実言は他に二人の部下を連れて、徒歩で門を出た。従者姿の男三人が出てきたところを、春日王子の間者は見ているだろうが、同じような背格好のみすぼらしい男たちなので、誰が岩城実言なのかわからないだろう。実言は他の男たちと邸の修繕の話をしながら、ゆったりとした雰囲気で歩いて行き、従者たちの日常の一風景のように見える。
実言たちは、都の中心を通る大路までの長い道のりを歩き大路を横断して、とある邸の入り口へと入って行く。岩城家配下の貴族の邸で、実言が待たせていた部下が馬を連れて待っていた。実言は着ていた従者姿の衣服を一枚脱いで、貴族の衣装へと早変わりし、馬に跨ると、待たせていた部下たちとともに邸の裏から出て、自邸に走った。一緒に徒歩できた部下たちは、少し休むと、また元の別邸へと戻って行った。
実言は我が邸に戻ると、渡道が待ち構えていて、すぐに口を開いて詫びた。
「ねずみが潜り込んでいたとはわからず申し訳ありませんでした」
ねずみとは春日王子の間者であった間羽芭のことである。地方から出てきた青年が春日王子陣営の間者であるとは夢にも思わなかった。
「ああ、こちらも偵察はいろいろやっているんだから、相手も同様にやっていることだろう。しかし、邸の者が殺されたのは悲しいことだ。礼を苦しませてしまった。同じように、束蕗原の去様にも申し訳ないことをした」
実言はうつろな目で呟いて、それを吹っ切るように視線を上げた。
「哀羅様から預った物を見せてくれ」
すぐさま箱に入れて厳重に守っていた物が持ってこられた。
実言はゆっくりと革の帯を取り出しその間に挟まった書状を手に取って開いた。そこには、春日王子の世を求めそのために支えることを誓った者たちの署名があった。その署名の筆頭は哀羅王子である。そして、十人ほどの王族や貴族たちが名を連ねていた。最後は宴の前日に失言をした久留麻呂の署名があった。
久留麻呂は消されたとの噂があるが、それはもう噂ではないだろうと実言は思った。
これをどう扱うか。
実言は哀羅王子を救いたかった。これをこのまま岩城が大王のところに持って行っても、哀羅王子はこの連判状に名を連ねた者たちと同じでしかない。それを避けるためには、哀羅王子自身が自分の過ちをお詫びして、自分のその判断を悔い、許しを請わなければならない。そうすれば、一縷の望みとして謀反人の罪を免れるかもしれない。
命とその地位を許されること。それができれば、王子の未来は開けるはずだ。
実言は自分一人の力でできるわけもなく、傍にいた渡道に言った。
「本家に行く。父上に会わなければ。衣装はこのままで、馬と腕のある男を二人つけてくれ」
渡道は頷いて、すぐに後ろに控える舎人に伝えた。
「ああ、その前に子供達の顔を見ていこう」
実言は、子供たちの部屋のある棟に渡った。
実津瀬と蓮は、部屋の前の庭に出て邸の他の子供達と走り回って遊んでいる。
「お父さま！」
「お父さま！」
二人は同時に父親が簀子縁を歩いてくる姿を見つけて、声を上げた。毬遊びに手を止めて階の下に駆け寄ってきた。二人が駆けだしたのを、他の子供たちも追った。
「実言様！」
従者や侍女の子供たちも邸の主人である実言に慣れ親しんでいた。
実言が階の下まで降りると、双子は父親の両脇を陣取った。
「二人ともいい子で遊んでいるね。みんなと仲良く、楽しく」
三人を囲むように、他の子供達がにこにこと笑って立っている。実言はみんなを見回して、嬉しくなった。
実津瀬と蓮の頭を撫でていると、蓮がお父さまを見上げて言った。
「お母さま、いなくなったの。どうして？」
母親によく似て、下から見上げる大きな瞳が揺れていて、可愛らしかった。反対側からは実津瀬が言った。
「お出かけされて、そのまま。お邸にかえってこないよ」
と寂しそうな表情をした。
「もうすぐ帰ってくるよ。お父さまが約束しよう。それまで、みんなで仲良く過ごしていておくれ」
二人はお父さまのいうことを黙って聞いて、最後には頷いた。
「いい子だね」
実言は二人の体を抱き寄せた。二人は寂しそうな顔ではあったが、最後は口の両端を上げてにっこりと笑った。
実言は寂しい思いをさせていることを心苦しく思いながら立ち上がった。
「お父さま！」
再び哀しい顔をして、実言を見上げる二人に実言は後ろ髪を引かれる思いだ。
「ご用が終わったらすぐにお母さまと一緒に帰ってくるからね。待っておいで」
再び母屋に戻ってきたら、すでに本家に行く用意はできていた。実言は哀羅王子から預かった書状を革に挟んで腰に巻き、部下二人とともに馬に乗って出て行った。
勝手知ったる本家の部屋に通されたら、父親と兄の二人が額を突き合わせて話していた。息子の顔を見上げた園栄は、すぐに声をかけた。
「哀羅様は？」
「まだ何とも。礼が懸命に手当てをしています」
園栄は頷いた。実言は兄の隣に座って話に加わった。
今、宮廷では、春日王子の動きが噂されてた。兄の蔦高が宮廷に出仕した際に、二日前の久留麻呂の発言から、春日王子は大王の座を奪おうとしているのではないかと噂された。今の大王を見たら、次の御代は息子の香奈益王子へと継がせたいと思われて、大兄(おおえ)の地位にある春日王子は黙っていないと思われた。そうなれば、戦乱が起こるのも現実的に思えた。先帝から今まで政争は無縁であったが、ここにきて大王とその異母弟にあたる春日王子の争いが起こるのではないかと言い合っている。それに皆が恐怖しているのだ。
時には大王よりも前に出て政を仕切ってきた春日王子の陰が最近では薄くなり、大王の傍には息子の香奈益王子の姿が目立った。春日王子にとっては面白くないだろうし、大王が本気で香奈益王子を次の大王にしようとするなら、それを黙って受け入れる人物とは思えなかった。
春日王子がどう思っているかは不明だが、宮廷の下級官僚同士の何気ない会話が噂となって風に乗り、都を覆って行っていくのだった。
「父上、どうぞ、これです」
実言は二つ折りにした革を開いて、挟んでいた書状を取り出した。
園栄は受け取り黙って書状を開いて目を落とした。
「どうですか？」
一通り見終わって目を上げた園栄に実言は言った。
「ふむ。これをどうするべきか。大王に訴えるのは簡単なことだが、そうすればここに名を連ねた者は皆同罪になってしまう。それでは、哀羅王子を救うことはできない」
「やはり、哀羅王子自らが弁明をする機会を作りたいと思います。あの方の将来のために、私ができることをしたいと思います。だから、父上、お力をお貸しください」
実言は隣の父親にかしこまって座り、頭を下げた。
「そうだな。お前の言うことに従おう。お前の考えを教えてくれ。道々考えていたんだろう？」
と園栄は息子に言った。
陽も高くなって、気温も高くなると部屋の中は蒸し暑い。
朔は部屋の風通りをよくしてほしいと侍女に言いつけて、庇の間と簀子縁の間に御簾を垂らして、身近に几帳を置かないようにした。
庭に面する三方は御簾で覆われていて、部屋の中は薄暗かった。朔が一人にしておいてほしいというので、几帳とともに隣の部屋に控えた。
朔は最近の体調がすぐれない様子を側近の侍女達にも触れられたくなかった。ただ黙って見守って欲しかった。
隣の部屋から侍女が控えめに声をかけた。
「旦那様がいらっしゃいました」
肘掛けに寄り掛かっていた朔は体を起こした。
「……荒益が」
そう言った時には、左の簀子縁を歩く足音が聞こえてきた。
今は体調がよくないから、会えないと伝えてもらおうと思ったが、そんな暇を与えず、荒益は突然やってきた。
妻戸が開いて、荒益が御簾に囲まれた部屋の中に入ってきた。
荒益は、部屋の奥に一人ぽつんと座っている朔を見つけた。
朔は妻戸が開いたところで荒益が入ってきたことが分かったが、胸が苦しくなるのを感じて顔を荒益から背けてしまった。
「周りを御簾で囲ってしまってどうしたの？こんなに晴天なのに」
部屋の中の薄暗さに怪訝そうに荒益は訊いて、朔に近づいてきた。
「……」
朔は少しの間無言であったが、やっとのことで言葉を発した。
「暑さに体がまいってしまって体も気持ちも少し臥せっているのよ……」
朔は荒益の方に顔が向けられないまま、切れ切れに言った。
「そう。どうしたことだろう。医者から薬をもらわないと。もう、医者に診てもらったの？」
朔は首を横に振った。
「じゃあ、すぐに医者を呼ぼう。おい！」
「いいえ、あなた、待って！蒸し暑いのに体が慣れないだけよ。煎じた薬草を煮出して飲めば体も楽になるわ」
朔はその時、荒益の顔を刺すようなまなざしで見た。
荒益の声で部屋に入って来た侍女に荒益は。
「ああ、悪い。下がってくれ」
と言って、隣の部屋に戻した。
「心配だよ。顔色も悪い」
荒益は迷いなく朔の両頬を両手で掴んで、顔を見つめて、その目の奥を覗き込んだ。
朔は荒益の行動に内心驚いたが、ごつごつとした手の感触の割に優しい動きに身を任せた。
「どうしたのかしら、暑さに体が慣れないみたい。でも、二三日も経てばよくなるわ。あなたに心配をかけてしまってごめんなさい」
朔はそう言って、荒益の両手の中で微笑んだ。蕾が咲きどころを見極めたように、朔は美しい顔をほころばせた。
「なら、よいが。今のお前はとても儚く、こうして抱きとめていないと消えてしまいそうだ」
荒益は朔の顔をつかんだ両手を解いて、体の方へ手を移して抱いた。
「まあ、そんな悲しいことを言わないで」
朔は荒益の胸の中に身を任せて言った。
「今日はどうなさったの。もしかして、伊緒理のこと？」
荒益は伊緒理の名前を聞いて、腕の中の朔を見た。
「ああ、あの子も少し体の調子を崩してしまってね。ここに戻したいのに、思うようには行かないよ。今日来たのは、お前が後宮の姉さまのところに行っていないと聞いて、心配したのだよ」
朔は顔を伏せた。
「幹様に申し訳ないですわ」
「いや、いつもはお前が姉さまの我儘によく応えてくれていることだから、気にすることはない。姉さまから、お前の体が心配だと手紙が来てね。月の宴の後で、私は忙しくしていたからお前の体のことは知らなかった」
「いいえ、少し調子を崩しただけよ。心配には及びません」
朔はそう言って、夫の胸の上に顔を伏せた。
「ここに来てお前の顔を見たら心配になったが、そういうなら安心した」
「暑いのが、体に堪えるの。風通しをよくするために御簾を下ろして、几帳は取っ払ってしまったわ。じっとしていれば、体も楽になってきます」
朔は極めて夫に心配させないようにと思って笑顔を作った。
「そう。煎じた薬湯をよく飲んでこの季節を乗り切っておくれ」
荒益は再び朔の顔を見つめて言った。
月の宴の前日から宮廷内は不穏な噂が流れていた。そんなものは、無視していればよいが、我が妻の浮気相手が謀反の企てがあると囁かれている。浮気相手として公になっているわけではないが、もし謀反の企てを暴かれることになれば、その人に繋がっていた者を回りの者が次々と告発して、朔にもその告発がなされないとも限らない。妻だけでなく、我が一族にもその罪が及ぶとなると悩ましいところである。妻の様子を見に来たら、真っ白な顔をして、愛人の元へ行くような顔ではなかった。
「横になっておいで。私が傍についていてもいい」
「お忙しいでしょうに。申し訳ないわ」
「許す限り傍にいよう。お前が大事だよ」
荒益は奥の部屋の寝所を整えるように命じて、朔とともに入った。
朔は疲れていたのか、夫に手を握ってもらっていると、いつの間にか眠りに落ちて行った。
荒益は、月の宴の裏で起こっている春日王子と岩城家の攻防を感じ取っていた。月の宴の二日前には久留麻呂の失言があり、宴当日の春日王子と哀羅王子との追いかけっこに岩城実言が加わって、都は何かが起こる気配を感じていた。宮廷内は皆が不確かな情報を確かなものにしようと、知り合いの顔を見つけると立ち止まって、何か知っていないか話し合っている。
荒益も実言に聞けば一発で分かることかもしれないが、実言は宮廷には来ていないようだった。
都を吹き抜ける風のごとく話される噂が我が一族に、どのような影響を与えるのか。それが、我が妻が呼び込む災難になるかもしれない。荒益はそれに備えて、妻も一族も守ろうと決意するのだった。
コメント