍に仕えているので礼のこともよくわかっている。武術に腕があり、この場で礼を預けられるのはこの男しかいなかった。
実言は立ち上がると。
「荒益、先を急ごう」
と荒益に言った。荒益の心中を察したのだ。
「みなの者、先を急ぐぞ。敵の背中はもう目前まで来ている!追い詰めるまでもう少しだ!」
戸を揺らすほどの実言の大きな太い声が邸の中に響き渡った。
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