Infinity 第三部 Waiting All Night90

小説 Waiting All Night

 ゴトゴトキーキーと耳障りな音を立てながら暗い道を進み、車は無事に都から脱出した。
 春日王子は車の背面にある小窓から後ろを見て、怪しげな影が近づいてきていないか確認した。何も見えないと分かると、上げた御簾を下ろして、前を向いて座った。
 このまま牛に引かせるのにも限界がある。そのうち、大王の追手が来るだろうから、ここらで馬に乗りかえて、もっと遠くへ逃げなくてはならない。先行して密かに邸を脱出させた舎人に馬の手配をさせているが、どこで待っているだろうか。そこまではこのおんぼろな車で行くしかない。
 春日王子はこの都からの脱出に神経を尖らせた。ここをうまく抜ければ、後は逃げとおせる自信があった。
 春日王子の緊張を感じ取ってか、目の前の女の顔は蒼白で強張っている。それに気づいて、春日王子は。
「どうした?そんなに怖い顔をして」
 と、その真っ白な頬に手を置いた。女……朔は、困った顔をして下を向いた。
「怖い顔なんて」
「……不安なのだろう。もう少し辛抱しておくれ。都を無事に脱出できれば、こちらのものだ」
 春日王子はそう言って、狭い車の中で離れているのもおかしいとばかりに、朔を腕の中に入れた。
 その時、車は石に乗り上げてその衝撃で車輪が動かなくなってしまった。
「どうした!」
 春日王子の鋭い声音に随行していた従者たちは縮み上がって、車の周りを走り回った。

 もう夜明けだ。東の空が白くなっている。
 礼は、白々と明ける空を喜んだ。暗い中で馬に乗るのは難儀である。
 都を守る東門から眠りこけている門番をしり目に、都を飛び出した。朔と春日王子が牛に引かせている車を乗り捨てて、もっと早く遠くへ行くために馬に乗り換えるその前に追いつきたかった。
 王宮で訓練された馬は乗る者の気持ちをよく汲み取って、手綱の力を敏感に感じ取り礼によく応えた。
 春日王子は、都からの脱出にどのくらい準備していただろうか。都の中に春日王子が謀反を企てると噂が流れ始めたのは、月の宴の直後から。月の宴から数日しか経っておらず、非常に短い時間の中で準備をしたはずだから、今の状態は完璧とはいいがたいことだろう。礼は、その準備のまずさにかけたかった。どうにか追いついてほしい。追いついたところで、頭の中にはどうするか浮かんでいないが、追いつければ朔を助け出せる気がした。
 礼は春日王子たちから自分の姿が丸見えになるのを防ぐために馬の速度を調節して、木々に自分の身を隠しながら追っていった。この時も坂を上るのに馬を急がせていたが、頂上が近づくにつれて向こう側の様子を見るのに速度を落とした。そうしたら、前方に一台の車の姿が見えて、慌てて馬を止めた。
 見間違えることなく、それは朔が乗ってきた車だった。今、止まっていて、車の周りを従者がぐるぐる回っているので、どこか不具合が起こったのかもしれない。
 礼が哀羅王子を匿っていた別邸から自邸に帰る途中で、朔の車とすれ違った時も立ち往生していたからあり得ることだ。
 朔は馬の姿を隠すのに、道を外れて草の生い茂る中へと入った。後ろから近づく礼から見た右側の車輪の回りに三人の男が集まっている。礼は、車輪の調子が悪くて立ち往生していると見込んだ。この時を逃したら朔に近づける時はないように思えて、馬から降りて近くの木に手綱を繋いだ。そして、男たちが集まっているのとは反対側の草むらの中で身を低くしてゆっくりと車を追い越した。入口からの様子を見るためだ。
 礼は自分の腰の高さまで伸びた草の中から、じっと車の入り口に見入った。
 すると、入口の御簾が半分まで巻き上げられて、中から白い手が出て来た。
「どうした?まだ直らないのか!」
 車の中からそう叱責するような口調の声が聞こえてきた。
「すぐに直しますので、お待ちください」
 舎人の男がそう答えている声が聞こえた。御簾を持つ手が苛立ちに震えているのをみると、その手はどうも春日王子らしい。しかし、巻き上げた御簾から車の中が見えて、赤地に煌びやかな刺繍がほどこされた上着が見えた。
 朔がいる。
 御簾を持ち上げていた手が車の中に引っ込んで、御簾が下りたのを見ると、礼は草むらから飛び出し走り出していた。従者たちは車輪を直すのに気を取られていて、入口に誰も戻る気配がないと感じたからだ。
 あの中に朔がいる。
 礼は、車の前に置いてある踏み台を勢いよく踏みこむとともに、入口に手を滑り込ませると、御簾を手の甲で跳ね上げて素早く乗り込んだ。
 車の中では、悲鳴と息を呑む声がして時が止まった。しばらくして。
「誰だ!」
 と鋭い怒声が真っすぐに礼に向かってきた。
 礼が車の中に乗り込んでから壁にぴったりと背中を付けたのは、その中が狭いからだけではなく、鋭い短剣の先が礼の首元にすっと突き付けられたからだった。礼はその剣先に目を寄せて息を呑んだ。
「……お前!」
 礼は剣先から声の主に視線を移した。そこには、ギラギラと燃え滾るような光を湛える春日王子の目があった。
「礼!」
 王子の後ろで礼の名を呼ぶ声がした。
 礼も春日王子も、顔はそのままで目だけを横に動かして声が発された方へ注意を向けた。すると、声の主は礼と剣先の間に割って入って来て、春日王子と対峙した。
「朔!」
 朔の動きに春日王子は驚いたようで、朔に呼びかけた。
「私の妹です。怪しい者ではありませんわ」
 朔は淀むことなく礼を妹と言い放った。
「……怪しい者でないわけないだろう。ここへこうして飛び込んでくる者は、皆われわれの敵だ」
 春日王子はそう言って、ゆっくりと短剣の先を引いて下した。
「朔、退け!」
「何をなさいますか?」
「私はこの女を知っている。岩城の女だ。武器を持っていないか確認が必要だ」
 朔は春日王子が礼の正体を知っているのに驚き、ゆっくりと元いた春日王子の方へと膝で動いた。
「こんなところに飛び込んでくるとは、どういうつもりだ?夫の差し金か?」
「いいえ。朔は私の姉です。姉が王子様のお邸に行くところを見つけて、心配で後をつけたのです」 
「それは本当か?お前たちが姉妹というのは、うまく作り過ぎているだろう」
 春日王子は礼の腰の帯を引いた。帯で留めていた上着の前が開いたところに、手を入れて短剣などの武器がないか探した。後ろを向けと春日王子は指示して礼は素直に後ろを向いた。礼の体に何か隠されていないか掌を当てて弄(いじ)るように探した。
「何も持っていません……朔を見かけて慌てて追ってきたので」
 春日王子は疑念の目を向けて礼を見た。
「嘘はついていません」
 礼は言った。その後に朔が言葉をつづけた。
「王子、私たちは本当の姉妹ではありませんわ。それは嘘。私たちの母親が姉妹なのですわ。私たちは歳も一歳違いで、子供の頃は毎日お互いの邸を行き来して、姉妹のように過ごしていたのです。ですから、私たちの気持ちは姉妹と言っても間違いではありません」
 朔は言い終わってから、下を向いた。
「ほう、お前たちの母親が姉妹か!であれば、お前たち二人とも須和家の娘というわけだな。私の目の前に須和の娘が二人もいるわけだ。これは何かの吉兆かもしれんな。運が向いてきたか」
 と自嘲的に笑った。
「……だからといって、お前を信じると思うな。私はお前のしたことを忘れてはおらん。油断も隙もあったものじゃない。お前を連れて行くのは災いを持っていくのと同じだ」
 春日王子は礼を睨みつけて言った。
「どうか、朔の傍に置いてくださいまし。この旅に侍女を連れていらっしゃらないでしょう?私は朔の傍にいたいだけです。もし、私が気に入らないことをしましたら、その時は好きに……その短剣で突くなり、好きにしていただいて構いませんから」
 礼は春日王子の態度に怯まず、その膝に詰め寄らんばかりに懇願した。
「礼、といったな。……わかった……。お前が不穏な動きをしたなら、いつでも好きなようにいたぶってやるからな」
 春日王子はいつでも殺してやると、態度を軟化させた。
「お前はどうやって来たのだ?」
「馬に乗って」
「その馬を貸せ。この先に待っている者に使いを遣る」
 春日王子は御簾を上げて外に声を掛けた。車の中での異変に気付いてどうしたらいいかわからなかった男たちは、入口に集まって春日王子の指示を聞いた。
 礼は春日王子の姿を後ろから見つめていると、そっと手の甲に重ねられる手の感触があった。顔を上げると、朔の手が伸びていて礼の手を取っていたのだ。礼は、手から朔の顔に視線を移した。朔と目が合って朔は逆の方に顔を背けて、自分から握った礼の手を離そうとした。ふっと力を抜いて離れて行く手を逆に礼がすぐに追いかけて朔の手を握った。
「……朔、怖いわ」
 外にいる男に指示をしている春日王子は、車の中の女二人のことには気が向いていない。礼は小さな声で朔に囁いた。朔はゆっくりと礼の方を向いた。右目が潤むのを朔は見つめて、礼の手を握り返した。

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