春日王子の邸の中に入って行った朔の車は、すぐに訪いをかけた。
こんな夜に人が訊ねて来たことに邸の者たちは少し驚いた風だったが、暫くすると朔は部屋に案内された。すぐに春日王子に取り次がれて話が通ったのだろう。
佐保藁の邸に初めて来たのは、この邸に咲く桜を見せたいと春日王子が言ったこの春だった。その時通された部屋へと向かっているのだと分かった。夏になって青々とした葉の茂る庭は少しばかり様子は違うけれど、春に見た庭と同じである。
王子からの手紙を胸の中に入れている。この手紙にあるように、夫の不利になるようなものを王子から受け取って帰らなければならない。こんな時に春日王子が朔をたばかるとは思えなかった。王子も必死であろうし、朔も夫の名誉や命を守るのに必死だ。
前を歩いていた侍女が立ち止まって後ろを振り返り、どうぞというように腰を少し折った。朔は侍女を通り越し庇の間に入った。そうすると、すぐそばから。
「やあ」
と声が掛かった。朔が顔を上げると、庇の間に立って庭を見ている春日王子と目が合った。
「春日王子……」
「遅かったではないか」
「はい……途中で車の車輪が壊れてしまってその場で修理するのに手間取りました」
朔は再び春日王子を見上げると、王子は笑っていた。
「必ず来ると思っていた」
荒益と王子が繋がっている証拠を目の前にぶら下げれば、朔は必ず来ると思っていたのだろうか。
春日王子は奥の部屋で座っていると思っていたので、朔は庇の間にいることに驚いた。
「庇の間でどうなさいましたの?」
「月を見ていた。先ほどまで、雲が月を隠していた。雲よ、早く退けと祈っていたが、どうも私の祈りは通じなかったようだ。今頃になって流れて行ったわ」
春日王子は雲一つかかっていない明るい月を見上げて言った。朔にはその顔は寂しそうな表情に見えた。
春日王子は月から目を離して反転すると部屋の奥に向かった。朔はそれについて王子の後ろを歩いた。
「春日王子、手紙を受け取りました」
「ああ、そうだな」
春日王子は、部屋の中央の円座の上に座った。すぐにその前に跪いて朔は言った。
「椎葉家は王子と何か関わりを持っていたでしょうか。私は存じ上げておりませんでした。夫は春日王子とどのような関りを……」
「朔」
春日王子は話を遮るように言った。朔が王子の顔を見ると。
「寂しいね……」
と呟いた。
「春日王子……」
「来るなり夫の話など……椎葉家が私と通じていないことは知っているじゃないか。送った手紙のこと、まさか真に受けているのか。夫が私と何か政で関わりがあると信じているのか?」
春日王子は目の前の朔の顔を見つめた。
「あれは口実だよ。お前が私のところに来るのに、何の理由もないと困るだろうと思って書いてやったものだよ。それを、知ってか知らずか来るなり家のことや夫のことを聞いてきて、本当に夫のことを心配してここに来たのではあるまいな?」
朔は下を向いた。動揺した顔を春日王子に見られないようにと咄嗟のしぐさであった。何とか顔を隠したが、心の中は自分の考えの単純さを恥じた。書かれたことを書かれた通りに読んでこんな夜にここまで来てしまった。
今夜宿直に行く夫は邸を出る前に朔を胸に抱いて、今夜は邸から出てはいけない、邸を守ってくれと言ったのに、その願いをこうも簡単に破ってしまった。
春日王子は下を向いた朔へと語りかけた。
「朔、お前が夫のことを気にすることはわかる。お前にも世間の目があるからな。しかし、夫だけがお前の男ではあるまい」
膝の上に乗っている朔の手を取ると、春日王子は一気に朔を引き寄せてその腕の中に入れた。
「お前も知っているのだろう。私は謀反人へと仕立て上げられているところだ。そうなるかならないかは今夜で決まる。もうすぐわかるだろうよ。今思えば誰も味方してくれなかった。月さえも。今夜は皓皓と輝き、都を一つの陰もないほど照らしてほしいと思っていたのに、雲に隠れてしまった。それが運の尽きかもしれない。一人きりの私が、傍にいて欲しいと思ったのはわが妃でも他の妻たちでもなく、お前だよ、朔」
春日王子は胸に押し付けて朔を抱く力を緩めて、その頬に手を当てて上を向かせた。
「傍にいて欲しいのはお前だ。こうして来てくれて嬉しい」
そう言うと、春日王子は再び朔を抱いた。朔の胸を潰してしまいそうなほど強く。朔は苦しいと感じながら、春日王子の飾りのない言葉に驚いていた。
夫を愛していると分かり、夫の元に戻ると決めた。そして夫を守るためにここに来たつもりだ。なのにこうして、情人に優しい言葉を言われると、自分は誰を本当に愛しているのかわからなくなる。春日王子の言葉に、王子の思いにこんな状況だというのに心くすぐられて喜びを感じているのだから。
数多の女人が春日王子に愛されたはずだが、その中から王子は自分を選んだのだ、という優越に浸ってしまいそうになる。
朔は春日王子の言葉がどのような表情で発せられたのかと、ふっと春日王子を仰ぎ見た。春日王子は朔の視線に合わせて朔を見下ろした。目が合った王子は微笑んでいて、朔はその笑顔になぜか安心するのだった。
「朔」
春日王子は朔の名を呼ぶと、素早く朔の唇に己のそれを重ねた。柔らかな口づけは、すぐに深く朔の体の中を打つような強いものになった。しかし、朔はその口づけに挑むように応じた。激しく吸われた後、合わさった唇はゆっくりと離れた。
朔はすぐさま春日王子の胸に顔を伏せた。自分の過ぎた行動を恥ずかしく思ったのだ。
春日王子は朔の激しく返す口づけやそれを恥ずかしがって、今自分の胸に顔を伏せる姿が可愛らしく、その頭を柔らかく腕の中に包んだ。
その時、簀子縁を慌ただしく走り寄ってくる足音がした。舎人は勢いよく庇の間に入ってきて、「王子!」と叫んだ。部屋の中へと進むと、周りを囲む几帳の間から春日王子が女と抱き合う姿が見えて、前のめりになる体を押さえて立ち止まった。
「なんだ?」
「……いいえ」
見知らぬ女の姿に戸惑った舎人に、春日王子は言った。
「構わぬ、言え。この者には聞かせてもよい」
「……はい。先ほど王宮から遣いが参りました。……哀羅王子は王宮に入ったとのことです。もう、岩城の息のかかった者たちに取り囲まれて、こちらは手も足も出せぬようです。我々は、極まったかと……」
声を詰まらせながら、舎人は言った。
「……わかった……」
春日王子は静かな声で言った。
「はい……」
「下がってよい……」
舎人はこの先をどうするのか尋ねたかったが、そのような猶予を与えない力のある静かな春日王子の声に、ただ頭を下げてそのまま下がって行った。
「……王子?」
王子の腕の中に抱かれてその体の内側の音が衣服を通して伝わってくるような怖さを感じて、朔は春日王子を見上げた。しばらく正面を見ていた王子は、自分を見上げる朔の視線を捕えた。真顔がいきなり破顔して。
「決めた!」
と明るい声で言った。
朔はどのような意味が分かりかねて戸惑っていると。
「朔!お前を連れて行く!私と一緒に参れ。どこまでも私の傍にいて欲しい。私の行く道が続く限りお前とともにいたい」
春日王子はそう言って、再び舎人を呼んだ。
朔は緩まった春日王子の胸の中で、王子の言ったことの意味を図りかねた。王子はどこに行くというのだろうか。
別の舎人が現れた。春日王子は立ち上がった。
「一旦都を出ようと思う。用意してくれ。……朔、お前は車に乗ってきたのか?」
朔が頷くと、春日王子は舎人の方を向いて言った。
「その車も使ってくれ。いい目くらましになるだろう」
春日王子は言うと、舎人は後ろを向いて行った。
朔は今から何が始まるのかわからず、戸惑った顔を春日王子に向けた。
「ここを一旦捨てる。……今、私は謀反人になると決まった。岩城がそうしないわけがないからな」
朔の戸惑いは放っておいて、春日王子は独り言のように言った。
「おおい!朝(あさ)月(つき)はいるか?」
呼ばれた舎人、先ほど哀羅王子が王宮に入ったことを告げに来た男、が現れた。
「……朝月、勢多(せた)に遣いを飛ばしてくれ。不破を抜ける先の道を確保しておきたい。私は最終的には東国に身を隠そうと思う」
舎人朝月は頷いて部屋から出て行った。
朔を振り返った春日王子は、恐怖した朔の目と合った。
「王子!……これから…」
「これから?今話していた通りだ。都を出る。お前も一緒に来ておくれ。少し不便だが、そんなに苦労はさせないつもりだ」
王子はそう言うと、庇の間に出て侍女を呼んだ。侍女がやってくる衣擦れの音が近づいているところ、春日王子は朔に向かって言った。
「今からいろいろと準備がある。お前は少し休んでおれ」
侍女が来ると、春日王子は侍女に指示をして朔を預けると別の部屋へと行ってしまった。
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