朔は後宮から部屋に帰ってくると、庭に面した階の一番上に腰を下ろして庭を眺めた。夏の暑さが緑を鮮やかに燃え立てさせていて、その間に色とりどりの花が咲いている。いつまで見ていても飽きない景色である。
実家の常盤家の庭も広くていろんな趣向を凝らした庭で、朔は好きだったが、椎葉家を代表して幹様の話し相手として後宮へと行って、そこで見る庭は宮廷に仕える者の手によって美しく整備されていて、見たこともない美しい花が咲いていた。それはそれは美しい庭であり、物珍しさが際立っていて見飽きることはなかった。
しかし、それでもどこの庭が好きがと言ったら、椎葉家のこの庭が好きというと思う。荒益と結婚した当時、二人はこの部屋で過ごした。こんな草花を植えたい、この季節にはこんな景色が見たいというと、荒益は家人に伝えて、朔の好みの庭を作ってくれたし、自分も土仕事を厭わなかった。荒益も一緒になって庭に出て、家人にこの樹を植えよ、その花はそこに植えよと言って、二人で作った庭とも言えた。
どこまでも、自分の好みの景色や花で彩られた愛着のある庭である。
「朔様、そんなにも外に長くいらっしゃっては、体に障りますわ。夏といっても、夜は寒うございますから。お部屋にお入りください」
侍女が庇の間から簀子縁まで出てきて後ろから朔に声をかけた。
朔は我に返った。もう西の空は朱く染まっていて、あたりには夕闇が迫っていた。
まだ明るい中で庭の景色を見ていたと思っていたのに、もう夜の手前だ。いつの間にか心は考え事にとらわれて、目は景色を見ているようでそうではなかったらしい。言われてみれば、肌寒いような気がして、朔は腕を胸の前で交差させて自分の両肩を抱いた。部屋に入って円座の上に座ると、侍女は食事はどうするかと尋ねた。
「いらないわ」
朔が答えたのを、侍女は心配して言葉を重ねた。
「しかし、朔様は本当にお食事を摂られていません。これでは、夏の暑さに負けてしまいますわ」
朔はそう言われて、気を変えた。
「そうね。あなたもそう言ってくれるし、食べようかしら。でも、そう多くはいらないわ」
朔がそう答えたので、侍女は安心して部屋を出て行った。円座に座った朔は肘掛にもたれかかって、細い溜息をついた。
それから、侍女が持ってきた膳に少しばかり箸をつけて朔はもういらないと言って、下げるように言いつけた。侍女が膳の上に目を落とすと、ほんの少し形が崩れた料理が残っていた。焼いた魚を少しつついた後や、盛った飯の山の上が一口ほど崩れていることが見られたが、それは食べたと言えるほどの量ではなかった。しかし、もっと召し上がってはと言って朔が食べるとは思わなかった。黙って膳を持ちあげ、部屋を出て行くしかなかった。
朔は再び肘掛けに持たれて休んでいると、急に庇の間から荒益の声が聞こえた。
「朔、どうしたの?体の具合でも悪いのかい?」
朔は驚いた。確かに、今日は後宮の幹様のところに行ったけれども、その日に荒益が訪れるのはまれなことだ。
朔は体を起こすと同時に、几帳の陰から荒益が現れた。
「先ほど、膳を下げている侍女とすれ違った。お前の食事だというが、何も食べていないじゃないか。侍女もお前の体を心配していたよ」
荒益の急な訪れであるが、別の侍女が現れて円座を出した。
朔の前に座った荒益は策に心配そうな眼差しを向けた。
「……暑くなってきて、体がついていってないみたい。慣れてくればまた食欲もわくわ」
「そうかい?……確かに、お前は前より痩せてしまったね」
いたわしそうに顔をしかめる荒益に対して、朔は微笑んだ。
「ところで、あなたは夕餉を召し上がったの?」
朔が訊くと、荒益は答えを言葉にする前に、腹の虫が答えた。慌てて荒益が腹の上に手をやったが、見事に鳴いて答えた。
「ふふふっ。まだなのね」
朔は笑う口元を袖で隠して、言った。
「まったく、私が口で伝える前に、腹が答えてしまうなんて、恥ずかしいことだ」
荒益も大げさに頭をかいた。
「麻、旦那様に食事をお持ちして」
と几帳の向こうにいる侍女の麻に声をかけた。
「今日はここで夕餉を召し上がって行って」
正面の荒益に向いて、朔は乞うように言った。
「私の答えは、先ほど意地汚く腹が鳴った通りさ。ここで、食事が頂けるのはありがたい」
侍女の麻はすぐに台所に走った。そして、戻ってくるまで朔は荒益の姉の幹妃の今日の様子を話した。
「今日の幹様は王女と一緒に庭に出て、夏の小さな白い花を見ていらっしゃいました。私も一緒に白い花探しをして楽しかったわ」
話をしていたら、荒益の夕餉の膳が運ばれた。朔は銚子を取って、荒益に杯を取るように促した。
注がれた酒を飲みながら、荒益は今日、伊緒理のいる別宅に行った時のことを話した。
「行くと、前日から伊緒理が熱を出して寝込んでいたよ。最近は元気で、寝込むこともなかったのに。伊緒理に近々この邸に連れて帰ろうと思っていた、お母さまもお前に会いたがっているよ、と言ったら目に涙を溜めてね。あの子もお前に会いたいのだろう。少々具合が悪くても連れて帰ろうかと思ったりしてね」
酒の無くなった杯に朔は酒を注いだ。
「そう。熱を出したの。今もあの子は苦しい思いをしているのかしら?」
「熱は下がっているが、体が弱っていてね。横になって安静にしている」
「まあ。次はあの子を連れて帰ってきてほしいわ。随分と大きくなったでしょうね」
「確かに、背も伸びて顔立ちも少し変わったかな。幼さが抜けて来た」
「母親はいつまでも子供は二本の足で立ち上がったばかりのつたない言葉しか話さない幼い頃の姿のままと思ってしまうから、伊緒理が大人びた姿に変わってしまったら少し寂しい気がするわ。まだ、私を恋しいと思ってくれる伊緒理に会って、抱いてやりたい」
朔の言葉を聞いて、荒益は微笑んだ。
「そうだな。できるだけ早くここへ連れて帰るよ」
荒益は早くに食事を済ませた。ゆったりと時間をかけて食事と酒を取ると思っていた朔は、内心驚いた。
「味がお気に召しませんでしたか?」
朔の住む離れは母屋とは別に台所を持っていたから、荒益が食べる食事の味とは少し違いが出てくる。今日の料理の味は好みでなかったかと心配になった。
「いいや、美味しかった」
言われてみれば、荒益の前の膳に乗る器の一つ一つは全て食べ尽くされていた。
「お前も、暑さに体が参っているのだろう。早く休んだ方がいい」
「まあ、心配をかけてしまって」
「伊緒理も帰ってくるとなった時に、お前が倒れていては元も子もない。早くおやすみ。……夜に見回りに来よう。何かあればすぐに駆け付けよう。麻!」
荒益は、朔の侍女を呼び朔の体調に異変があればいつでも言ってくるように告げた。
「安心しておやすみ。伊緒理のためにも体を気遣わなければ」
荒益は立ち上がり部屋を出て行く。朔は母屋と離れを繋ぐ渡殿まで付き添って荒益を見送った。
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