数日後、寝るために寝所に入った実言は遅れて入ってきた礼に手紙を差し出した。
「お手紙?」
礼は、その手紙を受け取って目を通した。差出人は椎葉荒益であった。実言に、礼を我が母に遣わしてくれることのお礼がしたためられていた。
「返事は送ったから、近いうちにお伺いする日が決まることだろう。礼、よろしく頼むよ」
礼は椎葉荒益の筆蹟を見て、その人柄を思った。幼いころ、荒益と異母兄と共に遊んだ記憶が甦った。そして、四年前の月の宴で朔を連れていた姿が思い出された。
荒益の母君は都の東の外れにある椎葉家の別邸で暮らしている。その椎葉家別宅は、場所柄ひっそりとして、門も滅多に開くことはない。しかし、その敷地は広大でいくつかに区切ってそれぞれ趣向を凝らした庭があり、どれも美しく見事であると評判である。季節の折々に招かれた者はその光景に感激して、内輪の話でどこの邸の庭が一番美しいかといった話になると、必ず椎葉家別邸の名があがるほどのだった。
その場所は都の左京七条である。
約束の日、礼は、岩城本家がある左京三条から車に乗って、淑を供に連れて出発した。
時は五月で、一段と草花が若々しく息吹く季節であった。車の小窓から、外を見た淑は通りの両側に並ぶ築地塀の上からのぞく樹々の花を見て感想を口にした。
「まあ、鮮やかな花がどの家の庭にも咲いていること。こうして知らない通りを行くのも悪くありませんわね」
浮かない顔の礼を励ますように言った。
「そうね……」
しかし、礼はそっけない相槌を打つだけだった。
縦に走る大路から、横の道に入り、そこから車は小さな道へと進んでいった。位の低い者や、都で働いている人夫たちの小さな家が立ち並んでいる角を曲がると、急に築地塀がどこまでも続き始める。
「これが、椎葉家の別邸でございますね。行っても行ってもこの塀は途切れませんわね」
淑は礼が返事しないことを気にせず、独り言のように言った。
車用の門から入って、案内の侍女について邸の奥へと進んでいった。
邸の部屋に沿って続く簀子縁を曲がって曲がってと、ずいぶん奥へ進んだところで、「こちらでございます」と侍女が首を後ろに回して言った。部屋の中に導き入れられて、部屋の中から別の、古参の侍女と思われる女性が現れた。
「ようこそいらっしゃいました。奥様がお待ちでございます」
礼は、心を入れ替える気持ちで、前を向いて、少し顎を引き、部屋の奥へと向かった。
「失礼いたします。岩城礼でございます」
「どうぞ、お入りになって」
小さな声であったが、はっきりとした張りのある言葉だった。
礼は、半分巻き上げた御簾をくぐって荒益の母君が寝ている間に入った。顔を上げると、褥の上に、体を起こしてこちらを見ている、初老の女性がいた。そして、その隣に荒益が座っていた。
「やあ、礼」
「……荒益」
柔らかな笑顔と、優しい声で荒益は礼を迎えた。礼は虚を突かれて、棒立ちになったが、「どうぞ、お座りになって」という荒益の母君の声に、設えられた席にゆっくりと座った。
「よく来てくださいました。感謝致します」
「いいえ。私のような者がどれほどお役に立てるかわかりませんが、力を尽くします……お加減はいかがですか」
「今日は気分が良いのよ。……あなたにお会いできると思ったから」
礼ははにかんだ。
「実は息子にとても叱られたのよ。あなたに、このような無理なことお願いしたこと。しかし、岩城の毬様のお話を共通の友人である朱(あけ)様から聞くにつれて、私はあなたに治療をお願いしたいと思うようになったのよ。細やかな配慮や薬湯のこともひとり一人を考えていることを聞いて、私もその世話を受けたいと思ったの。しかし、岩城家の奥様を引っ張り出して、家来のように使うのは如何なものかと息子にこっぴどく、怒られましたがけども、毬様のお話を聞くにつれて、やはりあなたに会ってその慈悲深い手当を受けることをあきらめきれませんでした。無理を言って今日ここにこうして来て頂いたこと、どうかお許しください」
荒益の母君は、礼に向かって後ろに控えた侍女に支えられて話し終わると、苦しそうに咳き込んだ。
「母上!」「奥様!」
荒益と侍女は心配そうに呼んだが、母君は苦しそうではあるが、手を挙げて大丈夫であることを示した。侍女は背中をさすって、その取りついたように襲う咳の苦しみを除こうとした。咳が治まったところで、荒益がおもむろに言葉を発した。
「礼、本当にすまない。実言にも、無理をきいてもらって大変申し訳ないと思っている。この病人が聞き分けがなくて、困ったのだが。しかし、昔から礼を知っている身としては、あなたのその優しさは病人にも安らぎとなるであろうし、また実言の母上も信頼しておられるその医術の知識があれば、病人にも何か良い効果があるのではないかと、期待せずにはいられなかった。こうして、受けてもらえて本当に感謝している。あなたの言うことはなんでも聞くつもりだ。何なりと言ってくれ。この別邸は薬草を作っている庭もあるのだ。必要なものがあれば言ってくれ」
礼は荒益の言葉を頷きながら聞いていた。……しかし、先ほどから気になる視線を感じて、その視線の方を意識してしまう。
この別邸で、予想もしていない若い気配である。
礼は、そっと隣の庇の間の前に立て掛けられている几帳を覗き見た。礼のその様子に、荒益も視線をやる。几帳の陰に小さな体が膝をついて小さくなった影を薄く写しているのが見えた。
「ああ。……こら、伊緒理、そんなところに隠れていないで、出てきてご挨拶しなさい」
荒益の言葉にしばらくの間があり、影はそっと立ち上がって、几帳の陰から姿を現した。
伊緒理と呼ばれた少年は、俯いて几帳の前に一歩出て、止まった。
「これは、私の息子の伊緒理だよ」
「伊緒理……」
礼は、その少年が荒益と朔の子供であることがすぐにわかった。雰囲気は荒益を映したようだが、目元や鼻筋などは朔の美しさを受け継いでいるのだった。
「こちらへおいで。おばあさまのご病気を治してくれる方だよ。岩城の礼様とおっしゃるのだ。礼様は私やお母様とも幼き頃からの知り合いであるのだ。とても信頼の置ける方だから、おばあさまのご病気を診てもらうのだ」
伊緒理は黙って、父である荒益の隣に座って父の話を聞き終わると。
「伊緒理でございます」
と礼に向かって挨拶した。恥ずかしがって几帳の後ろに隠れていたわけではなく、その好奇心から様子を窺っていたらしい。しっかりとした声で名乗った。
「……それにしても、盗み聞きなんてどこで覚えたものだろうか。伊緒理、そんなことでは家には帰られないよ」
「まあ、荒益。伊緒理は時折発作が起きるものの、だいぶ体が丈夫になったのです。どうか、もう少し様子を見てあげて」
荒益の母君はそう言って懇願した。
「礼、うちの内情をお見せして申し訳ない。ここには、我が母上と息子の伊緒理が住んでいるんだ。二人とも病気がちでこの別邸でゆっくりと静養させているところなのだよ」
「私と伊緒理は全く違いますよ。老い先短い私と、これから将来有望な、我が家を支えてくれる伊緒理とでは。伊緒理はもう少しここで養生したら、あなたのところに帰しますから。それまでは、優しい伊緒理をここに置いてちょうだい」
荒益は微笑して、母君の言葉を聞いている。
それから、伊緒理は退席を命じられて部屋を出て行った。礼は、荒益の母君の病状を聞いてそれに効きそうな煎じ薬の名を書き付けた。
終始笑顔であった母君も、自分の若いころや荒益の幼い時の思い出話をしている頃には、さすがに疲れた顔を隠せなかった。
「そろそろおいとまいたしましょう。調子に乗っていろいろとお話してしまいました。母上様もお疲れでございましょう。ご無理をさせて申し訳ありません」
母君も荒益も首を横に振って、礼に感謝の意を示した。
「母上、そうは言っても少し横になりましょうか。……礼、母上は本当にあなたに会うことを楽しみにしていたのだ。しかし、少し無理をしたかもしれない。すまないね」
荒益は侍女と共に、母君を横にさせて、衾を首まで引き上げた。
荒益は礼の帰り支度を命じて、別室で礼と向かい合った。車の用意ができるまで、荒益は礼の相手をした。
「あなたにも実言にも感謝している。このようなことを頼めるわけでもないものを、こうして訪れてくれた。母は、今日は気丈に振舞っているが、いつもは胸がとても苦しそうで体調は良くないのだ。あなたの優しさがきっと安らぎを与えてくれると思う」
礼は、荒益の言葉を静かに聞いていたが、ふと顔を上げて聞いた。
「……朔は……伊緒理を」
荒益は、表情を硬くしたがすぐに目尻を下げて笑い顔になった。
「伊緒理は体の弱い子でね。小さな頃からよく熱を出して寝込んでいた。下にもう一人息子がいるのだが、その子と比べてしまってね。少し、寂しい思いをさせているのだ。母がそれを不憫がってこちらに呼び寄せて一緒に静養しているというわけさ。朔は、朔で伊緒理に手紙を書いたり、着るものを届けたりと気にかけているのだがね」
「ええ。……朔は元気かしら」
礼は朔に思いをはせて、すぐに荒益の母に心を戻した。
「……お母様には咳に良い薬湯の調合を書いたものをあとで届けるわ」
荒益は頷くと、丁度礼の車の用意ができたと、家人が呼びにきた。
邸に帰ると、実言はまだ帰って来ておらず、留守番をしていた子供たちが簀子縁まで出て飛びついてきた。二人を引き連れて部屋の中に入ると、口々に母がいなかった間に起こったことを話し始めた。我先にと話し始めて声が重なるのも構わずに二人は訴える。礼は、幼き子が一心に話すのが可愛らしく、微笑んで聞いた。
椎葉家別邸で会った荒益と朔の子供の伊緒理は八つだという。目の前の我が子たちも、そのうちあのように落ち着いて挨拶が出来るかしら、と考えたりした。
「旦那様がお帰りになりました」
侍女の澪が、控えめに庇の間に入って告げた。子供たちはその声に一斉に黙って、耳を澄ました。母屋とこの離れをつなぐ渡り廊下を渡っているところだろうと思われるが、子供たちはそのゆっくりとした足音を聞きつけて。
「お父様!」
実津瀬が叫んで、簀子縁へ駆け出した。蓮も後を追う。二人の名を呼ぶ実言の声がして、礼は立ち上がり、実言が座る場所を整えた。実言は、庇の間に二人の手を取って入ってきた。その後ろには、舎人が大きな箱を持ってくる。
「そこへ置いておくれ」
実言は居間の隅に置くよう言いつけると、舎人は箱を置いて退出した。子供たちの手を離して、腰に下げた太刀を礼に渡し、袍を脱いだ。人心地ついた実言は部屋の真ん中に座ると、子供たちを膝に抱いて礼に箱を開けるように言った。
「何かしら?」
礼は箱の前に座り、少しその箱の外観を眺めた。そして、上蓋に手を掛けたときに実言が言った。
「荒益と母君から届いたものだよ。私と礼にくださったものだ。手紙もいただいた」
礼は勢いよく蓋をあけると、美しい織物や、透かしの柄の入った紙が入っていた。いただくには申し訳ない良いものである。
「お礼の手紙を書くわ。薬湯の材料もお届けしなくてはいけないし」
礼は恐れ入って、子供たちを夫に預けて、机に向かい返事をしたためた。
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