Infinity 第三部 Waiting All Night76

椿 小説 Waiting All Night

 再び目を覚ましたのは夕方だった。
 春日王子は褥の上で伸びをして、天井をぼんやりと見つめた。
 やはり、邸の外も中にも変化はないようだ。
 岩城がぼんやりしているのだろうか。園栄に限ってそんなはずはない。何かを考えているはずだ。これが、嵐の前の静けさというものだろうか。
 春日王子には切迫した感情はなく、体を起こし、傍の水差しの口の先から直接、水を口の中に入れた。
「王子、お目覚めですか?高足様がいらっしゃっています」
 舎人が几帳の陰から声をかけた。
「いつから?」
「つい先ほどいらっしゃいました。お目覚めまで待つとおっしゃって、お部屋でお待ちです」 
 高足貫之は、春日王子を支える臣下の一人である。夕方に、何を言いに現れたのか?
「用意するから。そのまま待たせておけ」
 と春日王子は言った。
 身なりを整えた春日王子が簀子縁から庇の間に入ると、貫之はすぐさま振り向いた。
「春日王子!」
 貫之は立ち上がって、こちらに向かってくる春日王子の横につき、まとわりついて話始めた。
「皆が心配しております。だからと言って大勢がぞろぞろとお邸に参っては、何を企んでいるのかと、宮廷にあらぬ疑いをかけられては困りますゆえ、私が代表してこちらにお伺いしました」
「何を心配しているって?」
 急に春日王子は振り返り、一方後ろを歩く貫之は春日王子にぶつかりそうになって、体を反らして止めた。
「……都中で、春日王子が大王の座を奪おうとしていると噂されています」
「私が、大王の座を?」
 春日王子は、心外なっという声を出したが、顔は怖い顔をして貫之を見た。
「誰がそんなことを?」
「月の宴の準備の時に久留麻呂が酔って話したことは、春日王子のことだとまことしやかに、また尾ひれ背びれがついて面白おかしく話されているのです」
「例えば、どんなことを?」
 春日王子は、貫之の顔から視線を外して、部屋の奥の円座に座った。
「大王は、息子の香奈益王子に王座を譲りたいはずだが、それを弟の春日王子が黙って許すだろうかと。自分が座る玉座に甥が座るのを指をくわえて見ていられるだろうかと言っております」
 続けろと、春日王子のすがめた目は言っている。
「最後には、戦で決着を付けなくてはならないのではないかと。近々戦が始まるのではないか。そうなったときにどちらに味方する方が得かなどと、笑って話しているのです」
 春日王子は左手で頬杖をついて、じっと向こうに見える庭を睨んだ。
「どれほどの人間が信じているんだ?そんな話を」
「庶民は面白おかしく話しておりますが、橘殿と鹿(しか)刀(とう)殿のお二人が真剣な面持ちでお話しされているのを宮廷でお見かけしました。そのように力のあるお方々が真面目なお顔で話されているのを、下っ端の役人たちが真に受けて、役人たちの間に多く話されるようになっております。役人たちは戦になれば、家は焼かれ、住むのも食べるのも大変だと話しております」
 春日王子は首を一度回して、再び頬杖をついた。
「皆の意見は分かれております。香奈益王子は若く、病弱で、政の経験は皆無。それを考えれば春日王子は、これまでの日照りや飢饉への対応、または北方、南方の夷狄との戦にも勝利しており、春日王子の手腕を頼む者はたくさんおります。春日王子を次期大王として求める声が多くあります」
 春日王子は小さく頷いて聞いているが、何も言わない。
「しかし、謀反人の烙印を押されては、大王はあなた様を許されないかもしれません。いくら王子の支持者がいても、謀反人について行く者はいますまい。どうか、春日王子が謀反を企てていると誰かが言い出す前に火消しをしてください。そうでなければ、我々はどうなってしまうか」
 春日王子は大きく頷いた。
 無能な暴君になるつもりはない。それは、今貫之が言ったように、これまでの春日王子の宮廷での働きが評価され、支持されていることでも明らかだ。この国を大きく、美しく、豊かに栄えさせることを考えているのだから。
 甥の香奈益にどれほどの覚悟と見通しがあることだろう。
 年端もいかぬ、若い、政にも携わったことのない男が、どのようにこの国の未来を描いていることだろうか。
 しかし、今、その若造をつぶしにかかるのはどうだろう。貫之が言うように、皆が我に信頼を置いてくれているが時期尚早だと言いたいのだろう。
 大王には、良くも悪くも岩城一族がついている。
園栄は大王にならず、この国の未来を思うようにできる地位と立場を得るために努力を惜しまない。
 春日王子は、謀反人としての烙印を押させようと、岩城が都に噂を流させていると思った。口さがない庶民や、下級役人たちが自然に噂しているように見えて、焚きつけているのは岩城配下の役人たちではないか。そうして、噂がまるで事実のように大王の耳にまで届いて、春日王子は罪を被ることになる。
 それを、岩城園栄、蔦高、実言は仕掛けているのではないか。
 そうであれば、何はともあれ、春日王子は火消しをするべきだろう。相手の仕掛けにはまる必要はない。ここは、謀反の罪をかけられないように、宮廷に行って大王に話をするべきだろう。自分の恭順の気持ちを示して、都を覆う噂を嘘と打ち消さなければならない。
 しかし、育てたこの野心を、どう覆い隠して兄に会えばいいのか。
 大王の座につき、我が描く国の形を作るというこの野望を。
 だから、春日王子はすぐさま立ち上がって、王宮に駆けつけ、兄に弁解する気にはならなかった。
 いつか剥く牙を今剥くか、もう少し後に剥くかの差である。
 密かに進めていた、戦の準備が完全に整わないことが心配ではあるが、兄もすぐに軍備を揃えられるわけでもない。
 大王といえども、平時である今、馬や武器を集めるのは難しいはず。それよりも、戦の原因になる時期大王は誰がふさわしいのかという話だ。その議論が臣下の中に巻き起これば、春日王子の支持は集まるとみられる。勝ち目のない話ではない。
 ああ、そうだ。
 春日王子は、頭の隅に追いやった自分の過ちを思い出した。
 哀羅に持たせたあの連判状が岩城の手に渡っては、どのように議論を起こそうとも、謀反人にされてしまうだろう。 
 まだ、哀羅は岩城の別邸に隠れているらしい。あの男を生かしておくなんて、許すことはできない。何かしらの報復を与えなくては、仲間たちの心も安らぐまい。
 やはり春日王子は、兄の心を欺くために立ち上がって王宮に行くことに、どうしても心は動かなかった。
 野心を隠したところで、隠しきれるものでもない。そうであれば、皆に見せつけて誰がこの国の王に相応しいか問いたいと思った。
 春日王子には己の才覚でこの国を守り、強くし、豊かにしてきた自負があった。大后と岩城園栄の言うことに頷くだけの兄とは違うのだ。

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