Infinity 第三部 Waiting All Night77

小説 Waiting All Night

 礼は陽が西に傾いて山に落ちていく間の赤くきれいな夕焼けを哀羅王子が寝ている部屋から見ていた。そして、寝ている哀羅王子に視線を移した。睡眠を誘う薬を飲ませたから王子は眠っているが、時折、うなされるように言葉にならない声を上げて、苦しそうに息をしている。何度か冷ました薬湯や水を飲ませて様子を見ていた。
 目が覚めれば、哀羅王子の体も一つ山を越えたと思えた。
 一旦本家に帰った夫の実言はまだ戻って来ない。夫がいないと少し不安ではあるが、邸の警備は強固で、外からの侵入の心配はないはずだ。この静かな邸で、哀羅王子の体がこのまま順調に回復すれば、実言の望む哀羅王子の未来が見えてきそうだった。
 今も王子は苦しそうな息遣いをして眠っている。
 礼は時折王子の額や首筋に浮いた汗をぬぐった。
 今の自分はただこうして傷口をみて、水を飲ませて見守るしかない。実言が良い医者とおだてるが、最後は哀羅王子の体力や運にかかっている。それを最大限に引き出すのことが今礼がやることだった。夫が願うことは礼も願うことだ。哀羅王子に襲われそうになってから初めて会う哀羅王子に礼はまだ怖さがあったが、傷に苦しむ王子は礼が助けるべき患者なのだ。
 礼はじっと、哀羅王子の顔を見つめていた。すると、後ろに侍女が現れた。交代の時刻だった。侍女がそっと哀羅王子の頭を持ち上げて、礼が椀に入れた水を少しずつ飲ませた。ゆっくりと嚥下するのを見守ってから礼は部屋を出て行った。
 庭には篝火が焚かれ、岩城家から来た男衆の人数が多くなった。簀子縁を進みながら、礼は夜になったのかと思った。
 自室として与えられた部屋に戻って体を横たえた。
 実言は子供達に会っただろうか。そして、子供達の声を聴いてくれただろうか。ただでさえ寂しい思いをさせてきている子供達だから、できるだけ傍にいてあげたい。こうして、一日以上も顔を見ないのは実言を追いかけて戦場に行って以来のことだった。
 二人とも怒っていないといいけれど、と礼は我が子のことを思った。
 双子は時に協力して礼が良い母親でないことを責めてくる。二人でぷいっと横を向いて、自分たちを蔑ろにすることに抗議する。礼が患者を診る時間を優先したり、後宮に行ってしまって子供達と過ごす時間が少なくなると、そんな態度を取って礼を困らせる。
 幼い我が子のその姿に、自分の不甲斐なさを悲しく思うとともに礼を求めてくれているからこそとその思いが愛しくもなる。 
 礼は体を横にしたらそのまま眠って夜明けとともに起きてから、哀羅王子の付き添いの交代のため王子の寝所に戻った。
「礼様。王子様がお目覚めになりそうですわ」
 振り向いた侍女は言った。礼はすぐに哀羅王子の傍に駆けつけてその様子を見た。王子の瞼は今までにないほど動いていた。
「安和也(あわや)を呼んできて」
 実言がいない間、この邸を取り仕切る役目の舎人のことである。侍女は急いで簀子縁へとかけて行った。
「王子様!哀羅王子様!」
 礼が呼ぶと。
「ううっ……」
 とうめき声が上がった。礼の声が聞こえているのだ。
 簀子縁からは複数の慌ただしい足音がした。安和也ともう一人の男、そして呼びに行った侍女が飛び込んできて、哀羅王子の周りを囲んだ。
「王子!」
 安和也が呼ぶと、薄っすらと哀羅王子の目は開いた。
「王子様!」
「王子!」
 礼と安和也は同時に呼んだ。
 哀羅王子の開いた目は焦点が定まらずぼんやりと天井を見上げていた。
「王子!」
 安和也の声の方に哀羅王子は少しばかり首を傾けた。そして、そこに男がいることを確認して、反対側へも顔を動かした。礼は哀羅王子と目を合わせたが、王子はすぐに真上を向いて目を閉じた。一時の意識の戻りだった。
 哀羅王子が左右を見たのは、実言を探したのだろう。
 哀羅王子は再び深い眠りに落ちた。
 礼は安堵した。安和也もほっとした表情をして、二人は視線を合わせた。
 礼は立ち上がると、安和也も立ち上がり庇の間に出た。そこで、礼は言った。
「実言はまだ戻らないのかしら?哀羅王子様がお目覚めになったこと、知らせたいわ」
 安和也は黙って聞いているが、そうするとは言わない。
 邸の出入りは制限されていた。邸の外には、春日王子の間者が見張っていて、隙があれば忍び込もうとしているためだった。
 実言に哀羅王子が目覚めたことを伝えたいが、邸から使者を出すにも容易にできない状況だった。
「無理は言わないわ」
 礼は言って、哀羅王子の元に戻った。
 王子の様子を見ていた礼は交代の時間になり、部屋へと戻った。昼間だというのに、すぐに横になって眠ってしまった。
「礼様……」
 小さな声が礼を控えめに呼んでいる。礼は不覚にも深く眠ってしまって、何度か呼ばれた後に、目覚めてすぐに枕から頭を上げた。
 外は夕暮れのような薄暗さである。
「すぐに王子の部屋に行くわ」
礼は少し寝ぼけた頭をはっきりさせようと、起き上がって両頬を挟んでしばらくじっとしていた。部屋の隅に置いていた洗顔の盥の前に行って顔を洗ってから、庇の間に出た。
 待っていた侍女は少し笑みを浮かべて簀子縁を進む礼の後ろをついてきた。礼は少し不思議に思ったが、問うことなく哀羅王子の寝所に向かった。庇の間に入った時に、御簾に隠れてその中は見えなかったが、話す声が聞こえた。
 ああ、この声は。
 礼はすぐにわかった。侍女が微笑んでいたのは、この人が戻ってきたので、私が喜ぶとわかっていたからかと、礼は合点した。 
 実言は眠っている哀羅王子の枕元に座って安和也と話をしている。礼達はそのまま庇の間に座って話が終わるのを待った。
 実言は哀羅王子の様子を聞きながら、後ろに衣擦れの音がしたのを敏感に聞き取って、ゆっくりと左顔を几帳の間から庇の間に向けた。切れ長の目がそっと礼を捕えた。流し目が少し微笑んでいるように礼には見えた。
「では、王子が目覚めたら呼んでおくれ」
 実言はそう言って立ち上がり、庇の間に来ると、礼の隣にいた侍女がそっと、礼を実言の後ろに付き従わせるように礼の体を押し出した。
 礼は驚いて、侍女を振り向いたが侍女は微笑むばかり。これから交代の時だというのに、気を使ってくれているのだと礼は察して、すぐに戻ると小さな声で言い置いて、夫の後を追った。
 実言の部屋に礼が遅れて入って行くと、舎人たちは静かに部屋を退出していった。
「これからお話し合いでしたか?お邪魔でしたか?」
 礼は、庇の間で実言にそう声をかけた。
「邪魔なものか。あいつらも、これから眠れると喜んでいるよ」
 実言は答えて、礼を手招きした。礼は黙って実言の傍に行った。
「哀羅様が目覚められたみたいだね。今はよく眠っておられるが。お前はどう思うかい」
「このまま安静にして過ごされれば、傷は順調に癒えて元気になられるはずだわ」
「そうか、お前やみんなが付きっ切りで看病してくれているからだろうね」
 実言は妻の苦労を労った。
「いいえ、王子様の生命力の賜物です。王子様が痛みに耐え、生きるために我慢されたのよ」
 礼はそう言って謙遜した。
「早く王子の体力を回復させたい。事は悠長に構えていられなくてね。できれば明日にでも王子を宮廷にお連れしたいのだ」
 実言はさらりと言ったが、礼は耳を疑って、すぐに言い返した。
「それは無理よ。一度目覚められただけで、水と薬湯しか口にされていないわ。宮廷まで移動する体力はまだ付いていらっしゃらないわ」
 実言は頷いた。
「まだ王子様には安静が必要よ」
 礼は実言を見上げて言ったが、それを遮るように実言は礼を抱きしめた。
「実言」
 実言は何も言わない。礼は哀羅王子の体のことを思いながら、夫が狂気の手前に立つ心情を思った。
 実言は疲れた声音を隠さないで言った。
「おいで。少し私につき合っておくれ。本家でもゆっくりと休むことはできなかった」
 部屋の奥の几帳の中には簡易の寝所を作っていて、褥が敷かれていた。礼は実言とともに褥の上に寝転んだ。
「実津瀬と蓮は邸の子供達と仲良く遊んでいたよ。早くお前を邸に返さなくてはいけないね。あの子たちに恨まれそうだ。お前がいないことを寂しがっていたからね」
 礼は実言の胸の中でその顔を見上げて、子供たちの様子を聞いた。子供達のことはいつも心のどこかに引っかかっている。でも、今は哀羅王子のことを投げ出すことはできない。
「……早くあの子たちに会いたいわ」
 礼は言うと、実言は礼の体に回した腕をすぼめて礼を強く抱いた。
「そうだね」
 実言の言葉に礼は頷くだけだ。実言は目を瞑って、胸の中で礼の頭が小さく動くのを感じた。礼も実言に負けないほどにその体に纏わりつくように抱き着いた。しばらくすると、実言の静かな寝息が聞こえてきた。眠りの浅い実言を起こさないように用心をして、礼は起き上がり、疲れの色濃い夫の寝顔を見つめて、その頬を撫でて愛しんだ。

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