妻の背中がみるみる小さくなるのを、実言はどこまでも見つめ続けた。小さな体が大きな馬に跨って勇ましく突き進むのを想像すると、今己が成すべきことに集中しなくてはと思った。
あの子を早く自分の元に戻したい。あの子がいなくなってしまっては、自分は明日も生きていけないのだ。
「粟田殿、王宮へ戻りましょう。大王にこのことを報告して、次の手を打たなくては」
実言は粟田を促した。粟田は部下に佐保藁の邸内をもっとくまなく確認するように指示して馬に跨った。実言も荒益も馬に飛び乗り、王宮へと走って行った。
実言が王宮に着くと、先に到着していた粟田が弾正台長官の藤原七重に報告し、それを大王の舎人が取り次いで大王がお出ましになるのを待っていた。実言、荒益も謁見の間に入って、大王がいらっしゃるのを今か今かと待った。目まぐるしく変わる状況に二人は顔色を変えずについて行く。
舎人たちが大王の連絡役となって奥の部屋を行ったり来たりするが、大王も寝室で休んでいたのに短い間で起こされて、すぐには対応できないのかもしれない。
舎人たちが行き来するのを黙って感じ取って判断するしかなかった。
やがて、奥から続く廊下を歩いてくる衣擦れの音がした。舎人達の人数が増えたのでとうとう大王がいらっしゃったと思った。かたり、と扉が押されて開く音がして、こちらへと入ってくる人の裾が見えた。鮮やかで細やかな刺繍の裾が男とではないと分からせた。
粟田は、謁見の間の扉が開くとより低く頭を下げたが、様子が違うので顔を上げた。
「大后」
粟田は思わず言った。
「大王の代わりに参った。状況は七重の報告でよくわかった。大王のお意思だ。務めよ」
と大后は書状を差し出した。
大王の寝室に弾正台長官の藤原七重を入れて、大王はその場でこの書状を作ったのだ。大王の意思であることが表された大王の印が押された書状を。
それには、春日王子の討伐を認めると書かれている。討伐のために軍隊を組み、弾正台に所属する矢代田巻(やしろたまき)にその隊長を命ずるとある。
「早く反逆者を追うのだ。後方の支援は粟田、お前に命ずる。岩城実言、お前も同行しろ」
粟田、実言、そして実言の後ろにいた荒益は平伏して、大后が下がるのを待った。
粟田が立ち上がり、後ろの実言に振り向いた。
「矢代殿は宮廷で準備しているはずだ。岩城殿もご用意ください」
そう言うと部屋を飛び出していった。
「実言!私も一緒に連れて行ってくれ。妻を追いたい」
荒益は立ち上がった実言に言った。実言は頷いて。
「行こう。礼が朔を助け出すはずだ。その場で荒益に会えば、朔も安心するだろう」
と言った。
荒益は、複雑な表情を見せた。朔は騙されて連れていかれたとは思えなかったからだ。ただ、なぜ行ったのかと問いたかった。本当は邸にいて欲しかった。
「感謝する。実言がいなければ朔を追えなかっただろう」
荒益の顔は硬く引き締まったままで、実言を見返した。
礼は必至で馬の後を徒歩で追っている。前をゆっくりとではあるが春日王子と朔が乗った馬が進んでいる。
車の中で、春日王子は礼が乗ってきた馬を差し出すように迫った。礼は大人しく頷いたが、自分も連れて行くように言った。
「お前をか?」
春日王子は首を傾げて考えている。
「ここに侍女は帯同していないようにお見受けします。私をお連れ頂ければその役目ができます。朔のお世話をします」
と言った。
「ほう!お前を小間使いのように使っていいというのか?」
礼の言葉に春日王子は言った。頷く礼に。
「よし、お前がその覚悟なら、ついてくるがいい。しかし、少しでも怪しい動きをしたら容赦はしない」
と言った。
そして、今春日王子がは、車を捨てて礼が乗ってきた馬に乗って、都の外で待っている部下のところに行っているのだった。馬に乗った春日王子と朔の周りに従者がついて先を急ぐ。いつ、追手が迫ってくるかわからないという恐怖が、皆の足を休みなく進めていた。礼も一緒になって歩くが、気を抜けば遅れてしまう。
礼は遅れたら、小走りになって追った。時折、朔が後ろを向いて礼を心配そうに見ている。礼はその気配を感じ取って嬉しくなった。それで、礼は必死に歩き続けた。
ようやく春日王子が車に乗って合流する地点に到着した。王子は自分用の馬に朔を同じように乗せて走り出した。行く先は、都の北にある春日王子の仲間の領地である。
礼は従者の一人の乗る馬の背に乗せてもらった。一人で手綱を持つのは不安だったので、ありがたかった。従者の腹に腕を回し振り落とされないようにと気を張っていたが、昨夜から一睡もせず春日王子謀反の企ての渦中に飛び込んだ疲れからうつらうつらしてしまった。
「おい!」
必死につかまっていた胴の男が顔を半ば後ろに振り向けて背中に顔を押し付けている礼を呼んだ。礼はびっくりして、半ば寝ぼけた顔を上げてあたりを見た。
道を外れて、小さな邸や倉が建っている庭に着いていた
従者の男に手助けされて馬から降りると、先に馬を下りていた朔に近づいた。
「朔、ここは?」
「わからないわ。春日王子が先に人を遣って見つけた場所のよう。少しの休憩をするみたい」
腰を下ろすのにちょうどよい表面の平たい石の上に座っていた朔は細い腰をよじって礼の座る場所を作った。礼は朔の隣にちょこんと座った。
朔は自分が飲んだ水筒を礼に渡して、礼は水を飲むことができた。
「都を出たことがないから、ここがどこだかわからないわ。佐保藁の邸を出る前に、春日王子は行きたいところはあるかとお聞きになった。私はわからないと言うと、うんと遠いところに連れて行ってやる言われたわ。私は都から出たことがないというと、海を見たことがないのか?とお尋ねになった。はいと言ったわ。海なんて知らないもの。庭の池がずうっと向こうの山まで続いていて、行けども行けども山が見えないのでしょう」
と朔は礼に言った。
「春日王子は、海を見せてやりたいがそちらには行けないから、この旅では海に似たものを見せてやると言われたわ。水面がどこまでも続く大きな大きな池、湖を見せてやるとね。私は湖なんてものもみたことはないから、どんなものだろうか。想像もつかない」
朔はそう言って、微笑んだがその顔は疲れて苦しそうだった。
「朔、顔色が悪いわ。気分でも悪いの」
青白い朔の顔を覗き込んで礼が言った。
「そうかい……」
朔はそう答えて無理に笑った。
「もっと安全に休めるところに早く行きたい。皆疲労困憊しているわ」
ここにいる皆は深夜からのこの逃亡に突き動かされていて、疲れは隠しようもなかった。礼は呟くように言って、目の前の殺風景な夏の草が茂る庭を見た。
そこへ地表に溜まった熱を吹き飛ばすように心地よい風が吹き、朔の髪を梳いて行った。色白のか細い体の朔が風にさらわれていきそうで、礼は朔の袖を握った。それに驚いた朔はとっさに礼を見た。
「……」
朔は何を言ったらいいかわからなかったが、礼の心がすうっと体に入ってくるような気がした。朔の心にとって、何が安心かわからなかった。ここでは春日王子が自分の頼るべき人なのだが、こうして礼が現れて自分の手や袖を握って話しかけてくると、春日王子の方へ傾く体を引き戻されているようで、朔の心は揺れた。
「朔、日陰に行きましょう。暑くて、倒れてしまうわ」
礼は朔の袖を引いて、庭にある大きな木の幹の元に歩いた。二人で幹の下に腰を下ろした。
「風が気持ちいい。気分もよくなるわね」
礼が朔に微笑みながら言った。いつの間にか袖を持っていた礼の手は朔の手を握っていた。
「おおーい。出発するぞ!」
従者の一人が口に手を当てて礼達に言った。
礼がその声に気付き、立ち上がった。朔の手を握ったまま引っ張って、立ち上がらせると二人は腕を組んで春日王子の元に歩いて行った。
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