夏の夜は薄い衾一枚で足りるのはいいと、礼は思った。台所にいた侍女に先に部屋を出て行った男たちから離れた部屋に案内してもらい、薄い褥の上に膝を抱いて座っていた。昨日と同じ蒸し暑い夜だが、時折風が吹く。
今も柔らかい風が部屋に入ってきた、と思ったら。
「礼」
と後ろで朔の声がした。
「……朔!」
礼は振り返ると、朔が衝立の上に手を置いて立っていた。そのまま、ゆっくりと歩いて礼の隣に腰を下ろした。
「春日王子は……どうされたの?」
「一人で……月を見ながら酒を飲みたいとおっしゃったわ。……多分、本当の心は違うのでしょうけど」
朔は言って、こちらを見ている礼と目を合わせた。
「痛かっただろう。……春日王子は思い通りに行かず苛立っておられる。女人に手を上げるようなお方ではないのだが」
そして、朔は殴られた礼の左頬に手をやった。
「痛いだろう……痛かったね」
朔はそう言って礼の眼帯の上にそっと手を置く。
先ほど春日王子に殴られた左頬のこと言っているはずなのに、礼は一気に時を遡って子供の頃に戻っていた。朔は礼の左目の横に手を添えられて「痛かったね」と言うのは、あの時、左目を失った後に礼の寝ている部屋に来て、慰められているように思えた。
実際は、実言が朔との婚約を破棄して礼を娶ると分かって、朔は礼を罵りに来たのだった。
礼はわかっている。実言とのことがなければ、朔はこうして真っ先に傍に来て礼を慰め励ましてくれていたはずだ。
「どうしたの?……なんだかおかしな顔をしているわ」
礼は朔への懐かしさと、こうして身近に触れ合うことで、左頬は痛いのになんだか嬉しさがこみあげてくる。それを必死で我慢していると、おかしな顔になったのだ。
「こんな時に、変な子だ」
朔は飽きれたような声で言った時に、礼は朔に体を寄せてそして抱き着いた。
「朔……嬉しい」
礼の抱擁に朔も素直に応じた。
「小さな子供のようだわね」
朔は礼の背中に手をまわして、とんとんとゆっくりさすった。礼は暫くの間、朔の優しい手のぬくもりを感じた。真夏の夜だというのに、まとわりつく熱はどこかに行ってしまって、爽やかな膜につつまれているような感覚だ。
礼が朔の肩から顔を上げると、朔もゆっくりと手を下ろした。
「朔……」
礼は朔を真っすぐに見た。
「なぜ、春日王子と共にいるの?……連れ去られたの?」
朔はすぐに首を横に振ったが、春日王子といることをどう説明するのかは逡巡した。
「……春日王子に、荒益と春日王子が通じている秘密を持っている、欲しければ取りに来いと言われて行ってしまったのよ。行ったら、それは嘘だと分かった。それから、春日王子は都を脱出することを決断されて、傍にいた私を連れて行くことを決められた。私は言われるがままよ……」
礼は右目を細めた。そもすれば、涙が出てきそうになる。
「朔……朔は、荒益を心配してのことなのね……。あの夜、私は別の邸から帰る途中にすれ違った車から聞こえた声が朔と分かって追いかけたのよ。あなたが春日王子の邸に入って行った理由がわからなくて出て来るまで待っていたの。そうしたら、馬や車が出て行って、その後に実言や……荒益たちをはじめ大勢の兵士が春日王子の邸を取り囲み、邸の中を探索し始めた。私は実言の元に行き、私が見たことを話したわ。春日王子と一緒に朔も邸を出て、東に向かったと教えた。荒益もそれを聞いていて驚き、そして心配をしていたわ。朔を助けるために実言と共に私たちを追っているはず。朔、もう少しすれば荒益が来るわ」
朔は強張った表情のままだが、礼は言い終えると微笑んで言葉を続けた。
「朔……あなたはどこまでも春日王子と一緒にはいけないはず。……あなたのお腹には子どもがいる。その体で、この先の旅は難しいわ……そうでしょ?」
礼の言葉から逃れるように顔を背けて、朔は白い顔をさらに白く青ざめさせた。
「朔……体のことを考えると」
「礼……」
朔は礼の言葉を遮った。
「お前もだろう。お前の腹にもややがいる」
今度は朔の言葉に、礼は黙った。礼は夏の日の下にいるから体調が悪いのかと思っていたが、そうではないと気付いた。こんなぼんやりした妻に、実言は本気で怒るかもしれない。妊娠の兆候に気付かないなんて。
二人は黙っていたが、朔が先に口を開いた。
「……礼、お前のややは実言の子であろう。……私の子は荒益の子ではない。荒益とはとうに体の交わりはない。……もう、わかるだろう。私が身籠っているのは春日王子の子だ。荒益が妊娠を知ることは、私の不貞を知ることだ」
礼は朔の目を見たが、すぐに声を出すことはできなかった。朔の左目尻からは一筋の涙が流れていた。
「……お前も後宮に行っていただろう。私も義姉である幹様の元へ行っていた。後宮の渡殿を通って王宮の自分の館に行く春日王子と出会った。そこから私は荒益を裏切ってきたのだ」
朔はそう言って、自分の胸に手を置いた。自分の告白が怖くて自分の存在を確かめるためだった。
「……昨夜、私は荒益の立場を思って春日王子のところへ行ったが、荒益の元にいつまでもいられる体ではない。春日王子に攫われて、よかったのかもしれない」
朔はそう言って、口元だけ笑った。それは自虐的なしぐさだった。
「春日王子にはややのことはお話ししたの?」
礼の問いに朔は首を横に振った。
「あの方にはたくさんの妃や愛人がいるというのに、子供は一人もいない。子供など欲しくないのだ。だから、お話ししていない。できるわけがない」
朔はそこで顔に手をおいて、頬にできた涙の筋を拭った。もうこのことを何度も考えてきたようで、改めて礼に話して取り乱すようなことはない。少し高ぶった気持ちを鎮めるために、肩を使って息を吐いた。
礼は、妊娠に気付いてから今まで一人悩んできた朔の姿を思い浮かべた。嬉しいことのはずが、そう思えなく、自分の身ごと呪ってしまうような苦しい思いの中にいたことを。
「……朔……私と一緒に束蕗原に行きましょう」
「束蕗原?」
朔は礼の突然の話に、戸惑って首を傾げた。
「束蕗原は、私たちの叔母、お母様達の一番上のお姉様である去様が治める土地よ。去様はお医者様で、私の師でもあるの。束蕗原は安全よ。だから、そこへ行ってややを産みましょう。あなたと、ややが無事に身二つになってから、それから先のことは考えましょう。今は」
とそこで、言葉を切って礼は朔の両方の手を取った。
「朔の体と、ややのことを一番に考えないと。このまま春日王子と一緒にいては、体が持たないわ。私と一緒に行きましょう」
礼は朔の手を強く持って言った。
「ね!」
礼は、俯く朔の顔を少しばかり覗きこんで念を押した。
朔が荒益以外の男と、それも春日王子のような身分の方と恋愛をしていたとは驚いた。しかし、なぜ荒益を裏切ったのかと責めたり、問い詰めたりしたいとは思わなかった。朔の心に、二人の男がいても悪くない。しかし、今春日王子と共にこの旅を続けるのは無理だ。二人の男から離れられる束蕗原に行き、安心して出産をすることが最善と思えた。束蕗原は男二人には関係のない土地だし、実言のお陰で警備も整っているので安全だ。
「そう、叔母様の住まわれているところがあるの……」
朔は想像もしなかったことを提案されて、まだよくわかっていないようだ。
「朔。あなたの方が産み月は早いでしょう?」
朔の痩せた体に腹回りがふっくらとしているのを見て、礼は言った。
「これからもっと大きくなるわ。馬に乗るのも辛いはず。だから」
「それはお前もだろう、礼」
「そうね。でも、私は医術の心得もあるし用心できるわ。しかし、私たちはお互いに自分の体を思いやらなくてはいけない。春日王子の思うように動いていては、お腹の子も私たちも倒れてしまうわ」
朔は小さく頷いた。それを見ると礼は朔に抱き着いた。
「朔。嬉しい。こうして二人でいられるなんて。夢見ていたことよ」
朔は首に回された礼の腕の力が強いのに、顎を上げて邪魔なしぐさをしながら言った。
「私たちの命が危ういというときに、呑気な物言いだね、お前は」
礼ははっとして、朔から手を離し、かしこまった。
「そうね……私、こんな時にはしゃいで」
「……わかっているよ、礼。こんな心細い時にお前が傍にいてくれて私も心強い」
朔は礼の左目のそばに手を当てて、それから肩へ、肩から落ちる髪へと手を滑らせて撫でた。それから二人は狭い褥の上に体を横たえた。狭いから自然と体がくっついた。向かい合ってお互いの腕を抱くように持って、見つめ合った。
「夜明け前には出発するのでしょう。少しでも体を休めないといけないわね」
「そうね、眠りましょう。礼、お眠りなさい……」
朔は礼に優しい声をかけた。その態度は再び礼を子供時代に連れて行く。母を亡くした時に、夜も昼もなく泣いていた時に、ひょっこりと朔が現れて今夜は泊まると言いだした。真っ暗な中にいると、ものを言わない冷たくなった母の姿が思い出され、またもう二度と会えないと思うと涙が出た礼だったが、朔が優しく抱いてくれて、「私も寂しい」と言ってくれると、涙が引っ込んだ。
「お前が泣いてばかりだと、叔父様が心配しておいでだ。叔母様も黄泉の国に行く途中で振り返りお前を心配しておられるかもしれない。ここにいる者が黄泉の国に旅立たれた方に心配をかけるものじゃないよ」
ぎゅうと抱き締められた礼は、朔を抱き返した。そして、母を亡くした悲しみを乗り越えることができた。
その時のような朔の優しさに包まれた。
「朔……私が母様を亡くした時も、瀬矢兄様を亡くした時も、夜に私と一緒にこうして一つの褥に寝てくれたわね。悲しくて泣いてばかりの私をずっと慰めてくれた」
朔は五日も続けて礼の部屋に泊まり、昼間も一緒に過ごして気を紛らわせてくれた。
「何を昔のことを言っているの。そんなこともあったけど……」
「嬉しかったのよ。朔は本当の姉様と思ったわ。……今も、そう。こうして身が危ない時だけど、朔が抱いて慰めてくれると私は安心して落ち着いていられる。……それは母様を亡くした時からだと思い出したの。だから、今度は私が朔を助ける時よ。二人で束蕗原に行きましょう」
「……そうね、そうできるなら、一番いいのでしょうね。……もう……寝ましょう」
朔の眠りを促す声に礼は目を瞑った。でも、その前に体が休息を欲しがって意識よりも早く眠りに落ちた。
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