礼は子供達を寝かしつけた後、自分の寝所へ戻り灯台の元で叔母の去から譲り受けた薬草の本を読んでいたが、いつの間にか眠っていた。夜明けとともに目を覚ますと、とっくに灯台の火は消えていたが、それよりも夫の実言が帰っていないことが気になった。
夫の不在は慣れているが、いないと思うとやはり寂しい。
陽も高く昇るころには子供達が起きてきて、元気な足音を踏み鳴らした。お父様とお母さまの寝所につながる渡殿を越えていいものか思案している様子を感じ取って礼は自ら簀子縁へ出て行った。お母様の姿を見つけた子供達は喜色を隠さず、礼に向かって走り出した。
「二人とも早起きね」
礼が声をかけると、二人ともが一斉に話し始めた。それぞれの言うことを聞き分けて頷いていると、子供達の後ろから声が掛かった。
「朝から元気だね。楽しい声が聞こえる」
そう言って現れたのは実言だった。
「お父さま」
二人の声が重なった。実言は渡殿を渡ると子供達を腕の中に入れて抱いた。もう大きくなった二人をいっぺんに抱き上げることはできず、跪いて抱き締めるのだった。
まだ寝衣の二人を侍女に託して、礼は夫とともに寝所に入った。目を赤くしている実言は一睡もしていないとわかった。
「少しお休みになりますか?」
礼が尋ねると。
「ん……そうだな」
と言って実言は自身の顔を撫でた。自分が疲れていることを自覚したようだった。
「礼、私が眠りに落ちるまで傍にいておくれ」
後ろにいた礼の手を取ると、礼が寝て起きたままの褥の上に一緒に倒れ込んだ。
「とてもお疲れのよう」
礼の後ろから実言が腕を回して抱きしめてくるところを、礼は後ろに顔を向けつつ言った。実言は礼の長い髪の中に顔を埋めて、吐息をついた。
「予想もしないことが起こってね、先ほどまで父上や兄上と話し込んでいたのだ。月の宴直前にどうしたものか。宴が終わったら……大きな争いが起こるかもしれない」
礼の背中に向かって話される言葉は小さな声だが、礼にははっきりと聞こえた。礼が少し緊張して身を固くしたのを感じたのか、実言は顔を上げて礼の耳元で囁いた。
「争いが起こっても、一族に危害を加えさせない。守る。真皿尾の家も守るから、お前は何も心配しなくていいよ。ここに子供達と一緒にいてくれればいい」
礼は返事の代わりに、自分の胸に置かれた実言の手を上から強く握った。
「こっちを向いて、私を抱いておくれ。そうしたら、すぐに眠りに落ちていけそうだ」
礼は言葉に従って実言の方へ寝返り、実言の頭を胸に抱いた。そのそばから、実言は寝息をたて始めた。
春日王子は夜明け前に女が寝ている寝室ではなく、自分の部屋に戻った。灯台を一つ灯して円座に腰を下ろした。
もうすぐ夜が明ける。まだ、検非違使が動いたとの報告はない。しかし、もうじき、宮廷には役人たちが出てきて、人が動くだろう。そうなれば命令が出るかもしれない。組織が動きだせば、春日王子としてもどうにもできない。
早く自分を支持する貴族や地方豪族に指令を出してつなぎとめておかなくてはいけない。軍備も整い始めた時だというのに。
春日王子は肘掛に身を預けて頭を抱えた。
時間を稼がねば。人心を引き付けるために、力があることを知らしめるためにも、軍備を早急に整えなければならない。
それと同時に。
皆に書かせた連判状は、自分の手元に置いておかなくてはいけない。哀羅との会話では一旦引き下がったが、今となっては哀羅が一番信用ならない男だ。あれを持って、大王の前に出て懺悔すれば、己の命だけは助かるかもしれない。春日王子たちを売って、真に宮廷に返り咲くために一発勝負をかけることも考えられる。
一刻も早くあれを取り戻したい。正面からいっても、あれを素直に返すとは言わないだろうから、奪うしないだろう。もう、哀羅をあてにはできない。
哀羅王子は、春日王子邸で皆が去った後、夜明けの町中を一人歩いて自邸に戻った。その時、早朝の仕事に向かう下級役人たちの何人かとすれ違った。夜這い帰りの遊び人を見るような視線を控えめに送られた。しかし、その顔を正視した者は、はっとして目を伏せた。すれ違う男は、その顔をまっすぐに上げていて、女のところから帰っているようには見えない。目は光っているが不気味なものではなく、爛々と決意に満ちた様子である。その力強さに、気圧される思いを感じた出勤途中の役人は目を逸らすのだった。
哀羅王子は、都の真ん中を南北に貫く大路を南に向かって歩いた、目を差すようなまばゆい朝日に顔を照らされながらも、その光に挑むように前進した。
今もどこかに間者がいるだろう。その目をかいくぐって事を成し遂げなくてはならない。あの場では、春日王子は連判状を自分に預けたままでよいと言ったが、本心はそのようなことは一分も思っていないはずである。力づくで奪いに来るだろう。その前に、安全な場所に移さなくては。
安全な場所とは、あそこしかあるまい。
そこは、岩城実言の元だ。
どうやってあの場所に持って行こうか。これからは数刻も無駄にはできない。
哀羅王子が自邸の塀に沿って歩いていると、門の前を行ったり来たりしている男の姿が見えた。哀羅王子に背を向けていたのがくるっと振り返ってこちらに歩いてくるのに、哀羅王子を見つけて走り出した。
「王子!お戻りになりましたか」
走り出したといっても、年寄りの歩きが少し早くなった程度で、よたよたと心もとない足取りに哀羅王子は心配した。
「どちらから戻られました?」
哀羅王子の前で止まった老爺はそう訊ねた。
「佐保藁からだ」
「それは遠いところから、お疲れになったでしょう」
そう言って哀羅王子を気遣った。自分が幼い頃からこの邸に仕えてくれている男。この度実言と通じることができたのも、この老爺のお陰だった。再びこのか細い痩せた肩に、重い務めを課すのは忍びなかったが、頼る者はこの男しかいない。
哀羅王子が門の内側に入ると、老爺は門を閉めた。哀羅王子は歩きながら。
「日良居…お前に頼みがある」
首を後ろに向けて言うと、老爺は俯いて従っていた顔を上げてにっこりと笑った。
「はい、どのようなことでしょう」
自分の非力がこの老爺に危ない役目をさせることが情けなくて、哀羅王子は目が潤むのを我慢した。
「あなた様のためなら、なんなりと」
老爺の優しい声が哀羅王子の心にしみた。
月の宴前日は、静かに過ぎて行った。翔丘殿は舞台や装飾の最終準備を終えた。料理の準備をするため宮廷の食膳係と貴族たちが遣わした手伝いの男女が集まって夜通し準備が行われた。
検非違使が町の中を走り回るようなことを想像していた者もいたが、町中は静かだった。しかし、何も起こらないことを不気味に感じる者もいた。
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