Infinity 第三部 Waiting All Night89

小説 Waiting All Night

 どれくらいの時刻が経っただろうか。礼は、どれだけ時刻が経とうとも礼はその場を動こうとはしない。
 朔は邸の中で何をしているのだろう。……春日王子と何を……。
 礼は、膝の上に置いた拳をじっと見つめて、朔が邸から出て来るのを待った。
 急に礼は胸騒ぎがして、目の前に垂れている御簾を上げた。
「奥様?」
「あの邸に何か変わった様子はない?」
 外で地べたに座っていた従者は立ち上がった。
「門の方を見てきてくれない?気を付けてね」
 従者の男二人は仕方なしに塀に体をくっつけて、朔の車が入っていった門をそろそろと覗いた。すると、その裏門の内側が明るくなっている。松明が焚かれて、人が行き来しているのが分かった。
 何かが起こる、と思ったら、目の前を四頭の馬が走り抜けていった。馬上には勇壮な男たちが一人の男を中心に守るように取り囲んで走っていく。
 これを従者たちは、この邸の主が馬に乗って外出したと思った。慌てて一人を残して、男が礼のいる車に戻った。
 報告を受けた礼は、「わかった」と言ってもう一度門の様子を見に行ってくれと言った。
 礼の胸騒ぎは止まらない。頭の中にぼんやりと浮かぶ人の姿は、朔だろう。朔がどうなるのかが気になる。
 須和という家に生まれ出た女人は、不思議な力を持っていて、その女人をもらった家は栄えるとまことしやかに言われている。その家の血を引く礼は少し先の未来が見えるという不思議な力があった。強く思うとその先のことが脳裏に見えるのだった。
 馬に乗った小集団は見せかけである。その中に、この邸の主人である春日王子はいない。朔はまだ春日王子とともに邸の中にいる。
 脳裏に浮かび出るこの先の出来事の予想に礼は、たまらず御簾を跳ね上げて車から降りた。ちょうど踏み台が置かれたままだったから、礼は容易に車から下りられた。
 礼が駆けつけると、従者の男二人がぴたりと塀に体を付けて、朔の車が入って行った裏門の入り口を窺っていた。
「どうなっている?」
 後ろからいきなり声がして、二人は驚いた。声を上げそうになるのをこらえた。
「先ほど車がこの前を通って行きました。大きな車で、従者も数人ついていたので、あの車に乗っておられたのではないですか?」
 と言った。礼は頷いて聞いている。
 すると、裏門の内側が騒がしくなり門が開いた。三人は一度塀に身を引っ込めてから、ゆっくりとその角から顔を半分のぞかせた。開いた門から松明を持った男たちが出てきて、門の入り口を照らしている。そこから小さな車が出て来た。
 それは朔が乗ってきた車だとすぐにわかった。ゆっくりと出てきて、立ち止まることなく三人の従者に付き添われて都を東へと向かった。
 礼はその車を見送って、すぐさま塀の奥へと引っ込んだ。従者二人にも車に戻ると手の動きで示した。
「奥様、今からあの車を追うのですか」
 と車に戻ると従者の一人が言った。
「……そうね」
 と礼は言ったが、その後は黙っている。
 朔は行ってしまった。椎葉の邸とは反対の方向へと行ってしまった。
 朔を助けるためにはどうしたらいいだろう?誰も手の届かないところへ行こうとしている朔に、自分は何ができるというだろうか。
「奥様、まずは車に乗ってください」
 無防備に立っている礼を気遣って、従者たちは言った。礼はその言葉に従って車の中に入ったが、朔の車を追えとも、岩城の邸に戻るとも言わなかった。
 もう夜明けである。礼はこの先をどうしたらいいかと迷っていると、急に春日王子の邸の周りが騒がしくなった。

 実言は弾正台の役人たちとともに、王宮から佐保藁の春日王子の邸へと馬で駆けつけた。
 閉ざされた門の前で、役人は大声で訪いを告げた。しかし、門の内側は静かで、門はぴくりとも動かない。遅れて徒歩できた兵士たちが門の周りに集まって、何重にも層をなして、いつ開くかわからない門を睨みつけてた。
「我は粟田比曽也(あわたひそや)である。弾正台長官の命によって参った。門を開けていただきたい!」
 二度目の訪いを入れると、門の内側が少し騒がしくなった。閂を外す音が聞こえ、ゆっくりと内側に引かれて門は開いた。
 馬上から粟田はおりて、門の中に入って行った。
「春日王子はどこだ?案内しろ!」
 と迫った。
「……春日王子は……ここにはいらっしゃいません」
「何?嘘をつくとためにならぬぞ」
 と脅した。それでも、門の前で対応する男は、黙ったままだった。
「本当かどうか、確認させてもらう」
 と粟田は言って、男の体を押して邸の中に入った。それを合図に、槍を持った兵士が雪崩れ込んだ。
 大勢の兵士が邸の中を容赦なく縦横無尽に駆け回って、夜明け前の春日王子の邸の者たちは悲鳴を上げて逃げまどった。
 実言、そして荒益は遅れて馬から降りて門の中に入った。
「乱暴はいけない。春日王子を探すのだ!」
 どこからともなく兵士の行状を咎める声が聞こえた。
実言たちはすぐに目の前に広がる庭を見て、この邸の広さと立派さを見て取った。
兵士二人と話し込んでいる粟田のところへ実言と荒益は近寄って行った。
「それは本当か?」
 と粟田は兵士に問うた。
「はい、春日王子はこの邸から出て行ったと。車に乗るのを見たと言っています。馬や車が何回か邸を出て行ったとも。春日王子はやはりこの邸を後にしたのでは……」
 粟田は実言と荒益の方へ向いた。
「邸の者はすでに春日王子は邸を出たと言っている。王宮の動きを察知して都を出たのだろうか?」
 皆は春日王子がすでに邸を脱出したとしたらどこへ行くだろうか、と考えた。春日王子は全国に領地や関わりのある豪族の網を作っていた。特に、西では筑紫に春日王子と懇意にしている豪族がいる。東国にも、春日王子の同調者で国司として赴いている者が数人いる。どちらに向かわれたものだろうか。
「見つかりません!」
「春日王子はいません!」
 と次々と声が上がった。粟田と実言、荒益はその言葉に押し出されるようにもう一度門の前に出た。

 礼は従者の男たちの静止を振り切って、春日王子の邸の正門へと歩いて行った。何が起こったのかを確かめるためだ。何も隠れるところがなく、礼は小さな姿をそのまま晒していた。
 皆の意識は正門に出て来た弾正台の役人である粟田比曽也に向いている。礼は静かにその輪に近づいた。
 血眼になって探しても春日王子の姿を見つけられなかったことを受け止めるように沈痛な面持ちで粟田が現れ、その後ろから実言が出て来たのを見て、礼は驚いた。それと同時に、夫に頼るしかないと思った。また、勝手なことをすると怒られそうだが、これは自分にしかできないことだから、どれだけ反対されてもやめる方に考えを変えることはできなかった。

「なんだ、お前!」
 粟田の周りに集まった兵士の最後列からそのような声が上がった。
 粟田もそしてその後ろにいた実言と荒益もその声に反応してその方向を向いた。
「お前は誰だ!」 
 そのような声が聞して、その人物は前へ前へと押し出された。
 実言は荒益と目を見合わせていると、人に押し出されて飛び出してきたのは、小柄な女人だった。
 ぱっと顔を上げた姿を見た実言は反射的に門の外に走り出した。
 左目に眼帯をした女人が現れた。それはもう、見れば誰だかわかった。
 我が妻である。
「礼!」
 そう呼びかけると、礼も顔を上げて実言を見て、ほっとしたような顔をして駆け寄ってきた。
 妻には邸に戻って子供達と一緒にこの一晩、邸を守ってくれと言ったはずだが、なぜこんなところにいるのか、どう考えても理解ができなかった。
「礼!」
 妻の名を呼ぶだけで、その先の言いたいことをすぐには言い出せなかった。
 自分の懐に飛び込んできた礼を隠すように、実言は門の内側に連れて入った。粟田も荒益も、その姿に驚いて、一緒に門の内側に入って、人の出入りを止めた。
「なぜ、お前がここに!」
「実言、春日王子は三つの集団をこの邸から出したわ。二つは囮よ。春日王子は、小さな車に乗って行ったわ。春日王子を私に追わせて、お願い」
 と実言の問いには答えずにそう言った。
「どういうことだ?お前はなぜここにいる!」
 強い口調で言われて、礼はやっと実言の気持ちを思いやることができた。
「ごめんなさい。あなたの言いつけを守らないで」
 と顔を俯けてしおらしく言ったが、すぐに顔を上げると、一つの眼が実言を真っすぐに見つめて来た。
「でも、だからといって、帰られない。春日王子を追わせて欲しいの」
 と自分の望みだけを言う。
「なぜ、お前が春日王子を追うのだ。それは私たちがすることだ」
「……朔がいるの。春日王子が朔を連れて行ってしまった。朔を追わせて。助けたいの」
 礼は、実言の袖を掴んで懇願した。礼の言葉に黙って聞いていられないのは、荒益だった。
「礼、それはどういうこと?朔が、朔が春日王子と供に、この邸を出て行ったと?」
 礼には実言しか見えていなかったために、急に横から荒益が現れたように思えて驚いた。
「荒益!」
「なぜ、私の妻が春日王子とともにいるというの?」
「……わからない。邸に帰る途中に、朔の車とすれ違ったの。車から聞こえ来た声で朔と分かって、つけてきたらこの邸に入って行ったわ。それから出て来るのを待っていたのだけど、馬に乗った集団と、大きな車と、小さな車がこの邸から出て行った。先の馬と大きな車は春日王子がいると思わせるための目くらましだわ。最後に出て来た朔が乗ってきた小さな車に二人は乗りこみ、都から出るつもり」
「なぜ、そんなことが分かる?」
 礼の話に、弾正台役人の粟田も耳を傾けていて、そう尋ねて来た。礼は知らいない男に問われて、そちらに目を向けた。
「お前には見えるのか?」
 実言は妻の力のこと、須和家の女が受け継いでいる不思議な力で見えているのかと聞いた。礼は知らない男から実言の方を向いて、頷いた。
「囮の馬は西に行った、海を渡ったと思わせようとしている。大きな車は都を南に下っていくだけ。そして、最後に出た小さな車は東を目指して行く。都を出たら馬に乗り替えるだろう。そして、北に向かう。海と見紛うような大きな湖に向かうつもりだ。その前に朔を追わせて、朔を助けられるのは私しかいない」
 と礼は言った。
「お前には見えたんだな!ああ!」
 実言は嘆きに似た声をあげた。礼は実言の気持ちを解することなくその声に被せるように言った。
「あなたの馬を貸して」
「春日王子を追うのは我々の役目だ。そなたが行くことはない」
 と横から礼の知らない男……粟田が入り込んできて言った。
「この方は、弾正台の役人である粟田殿だ」
 礼はそれで、この男が春日王子を逮捕するのに必要な人物であると合点がいき頷いた。
「あなた方は、これから王宮で大王の命をいただき、春日王子逮捕のための討伐隊を作られるでしょう。その間に、春日王子たちは遠くに行ってしまいます。春日王子を追われるのはあなた方。私は姉の朔を追いたいのです」
 礼は言うと、実言の袖を掴んで門の外へ行こうとする。
「春日王子はあなたが追って。私にはその助けができるはず。だから、私を行かせて」
 と礼は実言に顔を近づけて囁いた。
「朔を助けたいの」
 実言は人目を憚らず礼を抱きしめた。しばらく。
「……礼」
 実言は言うと、礼を離した。
「馬を持ってこい!」
 そう大きな声で言うと、礼の腕を掴んで礼とともに門の外へ向かった。
「実言!本気か?」
 荒益は実言と礼の後ろを追いながら言った。実言は荒益の方に少しばかり視線をやり、笑うとすぐに前を向いた。
「礼、どんなことがあってもこれだけは守って。何よりもお前の命が大事だ。危険なことはしない。危ないと思ったら思いとどまるんだ。そして、必ず私の元に戻って来るんだ。いいね。これが守れると言えないなら、行かせられない」
 礼は、すぐさま頷いた。
「守ります。必ず戻るわ。あなたの元に」
 と実言を見上げて言った。その表情は嘘偽りのない真っすぐな決意だった。
「……酷いね、礼」
 実言はこんな時だというのに、破顔してしまった。
 礼の心を奪ってしまうものへの嫉妬が笑いになってしまったのだ。
 引かれて来た馬に乗せるため、実言は片膝をついて、跪いた。そこへ礼が足を載せて、それを跳ね上げるようにして礼を馬上へと上げた。礼は鞍の上に乗って座り心地を確かめている。
「お前を信じるよ。お前が私たちをいつどんな時も一番に思ってくれているとね」
「当たり前よ。……当り前じゃない」
 礼は言った。
「道しるべを置くわ。それをたどって来て。朔を助け出して、あなたが来てくれるのを待っているから」
「お行き。私もすぐ追う」
 言葉を多く語れば語るほどに、離れがたい。いや、実言の本心は行かせたくないのだ。それを隠して、馬の尻を叩いた。
 礼は馬に体を持って行かれながら、実言を見つめた。頭の中は朔のことでいっぱいだが、心の中は実言や我が子への思いが湧き出でて溢れる。
しかし、実言がふっと口の端を上げて笑うのが見えて、前を向いた。しっかりと手綱を握り、自分の我儘を貫き通す覚悟を持った。

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