Infinity 第三部 Waiting All Night88

小説 Waiting All Night

 かたり。
 見据えていた扉の錠が開く音がして、哀羅王子は一層緊張した。
「王子」
 即座に隣に座っている実言が声をかけた。
「大丈夫だ。心は決まっている」
 弾正台の役人の男が扉からこちらに出て来た。
「中へ」
 短い言葉で言って、扉の正面にある体を退かせた。
「さ、王子、中へ」
 実言は哀羅王子の体を支えて立ち上がらせた。腕を吊っていて痛みもあるため、王子はすぐに自分では立てなかったのだ。立ち上がった王子は、実言の手からも離れて自身一人で謁見の間に続く三段の階を上がった。
 実言はその後ろに続く前に、この先は遠慮しようと座ったままの荒益の袖を掴んだ。驚いた荒益はとっさに実言の方を向いた。実言は何も言わず、強い力で引き寄せる。立ち上がらずを得なくなった荒益は、戸惑いながら実言の手に従った。
 今夜、何か起こるかもしれないと臨時の宿直にあたっていた時に、宮廷に馬が乱入したと聞きつけて、それも岩城実言が乗っていると聞きつけて走ってきた。実言に請われるまま哀羅王子の傍についてここまで来たが、この先で話されることに自分が入り込むことはないと思っていたのに、実言の行動は意外であった。
 哀羅王子を先頭にその後ろを実言と荒益が並んでゆっくりと、扉の内側へ、大王の面前へと向かった。
 大王は目の前の扉の暗がりの中から、灯台の灯りの届くところまで歩み進んできたその男を目の当たりにした。
「……!」
 言葉にならない驚きは、とっさに出た吐息で表された。
 弾正台長官の七重も、あえて訴人である王族が誰なのか聞かなかったので、この時に初めてその人を見たのだった。
「哀羅……」
 大王は悲哀のこもった声でその男の名を言った。
「お前が訴える、謀反を企てる王族とは誰なのだ……」
 哀羅王子が普段誰の傍にいるか……思い起こせば、くっきりとその人の顔が浮かんでくる。大王は、まさかあの男なのか……と想像し、そうであってはならないと、その想像を振り払おうとした。
「大王、謀反を企てている方は、この方でございます。これが証拠となるものです」
 哀羅王子は、弾正台長官、太政大臣、内大臣が向かい合って座っている間をその体をすぼめて進み、大王と大后の前に出た。
 哀羅王子は園栄から戻された革の中の書状を取り出して傷を負っていない手で持ち、傷ついた腕を添えて両手で大王の前に差し出した。
 大后が立ち上がり、哀羅王子の手からその折りたたまれた書状を受け取ると、広げて大王に手渡した。
 大王はその白い紙の上に、視線を落とし端からじっくりと読んで行った。その後ろから、大后もその黒い文字の意味を確認して言った。
「……これは!」
 大王は絶句した。手に力がこもって書状をくしゃくしゃにするか、左右に引っ張って真っ二つにしそうな勢いを、大后はとっさに大王の手に自分のそれを重ねて止めた。そして、言葉なく、そっとその手から奪い取った。
「…………春日……」
 大王はやっと言葉を取り戻したように、呟いた。
「哀羅王子……これはどういうこと?説明をしてちょうだい」
 大后は自らの手に取った書状にもう一度目をやって、書かれている名前を端からじっくりと目に留めた。
「春日王子は、次期大王になるためにご自身の勢力を高める様々な方を取り込まれようとしました。そして、春日王子の元に集まった者たちがそこに名前を書いた者たちです。その者たちは、春日王子が大王になることを支持し、その道に邁進し、それが断たれたときは、春日王子のために戦うことも辞さないことを誓ったのです」 
 大王は気を失いそうになるのを止めようと椅子に座ってゆっくりと息を吐いた。
 大后は、至って冷静にその書状を膝の上に置いて、哀羅王子に言った。
「ここには、哀羅王子の名もあるではないか。これは、誰が書いたというのだ」
 哀羅王子は、暫く下を向いたままだったが、唇をぐっと噛んで意を決してから顔を上げた。
「それは、私が…私自身が書いたものです」
 と噛みしめるように言った。
「哀羅王子……なぜ?」
 大王は言葉を失うほどに驚嘆していて、代わりに言葉を発するのは大后だった。大王の気持ちを代弁するように見えるが、しかし、それは大后の疑問でもあった。
 今、なぜ哀羅王子は春日王子を裏切るのか。
「子供の私は、父である渡利王を失しない、父との縁から岩城園栄殿の庇護を受けることになりました。岩城殿の権勢に守られ育つ私が、将来、ご自分の脅威になるかもしれないと思われ、春日王子は自分の仕業であることを隠して、私を攫うように騙して吉野の山の中に閉じ込めたのです。私はそうとも知らず、山の中での厳しく惨めな生活は園栄殿のせいだと恨み、恨み切った頃に、春日王子はさも自分が見つけだしたと言わんばかりに私を都にお戻しになった。頼る方もいない私は春日王子の言うことに従い、その言葉が正しいと思ってついて来たのでした。しかし、私は春日王子に率直に尋ねて、春日王子は吉野へ連れて行ったのは自分だとお認めになった。私は、私を陥れたのは春日王子と知り、目が覚めたのでした。私は春日王子に心酔していたわけではなく、岩城殿が憎くてその反対側の勢力にいるだけと。私は、私が春日王子について大王を追いやろうと画策した側にいたことを認めます」
 そこで、哀羅王子は言葉を切って、気づかれないようにゆっくりと呼吸を整えた。
「この場に、参りましたのは春日王子を裏切り、こうして春日王子の謀反の企みの証拠を持って訴え出て、王族の一員として大王に忠誠を誓うとお伝えしたい。叶うなら、大王の広いお心にすがり、どうかこの私をお許しいただきたいのです」
 哀羅王子は、その額を板の上にこすりつけて平伏した。
 哀羅王子の言葉に、椅子に座って聞いていた大王は、額にやっていた手を下ろして、哀羅王子を見下ろした。小さな男が、畏まって頭を垂れていた。
 大王の心の中は自分の右腕と思っていた弟が自分を殺してまでもこの座に座りたいと思っていたなんて、考えもしなかった。
 胸に矢が刺さったような苦しさが大王の体内を駆け巡って、椅子の背もたれに身を預けた。身動きできない大王を助けたのは、大后だった。
 大王が椅子のひじ掛けにだらりと力なく置いた手の上に、大后は自分の手を重ねた。
 大王が目を上げると、静かな声で大王に囁いた。
「大王、その心の痛みは想像を超えたお苦しみだと推察致しますわ。しかし今は、大王として決断するべきことが二つあります。どれも苦しいことばかりですが、まずは目の前の青年の裏切りの告白をどうご判断されるのか……。そして、もう一つは春日王子の謀反の企てにどのように対処されるのか。これをここで決めなくてはいけませんわ」
 そう言った後、大后は少し歩いて一段下にいる弾正台長官の藤原七重に、哀羅王子が持参した春日王子の謀反の証拠という書状を手渡した。
「大切に扱え。大切な証拠だ」
 と言って、大后は背中を向けて大王の隣の椅子に戻った。
 七重はその書状を開き、端から端までじっくりと目を通し、それを太政大臣に渡した。園栄はすでに見て知っているが、一通り目を通して内大臣に渡す。内大臣は震える手でその書状を受け取り、右端からゆっくりと目を通した。一旦収めた手の震えは激しくなって、それを見た岩城園栄が。
「もう目を通されたでしょう」
 と言って、書状を受け取って藤原七重に手渡した。
 これで、ここにいる者たちは春日王子のその企みと、その企みに加担していた哀羅王子の裏切りと懺悔を共有した。
 大后が椅子に座りなおすと、先ほどと同じように大王の手の上に手を置いた。大王は横を向いて大后の顔を見た。大后も大王の視線を受け止めるために大王の方を向いた。
 目が合って、大王は気持ちの区切りをつけるように頷くと、前を向いて言葉を発した。
「哀羅……どうであれ、この書状を持って私のところに来てくれたことには、礼を言う。我が弟がこのような企みを持っていたとは想像もしていなかったことだ」
 そう冷静な声音で話し始めた。その表情は、真夜中に起こされたことに不平を言ったり、体調がすぐれなくて気弱になっている大王ではなかった。この国を治める最高位の人物の顔になった。
「……しかし、お前も騙されていたとはいえ私を倒して春日の世になればよいと一度でも思って、その活動に加担していたというのだから、ただで済むとは思うなよ。私の情けにすがりたいと、そんな甘えたことが通るなんて思ってもいまい。その命はもう捨ててここに来たと思うが、違うか?」
 大王は話し進めるほどにそこ声音に凄味が増して、静かな謁見の間に響き渡たり、夏だというのにその場に控えている者の心を冷やした。
 哀羅王子は、誰にも聞き取れないほどの声で「はい」と言った。
「捨てた命を私が拾うだろうか?お前の忠誠を本物と誰が言うのだ?一度寝返った者は、それが癖になるだろうから、簡単には信じることはできない。哀羅……」
 大王の声は急に大きくなり、哀羅王子の前で空気が揺らいだ。
「剣を」
 大王は自身の左に控える護衛官の男に言った。
 その場の皆が身構えた。大王が剣を手に取るということは、この先どうなるか。固唾をのんでその先を見守った。
「哀羅……お前は春日を裏切って、私に命を渡すというか?」
 護衛官が傍の剣掛けにある大王の剣を取って、両手で捧げて持って来た。大王はその柄に手をやり、しっかりと握り、数歩前に歩いて、一段下に控える哀羅王子の前に立った。
「……はい。それは、大王に差し出します」
「よし!それであれば、その命を私が好きにしても構うまい」
 と高らかに言った
 大王の言葉とともに、大王の肩に着せかけられていた上着が滑り落ちた。それは、大王の剣を握った腕が高く振り上げられたからだった。
 その場にいた誰もが、下を向いたまま大王の動作の終わりを待った。
「覚悟しろ!哀羅!」
 大王は言い、剣が振り下ろされた。その剣は容赦なく哀羅王子の左肩に食い込み、その小さな体を沈ませた。
 誰もが口から飛び出しそうな声を噛み殺した。または唸るような吐息と荒々しい鼻息が漏れた。
「……私は、私に反旗を翻す弟さえも許したいほど情け深い男だよ。……哀羅、私への謀反の企みに加わったお前は今打ち据えて殺してやった。この先は生まれ変わったと思って、私に忠誠を誓い、私のために生きろ。いいな!」
 上から、哀羅王子に浴びせるように言った大王は、踵を返して椅子の方へと歩いた。迎えるように立ち上がった大后は、言う。
「大王、しかし、春日王子のことは、放っておけませんわ。あなたの命を奪い権力を我がものにしようと企むなんて、このまま不問に付すことは無理です。私は許せません」
 大后は、継ぐ言葉の最期の方は、一人のその男の妻として心配するというような言葉使いになって言い募った。
「ああ、わかっている。……春日の邸に人を遣ってくれ」
 大王は妻に向かって言った。大后は頷いて、大王の向こうに見える太政大臣の園栄を見た。
「しかし、もし抵抗しても、無体なことはするな。生きて私の前に連れてきておくれ。私は弟と話がしたい」
 と大王は続けた。
「大王、すぐに弾正台の役人を向かわせます」
 藤原七重が言うと、向いにいた園栄がすかさず大王の背中に向かって言った。
「大王、ここにいる私の息子の実言も加えてください。必ず、大王の望まれることを成し遂げます」
「ああ、加えるがよい。私の言葉を直に聞いたからには、その思いをわかってくれるだろう。行って弟を私の前に連れて来い」
 大王は剣の鞘を抜かなかった。鞘に入ったままの剣を哀羅王子の左肩に打ち据えたのだった。重い剣は、華奢な哀羅王子の肩を砕くような衝撃を与え、哀羅王子は肘をついて体を支え、その痛みに耐えた。
 奥の部屋に向かおうとする大王に、大后はそっと寄り添った。そのしぐさに大王の左手を大后の腰に回して、そっと抱いた。大王の体が離れると大后は大王の右手から剣を受け取った。大王は振り返ることもなく宮殿の奥の寝室に戻った。大后の受け取った剣をすぐに護衛官の男が受け取った。大后は半身を後ろに翻して、哀羅王子の周りにいる者たちに言った。
「哀羅王子の手当てをしてやって。大王の医者を特別に遣るから。見れば、ここに来るまでに傷を負っているようじゃないか。早く部屋に連れて行って横にしておやり」
 大后も大王に続いて王宮の奥へと入って行った。
 実言は弾正台長官や太政大臣のいる位置に進み出た哀羅王子のところに駆け寄った。後ろから王子を支えると、哀羅王子は崩れ落ちた。剣の衝撃に耐えていたが、どこかの時点で気を失ったようだ。
「哀羅様!」
 実言は叫ぶと、その腕の中で哀羅王子は微かに瞼を震わせた。左腕の傷口が開いて、巻いた白布が赤く染まってきている。
「早く、どこか開いている部屋に!王子の傷が」
 実言は顔を上げて言った。
「実言、後は私がやる。哀羅王子は私がお助けする。お前は七重殿の指示に従って、弾正台の役人と一緒に春日王子の邸に行け」
 と、園栄が言った。
 実言は園栄の腕に哀羅王子を託した。
「父上、王子を頼みます」
 そう言うと、実言は立ち上がり、謁見の間を飛び出した。
「実言!」
 簀子縁を走り出した実言を後ろから呼ぶ声に、実言は振り返った。そこには荒益がいた。
「実言、私も一緒に行ってはだめか?」
 実言はすぐさま答えた。
「私が荒益をこの場に連れ込んだのだ。申し訳ないことをした。荒益が来てもいいというのなら、この先も一緒に来てくれ。私もこの先を行くのに、荒益がいてくれると心強い」
 荒益は頷くと、二人は走り出した。

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